糸居五郎



















いとい ごろう

糸居 五郎
プロフィール
出身地
日本の旗 日本 東京府東京市小石川区
(現:東京都文京区)
国籍
日本の旗 日本
生年月日
1921年1月17日
没年月日
(1984-12-28) 1984年12月28日(63歳没)
最終学歴
和田英学院卒
職歴
満洲電電新京中央放送局
→満洲電電哈爾浜中央放送局
→京都放送
→株式会社深夜放送
→ニッポン放送
活動期間
1941年 - 1946年頃
1951年 - 1984年
(アナウンサーとして)
出演番組・活動
過去
『オールナイトジョッキー』
『糸居五郎のオールナイトニッポン』など

備考
第1回国際最優秀エア・パーソナリティ(1974年)、ゴールデンマイク賞(1976年)受賞

アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

糸居 五郎(いとい ごろう、1921年1月17日 - 1984年12月28日)は、日本のアナウンサー、ラジオ・ディスクジョッキー。




目次





  • 1 概要


  • 2 経歴

    • 2.1 アナウンサーに復職


    • 2.2 オールナイトニッポン


    • 2.3 晩年・没後



  • 3 活動年譜

    • 3.1 海外取材歴など


    • 3.2 受賞歴



  • 4 人物・エピソード


  • 5 著書


  • 6 関連項目


  • 7 参考文献


  • 8 脚注

    • 8.1 注釈


    • 8.2 出典





概要


日本のディスクジョッキー(DJ)の草分け的存在として、ラジオの深夜放送で活躍した。


命日の12月28日は、上野修の提唱により、糸居の功績をたたえる記念日「ディスクジョッキーの日」と定められている[1]



経歴


地域向け新聞『小石川新聞』の編集・発行も手掛けていたジャーナリスト・糸居銀一郎の五男(末子)として[注釈 1][3]、東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)音羽に生まれる[1]。東京市指ケ谷尋常小学校(現・文京区立指ケ谷小学校)に入学した1927年にその父を亡くす。小学生時代から、兄の影響でジャズが好きになる[3]。1933年、府立第三商業学校(現・東京都立第三商業高等学校)入学[3]。在学中の1936年、同級の塩田英二郎(のちの漫画家)と共に全国学生ポスター展に入選、銀の優勝盃を受ける[4]


商業学校を卒業した1938年、11歳上の兄が官吏として赴任していた満州に渡り、新京(現・長春市)の和田英学院で英語を学ぶ。1940年に卒業。同年、徴兵検査のため日本に帰国するが、体重が軽すぎたために第二乙種合格となり、徴兵を免れる[5]


1941年5月、アナウンサーとして満洲電信電話株式会社新京中央放送局に入局。当時同局に勤めていた8歳年長の森繁久彌からアナウンス指導を受けた。同年11月には哈爾浜中央放送局に転任[6]。その後ハイラル放送局に転任[6]、1945年、大連で終戦を迎え[6]、満洲抑留の後約1年半後の1947年に引き揚げる[1][6]。糸居五郎は戦前・戦後ジャズを愛好しており、ファッツ・ウォーラー、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、アル・ジョルソン、キャブ・キャロウェイ、レッド・ニコルズ(英語版)らを好んで聴いていたという[1]



アナウンサーに復職


東京へ戻るも、NHKへの入局を望むが定員超過という事情で叶わず[6]、しばらくは東京・神田小川町で、友人と共同出資して輸入食料品店「ひつじ屋」を開業[6][1]、進駐軍物資の横流しで生計を立てたこともあった[7]


アナウンサーとして復職するに当たり、ラジオ東京(後のTBS)、京都放送(後のKBS京都)から誘いを受けていたが、当時開局を控えていた京都放送にチーフアナウンサーとして1951年10月入社。「ヒラのアナウンサーかチーフかという選択肢で、チーフを選んだ」という[3]一方で、KBS側から「家を“かってやる”」と言われてKBSの方を選んだとも言う(「いちアナウンサーのために家を買ってやるなんてありがたい」とこの時は思ったと言うが、「かってやる」とは京都弁で「借りてやる」のことで、持ち家ではなく借家だった。本人はこのことを後々にも笑い話にしていたことがあった)[2]。同局ではニュース、スポーツ中継の担当アナウンサーとして活動したほか、翌1952年には民放初の本格的DJ番組といわれた『アルファベット・ジャズ』を担当[1]。1953年には、国体中継と開局間もない期間のアナウンススタッフ養成を兼ねて愛媛県のラジオ南海(RNB)に出向しており、同局の開局第一声を担当している。


1954年7月、ニッポン放送の子会社・株式会社深夜放送に入社し、『深夜のDJ』という番組を担当。1954年7月15日のニッポン放送開局第一声「ただいまから開局いたします」は、糸居によるものである。1959年10月からは『オールナイトニッポン』の前身番組『オールナイトジョッキー』を担当。1963年2月の同番組において、ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を日本で最初にオンエアしている[1]



オールナイトニッポン


1967年10月、『オールナイトニッポン』が放送を開始し、糸居は月曜日(のちに金曜日や水曜日)を担当(→『糸居五郎のオールナイトニッポン』)。50歳の誕生日を迎えた1971年1月17日午後1時30分より『50時間マラソンジョッキー』を敢行(1月19日午後3時30分ゴールイン)。1972年9月、いったん『オールナイトニッポン』を降板し、音楽番組『ソウル・フリーク』や歌謡番組を担当。しかし、リスナーからの強い要望により、1975年1月に復帰。その間、エフエム東京に出向して「Music Spacial in DAC」という音楽番組を担当していた時期もあった[1]。70年代は糸居五郎や小林克也(1973)の「オールナイト・ニッポン」、石田豊の「リクエスト・コーナー」、大橋巨泉の「ポップスNo1」、八木誠のロック&ソウルの番組、「オール・ジャパン・ポップ20」、「ヒタチ・ミュージック・イン・ハイフォニック」、愛川欽也の番組など、ラジオの黄金時代であった。


1980年6月、ニッポン放送を定年退職。定年記念に公開生放送を行った。定年後も引き続き『オールナイトニッポン』を担当したが、1981年に降板を表明。特別番組となった同年6月30日深夜の最終回の放送は4時間にわたるファンを集めての公開放送となった[1]



晩年・没後


その後もコンスタントにDJや音楽紹介・評論、『イングリッシュ・ジャーナル』においてコラム「ポップスこそわが青春」の連載、東京アナウンスアカデミーで講師を務めるなど活動を続けていたが[8]、1984年12月28日、食道がんにより死去。63歳没。1985年1月14日、東京都新宿区の太宗寺で行われた葬儀では亀渕昭信が弔辞を読み、「君が踊り僕が歌う時…」の『オールナイトニッポン』のキャッチコピーと共に「Go Go Go & Goes On!」の糸居の決め台詞で送った[9]。奇しくも、同じニッポン放送を代表するパーソナリティーである山谷親平が死去してから一ヶ月後の出来事であった。


糸居が生前収集していた大量のレコードなどは没後も東京都内の自宅で妻が保管していたが、転居することになって2013年5月にLPレコード8770枚、EPレコード1955枚、SPレコード22枚、蓄音機、ステレオデッキ、放送を録音したオープンリール、番組に寄せられたリクエストはがき、ファンレター、『オールナイトニッポン』の進行表、生前に受賞した賞の盾などが北海道新冠郡新冠町のレ・コード館(道の駅サラブレッドロード新冠敷地内)に寄贈された[10]



活動年譜



海外取材歴など



  • 1969年6月 ビルボード誌に招待され、ニューヨークで開催された「第2回全米DJ会議」に出席[1]


  • 1971年8月31日 取材のため、オランダ・北海沖の海賊放送船「メボII世号」に乗船、同時にDJも行い、日本のロックも流した[1]


  • 1978年12月 ロンドンで行われた「世界ディスコダンス優勝決定戦」に審査員として出席[1]


  • 1981年2月 ニューヨーク・WBNX局の番組「糸居五郎のニューヨーク・トーキョー・ウィークリー」のDJを務める[1]


受賞歴



  • 1974年8月 第1回国際最優秀エア・パーソナリティ賞(ビルボード誌主催「第7回国際ラジオプログラミング会議」にて)[1]


  • 1976年6月 ゴールデンマイク賞(ニッポン放送から受賞)[1]


人物・エピソード


  • ジャズが好きだったとあって、商業学校の時の卒業論文のテーマは『米国新興企業』と言うタイトルではあったが、その内容はジャズの説明と称賛というものであった[3]

  • 満洲電信電話での面接で口頭試問を行った時に愛読書を訊かれ、本来は『ルナアル日記』(岸田國士・訳)などが好きだったところを、全く読んでいないにもかかわらず『我が闘争』(アドルフ・ヒトラーの著作)と答えたことがあった[2]

  • 満州でのアナウンサー時代、ジャズは敵性音楽として放送を禁じられていたが「やつらはこんなものを聞いてるから堕落する、あなたの耳で確認するべき」「米国の若者たちはジャズ音楽などという、くだらない退廃的な音楽にうつつを抜かしているから戦意を喪失している。だから絶対に敵は日本の軍国魂に勝てっこない」として、「戦意高揚の音感教育」という表向きでジャズを頻繁に放送していた[3][2]。これは上層部を黙らせるための詭弁と言われている[3]。主に当時の放送終了時刻である夜11時前の約5分の時間を利用してこのような放送を行っていた(本人は、この時間は宿直のアナウンサーが原稿無しのアドリブで喋っていい時間であり、他のアナウンサーもやっているような「防空の心得」などのアナウンスを取りあえず型通りやった後にこれを喋っていたと話している)[2]

  • 終戦の1945年から引き揚げとなる1947年まで満洲で抑留されていた当時、放送局も閉鎖となったためアナウンサーの仕事も無くなり、この間は「放送局のスタジオでこっそりジャズを聴いていた仲間」で結成した「大連放送管弦楽団」で活動していた。後にジャズミュージシャンの川口養之助(ジョージ川口の父)に勧められて、営業を再開した現地のダンスホールで働いていた[2]

  • 「Go Go Go! おまけにもひとつ Go!」「Go Go Go & Goes On!」などの、独自の英語交じりのアナウンスで知られる。2009年のニッポン放送開局55周年記念のキャッチコピー「55 & Goes On!」はこれをアレンジしている。このフレーズについては、チャック・ベリーの『ジョニー・B.グッド』が1958年にヒットし、これにおける「ゴージョニーゴーゴー」のフレーズについて「これは使えるな」と思い、また当時ゴーゴーダンスが流行っていたことから、これらに『ゴージョニー・ゴーエンド・ゴーズオン』と『ビート・ゴーズ・オン』の曲名を掛け合わせて生まれたという[8]

  • 「音楽はDJがかけるもの」という信念に基づき、ワンマンDJスタイルにこだわった。ディレクター相手であってもレコードやコンソールに一切触れさせず、リクエストにも耳を貸さなかったことから「最初で最後の職人DJ」と言われた。また、深夜放送の全盛期のころ、リスナーからの意見・投書の紹介が音楽と並ぶ番組コンテンツの主力であった時代も、糸居はそれを極力行わず「あくまでも音楽を紹介してこそがディスクジョッキーの仕事」という精神を貫いた[3]。「選曲を他人に任せているジョッキーは手綱を取らずに馬に乗るようなもの」とも話し、他の音楽番組においても「喋りで本当に音楽というものを把握しているのか疑問を感じる。音楽は単なる紹介や解説をするのではなく、自分のハートで紹介するという心構えでいて欲しい」とも話していた[8]。喋り主体の番組が多くなったことについて「ギャグ、駄洒落など喋り専門の人は今後『ディスクジョーク』と呼ぶことを提案したい。今ラジオには“ディスクジョーカー”が多いですね」とも話していた[8]

  • 「俺はレコードをターンテーブルにおいて、わざわざレコードを半回転させなくても、レコードの溝を一回見ただけで曲の頭出しが出来るんだ」とよく話していたという[8]

  • 『オールナイトニッポン』の初代パーソナリティのひとり・斉藤安弘によれば、糸居は「ダンディズムをそのまま形にした人」だったという[2]

  • 『50時間マラソンジョッキー』の放送終了後、興奮して眠れず近所の焼肉屋へ食事に出かけた際、「あ、糸居さんのお化けがいる」と居合わせたリスナーから驚かれたという[2]

  • 『50時間マラソンジョッキー』の新聞記事に於いて、その痩身から『カマキリゴローちゃん』という呼ばれ方もされていた[11]

  • 1972年、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)の日本武道館コンサート時に、「コンサート開演5分前に武道館でも感じられる大きな地震があり、東京では震度4の中震でした」と情報を告知した後、会場から歓声が起こった。その後「この分だとこの後の演奏は武道館を相当揺らしそうですよ」と冗談を交えたコメントを残していた[12]


  • ヒデとロザンナの出門英とは深い親交があり、出門が糸居の人柄に感銘を受け、付き人のような関係にまでなったという。

  • 毎年7月には静岡県下田市の下田東急ホテルで2週間ほどの夏休みをとっていたことがあり、1960年代にはこの時にいつも同ホテルで会っていたという三島由紀夫とも親交を持っていた。プールやホテルでのパーティーなどで一緒に過ごしていた仲だった[13]


著書


  • 電波塔に乗ったキングコング(ルック社、1976年)

  • 僕のDJグラフィティ(第三文明社、1985年)


関連項目


  • ウルフマン・ジャック

  • 小林克也

  • ピーター・バラカン

  • 八木誠

  • 湯川れい子

  • ロック


参考文献


  • 僕のDJグラフィティ(上記書籍)

  • 月刊ラジオパラダイス 1988年3月号特集『あなたは昔、糸居五郎さんというDJがいたことを知っていますか?』


脚注


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注釈



  1. ^ きょうだいは、四人の兄の他に姉一人。すぐ上の四男は赤ちゃんの頃に亡くなったため、実質五人きょうだいで育った[2]


出典



  1. ^ abcdefghijklmno月刊ラジオパラダイス 1988年3月号特集『あなたは昔、糸居五郎さんというDJがいたことを知っていますか?』(p.38-41)より。

  2. ^ abcdefgh宝島(宝島社)1981年12月号 特集『糸居五郎「ミスター・ディ・ジェイ」』より。

  3. ^ abcdefgh月刊ラジオマガジン 1981年9月号 12-16ページ


  4. ^ 『僕のDJグラフィティ』296ページ


  5. ^ 『僕のDJグラフィティ』299ページ

  6. ^ abcdef放送文化 1972年5月号 p.38 - 39


  7. ^ 『電波塔に乗ったキングコング』97ページ

  8. ^ abcde月刊ラジオマガジン 1985年3月号 20-25ページ「追悼特集 さようなら永遠のスーパーDJ 糸居五郎さん」


  9. ^ 『僕のDJグラフィティ』338~341ページ


  10. ^ 北海道新聞 2013年5月16日朝刊記事「深夜ラジオ人気DJ故糸居五郎さん収集 郷愁の1万枚レ・コード館に」、読売新聞(北海道)2013年6月13日記事「名DJのレコード1万枚、新冠レ・コード館に寄贈」


  11. ^ 朝日新聞 1971年1月20日夕刊7面の記事より。


  12. ^ クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル ライブ盤「EARTHQUAKE - LIVE AT BUDOKAN 1972」1曲目「INTRODUCTION」収録


  13. ^ 週刊文春 1971年2月8日号「わたしの一枚の写真・糸居五郎」








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