叙任権闘争
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年2月 ) 叙任権闘争 (じょにんけんとうそう、独: Investiturstreit )は、中世初期において特にローマ皇帝(俗権)がローマ教皇(教権)との間で司教や修道院長の任命権(聖職叙任権)をめぐって行った争いのこと。 目次 1 背景 2 展開 2.1 カノッサの屈辱 2.2 「聖なる世界」「俗なる世界」 2.3 ヴォルムス協約 3 関連項目 背景 西欧では古代末期以来、私領に建てられた聖堂(私有教会)や修道院が増えていったが、その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。また、世俗権力が強大化していくと、その地域の司教の選出に対しても影響力を及ぼすようになっていった。これは少なからぬ教会財産の管理権を握ることと直結していたので世俗権力にとっても重要であった。中世に入ると、教皇権が伸張する中でこの叙任権をめぐる争いが頻発するようになっていった。 特にローマ帝国内では皇帝が司教たちの任命権を握って影響力を強くしていくことで、教皇選出においてまで影響力を持つに至った。しかし、俗権による叙任権のコントロールはシモニア(聖職売買)や聖職者の堕落という事態を招く一因ともなった。 10世紀にブルグント王国に創立されたクリュニー修道院に対する俗権からの影響力を否定した改革運動や、俗権による叙任を否定した教皇レオ9世、聖職者の綱紀粛正をはかった教皇グレゴリウス7世による教会改革は、教会に叙任権を取り戻そうという流れを生んでいった。ここに至って皇帝と教皇の間で叙任権をめぐる争いが行われるようになった。 展開 カノッサの屈辱 カノッサの屈辱 トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)に、教皇へのとりなしを頼むハインリヒ4世(中央) グレゴリウス7世は教皇権が皇帝権に対し優位にあることを主張し、1076年にローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を破門した。それを受け、ドイツ諸侯たちはザリエル朝のもとで王権・帝権の強化が進んだことに懸念を抱いていたこともあり、ハインリヒの帝位を否定する動きをみせた。こうして翌1077年、自らの政治的地位が危うくなることを恐れたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に贖罪した(