クテシフォン





ホスローのイーワーン


クテシフォンCtesiphon)はイラクにある古代都市の遺跡。バグダードの南東、チグリス川東岸に位置する。




目次





  • 1 概要


  • 2 呼称


  • 3 歴史


  • 4 脚注


  • 5 関連項目




概要


紀元前1世紀頃にこの地域一帯を支配したパルティア王国によって建造され、その首都として栄えた。古代より豊かな土壌で知られたメソポタミアの中心として、また東西交易の重要な中継地としての役割を担い、パルティア滅亡後にサーサーン朝ペルシアの時代になっても首都が置かれて政治と経済の中心地であり続けた。イスラム支配期以降は衰え、廃墟となった。


砂漠地帯に多い日干し煉瓦や、ローマの水道橋などに見られるアーチを組む技術など、まさに東西の交易の中心地らしい遺跡が数多く残っている。



呼称


チグリス川を挟んで対岸にあったセレウキア(セレウケイア)と併せてクテシフォン・セレウキアなどとも称する。クテシフォンの名は古代ギリシア語のΚτησιφῶνに由来する。Ktēsiphônはギリシア語化された発音であり、Tosfōn または Tosbōnという発音を復元音とする説がある[1]。中期ペルシア語(パフラヴィー語)やマニ教文書、ソグド語で記載されたキリスト教文書では Tyspwn / Tīsfōn と記載され、近世ペルシア語では تيسفون (tysfyn)と表記される。シリア語ではܩܛܝܣܦܘܢ Qṭēsfōnと記載された。アッバース朝以降のアラビア語資料では طيسفون (Ṭaysafūn) または قطيسفون (Qaṭaysfūn)と表記され、更に「都市( مدينة Madīna)」の複数形である「アル=マダーイン」 المدائنal-Madā’in とも呼ばれた。アルメニア語史料ではTizbon (Տիզբոն)と表記された。クテシフォンが登場する最初の史料は旧約聖書 のエズラ書[2]であり、Kasfia/Casphiaと表記された。



歴史




クテシフォン・セレウキア(al-Madā’in)の全体図


クテシフォンは紀元前1世紀のパルティア王国の時代に脚光を浴びるようになり、ほとんどの王はここを都とした。その重要性のために、ローマ帝国が東方を征服するときの軍事的な目標となった。クテシフォンはローマ帝国(または東ローマ帝国)により5回占領されたが、そのうち3回は紀元2世紀のことである。トラヤヌス帝は116年にクテシフォンを占領したが、1年後にハドリアヌス帝は和平のために返還せざるを得なかった。ローマの将軍アウィディウス・カシウスは164年、対パルティア戦争の間にクテシフォンを占領したが、和平により放棄した。197年、セプティミウス・セウェルス帝はクテシフォンを略奪し、数千人(おそらく最大で1万人)の住人を連れ去って奴隷とした。


3世紀のはじめにサーサーン朝がパルティアに取って代わると、クテシフォンは再びローマとの係争地となった。295年、ガレリウス帝はクテシフォンの近くでペルシアに敗北した。屈辱を晴らすためガレリウスは1年後に舞い戻り、戦争に大勝して4度目の占領を行った。ガレリウスはアルメニアと引き換えにクテシフォンをナルセ1世に返還した。325年ごろと410年、クテシフォン(または対岸のギリシャ人入植地)でアッシリア東方教会の会議が開催された。


363年、ユリアヌス帝はシャープール2世との戦争中に、クテシフォンの市壁の外で死んだ。


627年、ニネヴェの戦いでサーサーン朝に勝利した東ローマ帝国のヘラクレイオス帝がサーサーン朝の首都であるクテシフォンを包囲したが、和平を結んで引き揚げた。637年、正統カリフ・ウマルの時代にアラブ諸部族から成るムスリム軍による対サーサーン朝との戦争はついにイラク(メソポタミア)にまで及び、イラク地方に進攻したサアド・ブン・アビー=ワッカース(英語版)が率いる部隊はサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世が派遣した総司令官ロスタム麾下のサーサーン朝軍に対し、カーディシーヤの戦いにおいて勝利した。サアド率いるムスリム軍はチグチス東岸の諸都市を次々に征服しクテシフォン近郊まで迫ったため、これによってヤズデギルド3世は北東にあったフルワーンまで逃亡した。アッバース朝時代の記録よると、この年は飢餓と悪疫に見回れ防衛戦力の低下に悩まされていたが、クテシフォンの守備軍はとチグリス川に掛かる全ての船橋を落としてムスリム軍の侵攻を防ぎ抗戦した。しかしムスリム軍は人馬ともに水流に乗って渡河する作戦に出た。クテシフォンの各地区はムスリム軍に対しておのおの抗戦しあるいは帰順したが、ついにはクテシフォンの全地区は陥落した。征服によって人口が減ることはなかったが、政治的・経済的な中心地がほかに移り、8世紀始めにアッバース朝の首都がバグダードに定められると、都市は急速に衰え、やがてゴーストタウンとなった。『千夜一夜物語』に現れる都市「イスバニル(英語版)」は、クテシフォンを基にしていると考えられる(139話、第667-79夜)。


1915年11月、クテシフォンの遺跡は第一次世界大戦の戦場となった(クテシフォンの戦い(英語版))。オスマン帝国軍がバグダードを奪おうとしたイギリス軍の部隊を撃破し、40マイル後退させて降伏させた。



脚注


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  1. ^ E.J. Brill's First Encyclopaedia of Islam 1913–1936, Vol. 2 (Brill, 1987: ISBN 90-04-08265-4), p. 75.


  2. ^ Ezra 8:17



関連項目


  • ペルセポリス

  • ビシャプール(英語版)

  • フィルザバード(英語版)

  • ヘカトンピュロス

  • ネストリウス派


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