コンスタンディノス・カラマンリス
この項目では、20世紀後半にギリシャの首相、大統領を務めた政治家について説明しています。2000年代にギリシャの首相を務めた政治家(本記事の人物の甥)については「コスタス・カラマンリス」をご覧ください。 コンスタンディノス・カラマンリス コンスタンディノス・カラマンリス (ギリシャ語 Κωνσταντίνος Καραμανλής , 1907年3月8日 - 1998年4月23日)は、首相、大統領を務めた20世紀ギリシャの政治家。なお名前の「コンスタンディノス」は「コンスタンティノス」の現代ギリシャ語形である。 目次 1 前半生 2 第一次政権 3 亡命 4 第二次政権 5 大統領職 6 追記 前半生 ギリシャ北部のセレス地方でうまれた。父のゲオルギオスは教師を務め、20世紀始めのマケドニア地方のギリシャ併合運動に参加していた。マケドニア地方で子供時代を過ごした後、アテネで法学を勉強した。セレスに戻り弁護士として働き始めた彼は保守政党人民党( Laikon Komma )に入党し28歳のときに第二次世界大戦前最後の選挙であった国政選挙で当選した。 第一次政権 第二次世界大戦後、カラマンリスは政界で頭角を現し、アレクサンドル・パパゴス首相のもとで公共事業省大臣となった。1955年にパパゴスが死去した。後任にはステファノス・ステファノプロスやパナギオディス・カネロプロスなどの重鎮が指名されると見られていたが、国王パウロス1世は周囲の予想に反してカラマンリスを首相に指名した。首相就任から3回の総選挙を戦い、1961年の選挙まで議会多数派を維持した。1959年にはギリシャ経済活性化の為に5カ年計画を発表し、重工業への集中化と観光の産業化を指令した。この間に彼はパパゴスの設立した'Synagermos'を発展的に解党し民族急進同盟を設立した。一方で、カラマンリスが政権の中心にあった時代は、映画「Z」の題材となったグリゴリス・ランブラキス議員暗殺をはじめ、左翼勢力や労働運動に対する弾圧がひどかった時期でもあり、強権的な手法で政権を率いた。 亡命 1963年7月、パウロス国王によって首相を解任される。カラマンリスが、親ナチス的な言動を取っていたフリデリキ王妃を嫌っていたことが原因であると言われている。その後ギリシャ社会の不安定さが増した。テッサロニキで