1980年モスクワオリンピック
1980年モスクワオリンピック | |||
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第22回オリンピック競技大会 Games of the XXII Olympiad | |||
開催都市 | ソビエト連邦 モスクワ | ||
参加国・地域数 | 81 | ||
参加人数 | 5,217人(男子4,093人、女子1,124人) | ||
競技種目数 | 21競技203種目 | ||
開会式 | 1980年7月19日 | ||
閉会式 | 1980年8月3日 | ||
開会宣言 | レオニード・ブレジネフ最高会議幹部会議長 | ||
選手宣誓 | ニコライ・アンドリアノフ | ||
審判宣誓 | アレクサンドル・メドベド | ||
最終聖火ランナー | セルゲイ・ベロフ | ||
主競技場 | レーニン・スタジアム | ||
夏季 | |||
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冬季 | |||
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Portal:オリンピック |
第22回オリンピック競技大会(だい22かいオリンピックきょうぎたいかい、仏: Jeux de la XXIIe olympiade、英: Games of the XXII Olympiad、露: И́гры XXII Олимпиа́ды)は、1980年7月19日から8月3日までの16日間、ソビエト連邦(現:ロシア連邦)の首都モスクワで開催されたオリンピック競技大会。一般的にモスクワオリンピックと呼称される。共産圏では初の開催となった[1]。後述するボイコット問題で「スポーツと政治」の関係が問われた大会でもあった。
目次
1 大会開催までの経緯
2 ボイコット問題
2.1 主な国の動向
2.1.1 日本
2.2 前後のボイコットとの関連
2.3 めざせモスクワ
3 実施競技
4 大会の結果
5 主な競技会場
6 各国・地域のメダル獲得数
7 主な金メダリスト
8 大会マスコット
9 テレビ放映
10 その後の影響
10.1 国際的影響
10.2 日本国内の影響
11 再招致
12 脚注
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク
大会開催までの経緯
ソ連は1952年ヘルシンキオリンピックでオリンピックに初参加してから、常に国別のメダル争いで上位に立ち、ステート・アマと呼ばれるトップ選手の金メダル獲得を国威発揚に活用していた。その集大成として、自国の首都モスクワでのオリンピック開催を目指すようになった。
一方、オリンピック自体は巨大化の弊害が見え始め、1972年ミュンヘンオリンピックでのテロ事件(ミュンヘンオリンピック事件)などもあり、開催都市への負担が大きくなってきた。
その中で、スポーツ大国のソ連が運営を全面的に担うというモスクワ開催は支持を集め、1974年10月23日、オーストリアのウィーンで開かれた第75回国際オリンピック委員会総会で、モスクワでの1980年夏季五輪の開催が決定された。
都市 | 国 | 1回目 |
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モスクワ | ソビエト連邦 | 39 |
ロサンゼルス | アメリカ合衆国 | 20 |
モスクワでの初の開催の決定を受けて、大会施設の建設が急ピッチで行われたほか、旧態化していたモスクワの当時の空の玄関であるシェレメーチエヴォ国際空港の空港ターミナルビルが大幅改修されるなど行われた。
ボイコット問題
冷戦下において東側諸国の盟主的存在であるソ連で行われたこの大会は、前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、集団ボイコットという事態に至った[1]。
主な国の動向
冷戦でソ連と対立するアメリカ合衆国のカーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱し、日本、分断国家の西ドイツや韓国、それに1979年10月の国際オリンピック委員会 (IOC) 理事会(名古屋開催)でIOC加盟が承認されていたが、1960年代以降ソ連と対立関係にあった中華人民共和国やイラン、サウジアラビア、パキスタン、エジプトなどといったアフガニスタンでムジャヒディンを支援するイスラム教諸国、および反共的立場の強い諸国など50カ国近くがボイコットを決めた[1]。
一方で、西欧・オセアニアの西側諸国の大半、すなわちイギリス、フランス、イタリア、オーストラリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、スペインなどは参加した[1]。イギリスではボイコットを指示した政府の後援を得られず、オリンピック委員会が独力で選手を派遣した。
また、フランス、イタリア、オランダなど7カ国は競技には参加したものの、開会式の入場行進には参加せず、イギリス、ポルトガルなど3カ国は旗手1人だけの入場行進となった[1]。
これらの参加した西側諸国は概ね国旗を用いず、優勝時や開会式などのセレモニーでは五輪旗と五輪賛歌が使用された。ただし、ギリシャは国旗を用いている。
米国はコートジボワール、イタリア、日本、西ドイツ、中華人民共和国といったボイコットした国々とモスクワ五輪に対抗した競技大会を準備し[2]、リバティ・ベル・クラシックとして1980年7月にフィラデルフィアで開催された。
日本
- ボイコット決定前 - 日本では決定前からモスクワオリンピック参加確定をほぼ疑わない空気が醸成されており、オリンピック協賛企業のテレビCMでは「頑張れニッポン!モスクワは近い!」と煽るフレーズが盛り込まれていたほか、後述の『めざせモスクワ』リリースや、日本アニメーション製作の『こぐまのミーシャ』が放映されるなど、プレイベントが各媒体で大々的に行なわれていた。
- 1980年2月 - 前月のアメリカからの西側諸国への要請を受け、日本国政府は大会ボイコットの方針を固めた[1]。一方、日本オリンピック委員会 (JOC) は大会参加への道を模索した。
- 1980年4月 - 日本国政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられた。多くの選手はJOC本部で大会参加を訴えた。
- 1980年5月24日 - JOC総会の投票(29対13)でボイコットが最終的に決定された(なお、この採決は挙手によるもので、伊東正義官房長官(当時)も出席しており、各競技団体の代表者には、参加に投票した場合には予算を分配しないなどの圧力がかけられていた)[1]。
- 1980年6月11日 - JOC常任委員会、モスクワ五輪日本選手団(幻のメンバー)を承認し、同時に大会への不参加を確認する。
前後のボイコットとの関連
モスクワオリンピックへのボイコットを呼びかけ、中心的存在であったアメリカ合衆国が開催する予定になっていた、次(1984年)の夏季オリンピックであるロサンゼルスオリンピックには、アメリカ軍のグレナダ侵攻を理由に、多くの東側諸国が報復としてボイコットした。中でもイランは、モスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックを両方ともボイコットしている。
なお、前回のモントリオールオリンピックでは、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策に絡み、アフリカ諸国の多くがボイコットをしたが、今回の五輪では主にイスラム圏を除いたアフリカ諸国が復帰した。
一方で、モスクワオリンピックをボイコットした韓国で、次々回1988年に開催されたソウルオリンピックには、中華人民共和国もほとんどのアフリカ諸国もソ連をはじめとする東側諸国(北朝鮮とキューバは除く)も参加し、大規模なボイコット合戦に、ようやく終止符が打たれた。
めざせモスクワ
この大会に前後して、西ドイツのポップグループであるジンギスカンがモスクワをモデルにして作った曲『めざせモスクワ』が世界的にヒットした。西ドイツはモスクワオリンピックをボイコットしたにもかかわらず、これが縁でジンギスカンはモスクワオリンピックに招待された。
日本でもバオバブシンガーズ(ぷろだくしょんバオバブ所属声優のユニット)やダークダックスによってカヴァーされた。前者はオリンピックを強く意識した歌詞、後者はオリンピックとまったく関係ないモスクワ観光的な歌詞だった。
実施競技
- 陸上競技
- 競泳
- 飛込
- 水球
- サッカー
- ボート
- ホッケー
- ボクシング
- バレーボール
- 体操
- バスケットボール
- レスリング
- セーリング
- ウエイトリフティング
- ハンドボール
- 自転車競技
- 馬術
- フェンシング
- 柔道
- 射撃
- 近代五種
- カヌー
- アーチェリー
大会の結果
西側諸国の多くがボイコットした事で、大会は東側諸国のメダルラッシュとなった。キューバを含めた東側諸国の経済協力機構であるコメコン加盟国全体では161個と、全204個の金メダルのうち79%を占めた。
特にソ連は自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃に加え、アメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得した。金メダル80個はロサンゼルスオリンピックでのアメリカの83個に次いで、一つの大会での2番目の獲得記録となっている。
また、ソ連と同じく「ステート・アマ」が選手のほとんどを占める東ドイツもボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、47個と第2位の金メダルを獲得した。
一方、東側諸国に押され気味の西側諸国の中では、イギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し、100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得している。
主な競技会場
- グランド・アリーナ
- マイナー・アリーナ
- オリニピック・プール
- スポーツパレス
- ドルジバ・マルチプロセス・アリーナ
- オリンピック・スタジアム (モスクワ)
- CSKAモスクワ
- ディナモ・スタジアム (モスクワ)
- ディナモ・スタジアム (ミンスク)
リパブリカン・スタジアム(キエフ)
キーロフ・スタジアム(サンクトペテルブルク)- ピリタ川(タリン)
各国・地域のメダル獲得数
順 | 国・地域 | 金 | 銀 | 銅 | 計 |
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1 | ソビエト連邦(開催国) | 80 | 69 | 46 | 195 |
2 | 東ドイツ | 47 | 37 | 42 | 126 |
3 | ブルガリア | 8 | 16 | 17 | 41 |
4 | キューバ | 8 | 7 | 5 | 20 |
5 | イタリア | 8 | 3 | 4 | 15 |
6 | ハンガリー | 7 | 10 | 15 | 32 |
7 | ルーマニア | 6 | 6 | 13 | 25 |
8 | フランス | 6 | 5 | 3 | 14 |
9 | イギリス | 5 | 7 | 9 | 21 |
10 | ポーランド | 3 | 14 | 15 | 32 |
主な金メダリスト
アラン・ウェルズ(イギリス、陸上競技男子100m)
ピエトロ・メンネア(イタリア、陸上競技男子200m)
スティーブ・オベット(イギリス、陸上競技男子800m)
セバスチャン・コー(イギリス、陸上競技男子1500m)
ミルツ・イフター(エチオピア、陸上競技男子5000m、10000m)
リュドミラ・コンドラチェワ(ソビエト連邦、陸上競技女子100m)
マリタ・コッホ(東ドイツ、陸上競技女子400m)
ナデジダ・オリザレンコ(ソビエト連邦、陸上競技女子800m)
ユーリ・セディフ(ソビエト連邦、陸上競技男子ハンマー投)
デイリー・トンプソン(イギリス、陸上競技男子十種競技)
ルディ・フィンク(東ドイツ、ボクシングフェザー級)
アレクサンドル・ディチャーチン - 男子体操団体総合、個人総合他。金3個、銀4個、銅1個を獲得し、アテネオリンピックのマイケル・フェルプスと並ぶ、個人の一大会最多獲得メダル記録を持つ。ソビエト。
ニコライ・アンドリアノフ(ソビエト連邦、体操男子団体総合、種目別跳馬)
ナディア・コマネチ - 女子体操の平均台と床運動。「白い妖精」。ルーマニア。
ウラジミール・サルニコフ - 男子競泳自由形1500m。人類史上初の「14分台スイマー」。ソビエト。
ビルギット・フィッシャー - 女子カヤック。この大会からアテネオリンピックまで金8個、合計12個のメダルを獲得。東ドイツ。
ワルデマール・チェルピンスキー - 男子マラソン。モントリオールオリンピックに続く2連覇。東ドイツ。
テオフィロ・ステベンソン - 男子ボクシングヘビー級。ミュンヘン以来の3連覇。キューバ。
ジンバブエ女子ホッケー代表 - 西側諸国のボイコットにより急遽繰り上げ出場となり、オリンピック初実施の同種目で同国初の金メダルを獲得。
大会マスコット
- ミーシャ
熊をモチーフにしたマスコット。日本ではテレビ朝日系列(製作は朝日放送)にて、開催の前年からこのマスコットを主人公とした『こぐまのミーシャ』というアニメが放映されていた。主題歌にはロシア語の単語も使われていた。- 閉会式で冷戦やソ連のアフガニスタン侵攻の影響でアメリカや日本、西ドイツや韓国といった西側諸国がボイコットした事に対しての演出でミーシャが涙を流すというマスゲームが行われた。
- それから34年後の2014年ソチオリンピックの閉会式にて、ミーシャの孫とされるホッキョクグマのマスコットが現れ、モスクワオリンピック閉会式の映像を流した後、スタジアムに設けられた小さな聖火台の聖火を吹き消すと共に、一筋の涙をこぼすという場面が演出された[3]。
テレビ放映
ソ連国内では全連邦ラジオで、欧州ではユーロビジョン[4](31カ国)とインタービジョン[4](11カ国)、中南米ではOTIを通じて放送された。オーストラリアではチャンネル7[4]、アメリカ国内ではNBC[4]で放映したが、一部の国では放送体制を大幅縮小した。また、カナダは当初CBCで放送予定だったが、カナダのボイコットを受け中止が決定した[4]。
日本では1977年にテレビ朝日系列が独占放映権を獲得した[4][1]。しかし、日本のボイコットが決まったため、中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。放映権料についてはジャパンコンソーシアムを参照。
なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれた三浦甲子二がソ連の高官と会っていたことから、チュメニ油田に絡む黒い噂を含む怪文書が流れたことがある。
その後の影響
国際的影響
大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットにより、その権威が失墜したことは疑いようがなかった。閉会式のミーシャの涙に象徴されるように、ソビエトの失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。それを暗示するように、閉会式での電光掲示板では「ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった。
大会後、第3代キラニン男爵マイケル・モリスはIOC会長を退任し、フアン・アントニオ・サマランチが新会長となった。これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し、結果的にテレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する商業主義への傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。
自国開催のソビエトの選手には金メダル獲得が義務付けられ、他の東側諸国でも似たような状況となった。その結果、組織的なドーピングが行われ、後に多くの選手が健康被害を受けることになったといわれている。
日本国内の影響
種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。
- 団体競技の影響
- 男子体操 - 1960年のローマオリンピックから続けた5連覇が自動的に途絶えた金メダル奪回は、2004年のアテネオリンピックにてようやく実現[1]。
- バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得に至っていない。
- 女子バスケットボール - 1976年のモントリオールオリンピック以来の2度目の出場は1996年のアトランタオリンピックまで20年要した。
- 男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催の2020年の東京オリンピックまで出場権獲得ならず。
- 個人競技の影響
赤井英和 (ボクシング) - 補欠として代表の可能性を残していたが、完全消滅。その後の大会に出場し続けた後でプロ転向[1]。
香月清人 (柔道) - 前年の世界柔道選手権71kg級で優勝。代表が内定していたが、ボイコットを契機に一度は現役引退。その後、大阪府警の柔道師範として、万余の警察官を指導していたこともあった[5]。
坂本典男 (自転車競技) - 競輪に転向。ロサンゼルスオリンピック(以下、ロサンゼルス)では弟である坂本勉に託し銅メダルを獲得。
瀬古利彦 (マラソン) - その後、ロサンゼルス、ソウルオリンピック(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たしたものの、ソウルで9位にとどまる[1]。
高田裕司 (レスリング) - 現役引退。後に復帰し、ロサンゼルスで銅メダルを獲得。
長義和 (自転車競技) - 1977年に日本競輪学校に合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため、競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を退いた。
津田真男 (ボート、シングルスカル) - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった[6]。その後、アテネ大会やロンドン大会で開催されたレガッタに出場した。
長崎宏子 (水泳) - 当時11歳。夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だった[7]が幻に終わった[1]。その後、ロサンゼルス、ソウルと出場したが、いずれもメダル獲得は果たせず。
藤猪省太(柔道) - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。その後アテネ大会まで出場を続け、現在は指導者となった。
宮内輝和 (レスリング) - 北京オリンピック出場後、大相撲に転向。
谷津嘉章 (レスリング) - プロレスに転向。1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。しかし、アトランタ大会に再び復帰しロンドン大会まで戦った。
山下泰裕 (柔道) - 1984年のロサンゼルスで金メダルを獲得[1]。
- テレビ朝日
- 1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った[1]。ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から、現在フリーとなった古舘伊知郎、南美希子、佐々木正洋を始め、宮嶋泰子、吉澤一彦、渡辺宜嗣といった、現在でも現場で活躍するメンバーが多く輩出された。
- その後のJOCの対応
- 不本意ながら政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCは、政府(文部省)から自立する形での組織の基盤強化の必要性を痛感し、1989年に日本体育協会から独立し、財団法人としての活動を行うこととなった。
再招致
モスクワは2012年夏季オリンピックの開催地に立候補したが、最初の投票で落選した。なお、同年の開催地となったロンドンの招致委員長が、この五輪で男子陸上1500m金メダリストのセバスチャン・コーである。
脚注
- ^ abcdefghijklmn『昭和55年 写真生活』p14-15(2017年、ダイアプレス)
^ Secret US plot to steal Moscow's Olympic flame, Daily Telegraph
^ ミーシャの孫、ソチ五輪終幕告げる 日刊スポーツ 2014年2月24日閲覧- ^ abcdef1980 Summer Olympics Official Report from the Organizing Committee, vol. 2, p. 379
^ 柔道:幻の五輪代表が定年 大阪府警の師範・香月さん - 毎日新聞 2015年03月26日 18時32分
^ 後に、山際淳司の短編集「スローカーブを、もう一球」(「江夏の21球」が収録)で「たった一人のオリンピック」として紹介された。
^ 冬季は1936年の稲田悦子 (フィギュアスケート) がいる。
参考文献
池井優『オリンピックの政治学』(丸善ライブラリー、1992年) ISBN 4-621-05053-2
谷口源太郎著「堤義明とオリンピック。」
関連項目
- 国際オリンピック委員会
- 夏季オリンピック
- アーネムパラリンピック
- 1980年モスクワオリンピックの日本選手団
- プロジェクト:オリンピック
- めざせモスクワ
家族対抗オリンピッククイズ - テレビ朝日系で1979年8月 - 10月に月曜19:00 - 19:30(JST)に放映されたクイズ番組。タイトルはモスクワオリンピックにちなんだもの。司会は長門裕之。
オリンパソン'80 - 1980年5月5日から翌5月6日にかけて、テレビ朝日系29局ネットで放映された、17時間(8:30 - 25:30=JST)にわたる長時間特別番組。司会は久米宏とジュディ・オング。当初はモスクワオリンピックに向けて(同時にテレビ朝日の独占中継を)盛り上げる企画を予定していたが、日本政府の参加ボイコット方針により大幅に変更され、参加ボイコットの是非を問う企画がメインとなった(一部のバラエティ的な企画を除く)。番組内では終始、参加の賛否についての視聴者アンケートも行われた。なお、この番組のなかで「モスクワオリンピック応援歌」として初めて(生で)披露されたのが、「俺たちの時代」(歌・西城秀樹)である。
外部リンク
- IOC Moscow 1980 Page
- JOCオリンピックの歴史
モスクワオリンピックのテーマソング (ロシア語)
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