ジョージ・H・W・ブッシュ



























ジョージ・H・W・ブッシュ
George H. W. Bush

George H. W. Bush, President of the United States, 1989 official portrait.jpg



アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
Seal of the President of the United States.svg 第41代大統領

任期

1989年1月20日 – 1993年1月20日
副大統領

ダン・クエール


アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
Seal of the Vice President of the United States.svg 第43代副大統領

任期

1981年1月20日 – 1989年1月20日
元首

ロナルド・レーガン


アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
Seal of the Central Intelligence Agency.svg 第11代中央情報局長官

任期

1976年1月30日 – 1977年1月20日
元首

ジェラルド・R・フォード
ジミー・カーター

出生

(1924-06-12) 1924年6月12日(94歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ミルトン
政党

共和党
配偶者

バーバラ・ブッシュ(2018年に死別)
子女

ジョージ・W・ブッシュ
ポーリン・ロビンソン・ブッシュ
ジェブ・ブッシュ
ニール・ブッシュ(英語版)
マーヴィン・P・ブッシュ
ドロシー・コック(英語版)
署名

George HW Bush Signature.svg





世界ゴルフ殿堂

殿堂表彰者

選出年
2011年
選出部門
特別功労

ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュGeorge Herbert Walker Bush, 1924年6月12日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。下院議員、CIA長官、第43代副大統領、第41代大統領を歴任。日本では、第43代大統領でありファーストネームが同じである長男のジョージ・ウォーカー・ブッシュと区別するために、「父ブッシュ(パパブッシュ)」「大ブッシュ」「ブッシュ・シニア」と呼ばれることもある。2018年4月現在、存命中であり、死去したアメリカ大統領経験者を含めても最高齢である。身長6フィート2インチ(約188cm)[1]




目次





  • 1 人物・来歴

    • 1.1 政治経歴


    • 1.2 副大統領(1981年 - 1989年)


    • 1.3 1988年の大統領選挙


    • 1.4 大統領職


    • 1.5 1992年の大統領選挙


    • 1.6 大統領退任後



  • 2 逸話

    • 2.1 訪日時の事件


    • 2.2 ブロッコリー嫌い


    • 2.3 撃墜体験



  • 3 父ブッシュ政権の大統領顧問団


  • 4 脚注


  • 5 関連項目


  • 6 外部リンク




人物・来歴




ジョージ・H・W・ブッシュの搭乗したアヴェンジャー雷撃機


ブッシュ家は、女系の先祖がイギリス王室に連なる家柄である。


プレスコット・ブッシュとドロシー・ウォーカー夫妻の次男として生まれた。兄にプレスコット・ブッシュ・ジュニア(米中商工会議所議長)がいる。父親はコネチカット州のリベラルな共和党上院議員で、著名な投資銀行「ブラウン・ブラザース・ハリマン(英語版)」に在籍していた。


ブッシュはグリニッジのグリニッジ・カントリー・デイスクールからその経歴を開始した。高校卒業後、国への義務を果たすべく海軍に志願。その年のうちにテキサス州コーパスクリスティで飛行訓練を完了し、アベンジャー雷撃機のパイロットに任命される。ブッシュは1942年より空母サン・ジャシントに乗り組み太平洋戦線に従軍した。彼は第二次世界大戦における最も若い艦上攻撃機パイロットだった。退役するまでパイロットとして1228時間の飛行時間を記録し、126回の空母着艦を成功させたが、二度の被撃墜も経験した。少尉時代の1944年マリアナ沖海戦では日本機の銃撃によって、中尉時代の1944年9月2日には小笠原諸島沖で父島地上砲台の対空砲火を浴びて乗機を撃墜されているが、いずれも味方に救助され生還している。二度目の際には敵地近くであり、同乗していた代理銃手ウィリアム・ホワイト中尉と通信士ジョン・デラニー二等軍曹は戦死し自身も四時間にわたって漂流し捕虜になる危機を迎えた。当時9度目の哨戒任務で同海域にいたガトー級潜水艦「フィンバック」に救助された。この父島では後に小笠原事件が起きたとされる。翌月までフィンバックで勤務し撃墜されたパイロットの救助にあたった。11月、サン・ジャシントに戻りフィリピン作戦に参加した。ブッシュは彼の飛行隊がアメリカに帰国するまで1944年を通じて58回の戦闘に参加し、殊勲飛行十字章(2度目の被撃墜の際の爆撃の成功によるもの)、さらにエア・メダルを3回、サン・ジャシントに対する殊勲部隊章 (Presidential Unit Citation) 1回と全部で5個の勲章を受章した。その後、海軍中尉にまで昇進し退役した。太平洋から帰還して数週間後の1945年1月6日にバーバラ・ピアスと結婚し、6人の子供をもうけた。カップルの最初の住居はミシガン州トレントン(英語版)の小さな賃貸アパートだった。帰国後、イェール大学に進学し、2年半で卒業した。在学中は大学の野球チームに所属して腕利きの一塁手として鳴らし、キャプテンとしてチームをカレッジワールドシリーズに導いた。卒業の年のシリーズでは試合前にベーブ・ルースと対面している。入学した年には父プレスコット・ブッシュも属した秘密結社スカル・アンド・ボーンズに加入した。 1948年経済学の学士号を取得し卒業。



  • ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(George Walker Bush, 1946年7月6日 - 長男。第43代大統領)

  • “ロビン”ポーリン・ロビンソン・ブッシュ('Pauline Robinson "Robin" Bush, 1949年12月20日 - 1953年10月11日。長女。白血病で死去。)


  • “ジェブ”ジョン・エリス・ブッシュ(John Ellis "Jeb" Bush, 1953年2月11日 - 次男。フロリダ州知事)

  • ニール・マローン・ブッシュ (Neil Mallon Pierce Bush - 三男)

  • マーヴィン・ブッシュ (Marvin Bush - 四男)

  • ドロシー・ウォーカー・ブッシュ・コッチ(Dorothy Walker Bush Koch, 1959年8月18日 - 次女)

父親の上院議員職、長男ジョージ・W・ブッシュのテキサス州知事および大統領、次男ジェブ・ブッシュのフロリダ州知事などの政治的な成功で、ブッシュ家は王朝としてなぞらえられ、ジョン・アダムズおよびケネディ家と比較された。



政治経歴




米中連絡事務所所長時代に天安門にて、1975年


1964年にブッシュは、テキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローに対抗して上院議員選に出馬し、政治家に乗り出した。ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。


ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から下院議員に選任された。彼はその後1970年に、民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに、二度目の上院議員選挙で敗れた。ブッシュは70年代を通してリチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォード大統領の下で、共和党全国委員会委員長、アメリカ国連大使、中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)、CIA長官(1976年1月30日 – 1977年1月20日)、危機委員会評議員などの要職を歴任した。



副大統領(1981年 - 1989年)





副大統領を務めたロナルド・レーガン政権の閣僚とともに、1981年2月4日


1980年に彼は共和党の大統領指名を争う予備選に出馬する。そこで彼は、学界では批判の多いサプライサイド経済学に基づくレーガンの経済政策を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗。党大会直前に、レーガンに副大統領候補として指名され、1981年に副大統領に就任する。


ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。レーガンも銃撃事件で病院に担ぎ込まれた際にブッシュが周囲より大統領職権の臨時代行を勧められるも断ったことをきっかけに、ブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。


ブッシュは外交・安全保障に並々ならぬ関心をもった副大統領であり、後に敵対することになるサッダーム・フセイン大統領のイラクとの関係強化の決定にも関わっている[2]



1988年の大統領選挙


2期8年にわたりレーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年の大統領選では、マサチューセッツ州知事・マイケル・デュカキスに地滑り的な大勝をおさめた。現職の副大統領としてはマーティン・ヴァンビューレン以来144年ぶり4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実にジョン・アダムズ以来192年ぶり2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選が不利になる」というジンクスを覆した。


→ 詳細は「1988年の大統領選挙」の項を参照。



大統領職


1989年1月、第41代大統領に就任した父ブッシュが最初に取り組んだのは国内における麻薬の浄化であった。彼はその一環として中南米で麻薬交易の中継となっているパナマのマヌエル・ノリエガ政権に対する侵攻を決意する(パナマ侵攻)。12月、2万4千人の米軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、翌1990年1月に逮捕されアメリカ国内で40年の禁固刑を受けた。1989年2月24日には、昭和天皇の葬儀「大喪の礼」に出席した。1989年12月3日、地中海におけるマルタ会談では、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。


マルタ会談から8ヶ月後、1990年8月2日にサッダーム・フセイン率いるイラク軍が隣国クウェートへ突如侵攻すると、国際連合は史上初の武力行使容認決議を可決、拒否権で停滞してきた安保理では歴史的なことであり、これを父ブッシュは新世界秩序と呼んだ。米軍を主とする多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退し、サウジアラビアの防衛を保証した(湾岸戦争)。ただし、イラクのサッダーム・フセイン政権の打倒までは行わず、あくまで制裁戦争であった。1991年1月17日の多国籍軍によるイラク空爆により、湾岸戦争は本格化した。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、父ブッシュの支持率は当時歴代最高の89%に急上昇した。


1991年2月28日に湾岸戦争に勝利し、中東和平会議を開き、1992年からソマリア内戦にも介入し、対外的成果を強調して同年の大統領選挙に挑んだ父ブッシュであったが、湾岸戦争後の緩やかな景気後退や4年前の選挙の「増税はしない」という公約を反故にしていたこと、更に4年前と同様の戦術であるネガティブ・キャンペーンが今度は裏目に出たことなどの条件が重なり、民主党のビル・クリントンに敗北した。


対中関係では六四天安門事件で経済制裁を行うも議会と対立してまで最恵国待遇を更新し、ボーイング[3]や人工衛星の輸出を許可[4]するなど制裁全面化に消極的であり、かつて米中連絡事務所所長も務めたことから兄のプレスコットや息子のニールが中国政府とビジネスもしていたための後の北京オリンピック開会式の親子揃っての出席に象徴されるように親中派だったともされる。ブレント・スコウクロフト補佐官を北京に派遣して秘密交渉を行っていたこともあって第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した日本の海部俊樹首相に同調した[5]


対日関係では米国国内の双子の赤字解消問題と日本のバブル経済を背景に、日米構造協議において多くの自民党議員の票田である農作物とりわけコメ、牛肉などの輸入自由化を求める一方で、日本経済の柱となる自動車産業の対米輸出を大幅に規制させるなど、日本に対してアメリカ大統領としては異例といえる保護貿易主義を取ったため、ジャパンバッシングなる言葉が流行するほどに問題化し、日本国内の左派だけでなく各種族議員を中心とする保守派議員等からも激しい反発が起きた。この件がきっかけとなり後に年次改革要望書が作成される事になる。国防関係では湾岸戦争における自衛隊派遣問題や資金援助をめぐり日本政府与党や左派勢力と激しく対立し多額の資金援助を行ったにも関わらず日本への謝意が演説で述べられなかった事などから「金だけ出して人出さない」「大枚をはたかされた上に礼の一言も言われない」など左右両派で議論を呼んだ。



1992年の大統領選挙


再選をかけた1992年の大統領選ではアーカンソー州知事のビル・クリントンに惜敗。現職大統領としては1976年のフォード、1980年のカーターに続いて戦後3人目の不名誉な敗北となった。


→ 詳細は「1992年の大統領選挙」の項を参照。



大統領退任後




空母「ジョージ・H・W・ブッシュ」の進水式

左から息子のジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)、本人、施工主ノースロップ・グラマン社長のマイク・ペタース、娘のドロシー・ブッシュ・コッチ。2006年10月7日。


大統領選挙での敗北後、ブッシュは慣例にしたがって退任した。特に息子がテキサス州の知事となり、共和党の有力な大統領候補として頭角を現すようになってからは、その妨げとならないよう、他の退任した大統領よりも増して公の場には極力姿を表さないよう心がけていた。


そのブッシュを再び表舞台に登場させたのが、意外にも後任の大統領であるビル・クリントンだった。クリントンは自らの退任後、同じ「元大統領」としてブッシュをさまざまな非政治的な式典や被災地の慰問などに誘った。そうしたことから両者の仲は極めて親密なものとなり、その関係は相互の家庭を時折訪問するほどまでになった。息子の嫁のローラ夫人はその親密ぶりを「うちの家族にはミスタープレジデントが三人もいるんですよ」と評したこともある。


2012年11月23日に気管支炎でのためテキサス州ヒューストンの病院に入院[6]。12月中旬頃に容態が悪化し、集中治療室へと移ったが[7]、その後持ち直し一般病棟に戻っている[8]。2013年4月25日には息子の関連資料を集めた記念図書館の開館式に他の歴代大統領経験者とともに車椅子で出席し、公の場に姿を現した[9][10]


ブッシュは1期限りの大統領だったが、任期中に大統領の名を汚すようなスキャンダルには一切見舞われなかったことから、退任後はその名がさまざまな施設や艦船につけられることになった(逆にウォーターゲート事件の揉み消しスキャンダルで辞任したニクソンや、セックス・スキャンダルが弾劾審理にまで発展したビル・クリントンの名は忌避される傾向にある)。1997年には地元テキサス州ヒューストンの空港が「ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港」と改名され、2002年にはニミッツ級航空母艦の10番艦が「ジョージ・H・W・ブッシュ」と命名されることになった。存命中の元大統領の名前が合衆国海軍の艦船に冠せられるのは、カーター、レーガンに続き史上3人目。


2017年1月に肺炎により入院している事が報じられたが[11]順調に快方に向かい、同月30日に無事退院した。なお、出席する予定だった20日のドナルド・トランプ大統領の就任式には、息子のウォーカー・ブッシュが代理として出席した[12]。退院の数日後には、第51回スーパーボウルの試合前のコイントスを務め、妻のバーバラと共に元気な姿を見せた[13]が、バーバラは2018年4月17日に死去している[14]



逸話



訪日時の事件


1992年1月7日の来日では、今上天皇、宮澤喜一首相とそれぞれ会談した。この来日では、最初に京都御所を見学し、その場で行われていた蹴鞠に飛び入りで参加。翌日、今上天皇と2回テニスのダブルスで対戦しているが、2回とも父ブッシュが負けている。その日の宮澤首相主催の晩餐会の最中、突然隣に座っていた宮澤の膝に嘔吐し、椅子から崩れるように倒れ、その様子は世界中のマスメディアがトップニュースとして報道した。妻バーバラがとっさの機転で「ブッシュ家は負けることに慣れていないのです」とジョークを飛ばし、その場を救った。日本政府は、慶應義塾大学病院を手配したが、アメリカ側は、ただのインフルエンザに過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ大使館の医務官が対応した。翌日、首相官邸には諸外国のプレスが大挙して押しかけたが、膝に嘔吐された当の宮澤が堪能な英語で淡々と記者会見を行っている。



ブロッコリー嫌い


大のブロッコリー嫌いで知られており、大統領専用機の機内食のメニューからブロッコリーを削除した。また、「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。ポーランド市民がソ連と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したことに怒ったブロッコリー農家から、トラックで大量のブロッコリーを送りつけられたことがある。このシーンは全世界のニュース番組で話題となっていた。



撃墜体験


太平洋戦争で撃墜されたアベンジャー雷撃機の名前は、後の妻の名前である“バーバラ”だった。1944年9月2日9時前、父ブッシュは軽空母サン・ジャシント から友人であるスタンレー・ブッチャーらが搭乗した僚機3機と護衛のヘルキャット数機共に発進し、父島の無電塔爆撃任務についた。この無電塔は米軍の通信を傍受し、本土に空襲の警報を発していたため、米軍にしてみれば何としても破壊しておく必要があったのである。父ブッシュのチームは機長のブッシュ、二等通信士ジョン・デラニーと代理銃手(情報将校)ウィリアム・ホワイト中尉の3人であった。本来父ブッシュの機“バーバラ”の銃手はレオ・W・ナドーであったが、この日は出撃の直前に島の視察を望んだホワイトに交代するよう命じられたため出撃しなかった。彼は前日に父ブッシュたちと父島の砲台を攻撃し、これを破壊する戦果を上げていた。父ブッシュたちの向かった攻撃目標は山岳地帯に隠された砲座によって守られた危険地帯に存在し、父ブッシュたちの機は激しい攻撃にさらされた。父ブッシュはそれでも爆弾槽を開け目標に四個の爆弾を投下したが、乗機バーバラは被弾し、炎上した。父ブッシュは屈せず、サン・ジャシントへの帰還を試みたが機のコクピットが炎と煙で満たされたため、高度1500フィートの地点でパラシュート脱出した。同乗者のうちホワイトは既に死亡していたか、爆風による負傷のため脱出できず機体と運命を共にした。デラニーは脱出には成功したもののパラシュートが開かず戦死した。父ブッシュは無事着水し生存した。すぐさま彼を捕獲するため日本軍舟艇が出動したが、僚機(機体名不明)のダグ・ウェスト中尉(職種不明)が舟艇を機銃掃射し、上空にいた戦闘機が撃墜を通信したため難を逃れることができた。通信から数時間後、島から15〜20マイルの海域を哨戒していた潜水艦フィンバック(艦長ロバート・R・ウィリアムズ)が到着、父ブッシュは他の4人のパイロットとともに救助された。このときの救助の光景はフィンバックの写真撮影助手であったビル・エドワーズ少尉によって8ミリフィルムに撮影され、後に父ブッシュに贈られた。ホワイトとデラニーの戦死についてナドーは自責の念に駆られたという。ブッシュ、デラニーとチームとして脱出の訓練を積んでいたナドーはホワイトの戦死について、アベンジャーの砲座には砲手用のパラシュートを保管・着用するためのスペースがなく、彼が脱出する場合には砲座から出た上で、デラニーからパラシュートを受け取る手順になっていたこと、不慣れなホワイトが砲座から脱出するのに時間がかかったであろうことが彼の戦死の原因ではなかったかと語っている。
救助された父ブッシュ他4人のパイロットはその後一ヶ月、潜水艦の目として、撃墜されたパイロットを発見する任務に就いた。翌日には早くも母島上空で撃墜された空母エンタープライズの搭乗員・ジェームズ・ベックマン中尉を救助する戦果を上げた。彼らは交代で4時間ずつ飛行し、8時間休息するというローテーションで働いた。一月後父ブッシュほかのパイロットたちはニューヨークでフィンバックを下艦し生還した。その後父ブッシュらのパイロットはハワイに移された。彼らはそこで二週間の休暇を与えられることになったが、父ブッシュは早くサンジャシントに戻って出撃することを希望し艦に戻った。


なお、このとき他にも4機の米軍機が撃墜されたが、搭乗員の8人の米軍兵士捕虜の内5人が小笠原事件において処刑された後食人されたとされ、ブッシュの対日観に長く影を落としたといわれている。敵国の元首であった昭和天皇の葬儀に参列したが、ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。ブッシュ機を撃墜した砲台は、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった[15]


ただし、当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、食人などの事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している[16]



父ブッシュ政権の大統領顧問団





北米自由貿易協定調印、1992年10月

















































































職名氏名
任期

大統領ジョージ・H・W・ブッシュ1989 - 1993
副大統領ダン・クエール1989 - 1993

国務長官ジェイムズ・ベイカー1989 - 1992
 ローレンス・イーグルバーガー1992 - 1993
財務長官ニコラス・ブレイディ1989 - 1993
国防長官リチャード・チェイニー1989 - 1993
司法長官リチャード・ソーンバーグ(英語版)1989 - 1991
 ウィリアム・バー(英語版)1991 - 1993
内務長官マヌエル・ルージャン(英語版)1989 - 1993
商務長官ロバート・モスバカー(英語版)1989 - 1992
 バーバラ・フランクリン(英語版)1992 - 1993
労働長官エリザベス・ドール1989 - 1991
 リン・マーティン(英語版)1991 - 1993
農務長官クレイトン・キース・ヤイター1989 - 1991
 エドワード・レル・マディガン1991 - 1993
保健福祉長官ルイス・ウェイド・サリヴァン1989 - 1993
教育長官ラウロ・フレッド・カヴァゾス1989 - 1990
 アンドルー・ラマー・アレグザンダー1991 - 1993
住宅都市開発長官ジャック・ケンプ1989 - 1993
運輸長官サミュエル・スキナー(英語版)1989 - 1991
 ジェームズ・ブゼイ1991 - 1992 (代理)
 アンドルー・カード1992 - 1993
エネルギー長官ジェームズ・ワトキンス1989 - 1993
退役軍人長官エドワード・ダーウィンスキー1989 - 1992
 アンソニー・プリンシピ1992 - 1993 (代理)


脚注



  1. ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー


  2. ^ アラン・フリードマン「だれがサダムを育てたか アメリカ兵器密売の10年」


  3. ^ “U.S. GRANTS BOEING A WAIVER TO SELL JETLINERS TO CHINA”. ニューヨーク・タイムズ (1989年7月8日). 2017年12月26日閲覧。


  4. ^ “PRESIDENT WAIVES SOME CHINA CURBS”. ニューヨーク・タイムズ (1989年12月20日). 2017年12月26日閲覧。


  5. ^ “COLUMN ONE : China Taps Into World Coffers : The story of Beijing's successful run on the World Bank is a tale of persistence (by China), of avarice (in Western Europe and Japan) and of intrigue (by the Bush Administration)”. ロサンゼルス・タイムズ (1992年10月30日). 2017年12月26日閲覧。


  6. ^ “元米大統領「父ブッシュ」、クリスマスも入院継続-退院は未定”. bloomberg.co.jp (ブルームバーグ). (2012年12月25日). http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MFKDHP6K50Y701.html 2013年1月13日閲覧。 


  7. ^ “ブッシュ元米大統領、発熱し容体悪化  集中治療室に”. CNN.co.jp (CNN). (2012年12月27日). http://www.cnn.co.jp/usa/35026295.html 2013年1月13日閲覧。 


  8. ^ “ブッシュ元大統領、快方に 一般病室へ”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2012年12月30日). オリジナルの2012年12月30日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121230191434/http://sankei.jp.msn.com/world/news/121230/amr12123011420000-n1.htm 2013年1月13日閲覧。 


  9. ^ “ブッシュ記念館が完成 歴代大統領、勢ぞろい”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2013年4月26日). http://www.47news.jp/CN/201304/CN2013042601001236.html 2013年4月27日閲覧。 


  10. ^ “ブッシュ氏の記念図書館開館、歴代大統領が一堂に会す”. CNN.co.jp (CNN). (2013年4月26日). http://www.cnn.co.jp/usa/35031400.html 2013年4月27日閲覧。 


  11. ^ “ブッシュ元米大統領、肺炎で集中治療室に 夫人も入院”. ロイター. ロイター. (2017年1月18日). http://jp.reuters.com/article/people-bush-idJPKBN1521EA 2018年4月18日閲覧。 


  12. ^ ブッシュ元大統領が退院 肺炎で治療受け回復 CNN 2017年1月31日付


  13. ^ ブッシュ元大統領(父)が大歓声の中でコイントス スーパーボウル 産経ニュース 2017年2月6日付


  14. ^ “バーバラ・ブッシュ夫人が死去 92歳”. AFPBB News. フランス通信社. (2018年4月18日). http://www.afpbb.com/articles/-/3171540 2018年4月18日閲覧。 


  15. ^ 多田実『何も語らなかった青春「学徒出陣五十年、歴史を創ったわだつみの若者たち」』123-126頁(三笠書房、1993)


  16. ^ 澤田猛 父島事件 真相の一端 ~米捕虜の処刑に立ち会ったある少尉の証言~ POW研究会


関連項目



  • チャック・ノリス(友人、俳優、全米ライフル協会スポークスマン)

  • マルタ会談

  • 湾岸戦争

  • 全米ライフル協会

  • ボブ・ドール

  • 新秩序


外部リンク




  • Inaugural Address

  • Photos of George Bush during the Gulf War.


  • The American Presidency Project at UCSB: The Most Comprehensive Resource on the Web
    • Public Papers of the Presidents: George Bush


    • State of the Union Addresses

      • 1990,1991,1992


    • Inaugural Addresses
      • 1989


    • Presidential Elections

      • 1988,1992

    • 61 Audio/Video Clips of George Bush

    • Academic Data Related to the Bush Administration


  • Audio recordings of Bush's speeches

  • Page discussing the scanner story


  • George Bush: The Unauthorized Biography by Webster G. Tarpley & Anton Chaitkin

  • George Bush's political donations

  • White House biography

  • Medical and Health History of George H. W. Bush


  • George Bushの作品 - プロジェクト・グーテンベルク


  • ブッシュ ジョージ:作家別作品リスト(青空文庫)





































公職
先代:
ロナルド・レーガン

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国大統領
第41代:1989年 - 1993年
次代:
ビル・クリントン
先代:
ウォルター・モンデール

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国副大統領
1985年7月13日に大統領代行
第43代:1981年 - 1989年
次代:
ダン・クエール
先代:
ウィリアム・コルビー(en)

アメリカ合衆国の旗 アメリカ中央情報局(CIA)長官
第11代:1976年 - 1977年
次代:
スタンズフィールド・ターナー (en)
外交職
先代:
フランソワ・ミッテラン
フランス

先進国首脳会議議長
1990年
次代:
ジョン・メージャー
イギリス
先代:
デービッド・ブルース (en)

アメリカ合衆国の旗 在中国アメリカ合衆国大使
1974年 - 1976年
次代:
トーマス・ゲイツ・ジュニア (en)
先代:
チャールズ・W・ヨスト (en)

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国国連大使
第10代:1971年 - 1973年
次代:
ジョン・A・スカーリー (en)
党職
先代:
ロナルド・レーガン

共和党大統領候補者
1988年、1992年
次代:
ボブ・ドール
先代:
ボブ・ドール

共和党副大統領候補者
1980年、1984年
次代:
ダン・クエール
先代:
ボブ・ドール

共和党全国委員会委員長
第48代:1973年 - 1974年
次代:
メアリー・スミス (en)
先代:
ロイ・ウィッテンバーグ

共和党テキサス州上院議員候補者
1964年、1970年
次代:
アラン・スティールマン (en)
受賞
先代:
ルドルフ・ジュリアーニ

ロナルド・レーガン自由賞
2007年
次代:
ナタン・シャランスキー
名誉職
先代:
ジェラルド・フォード

アメリカ合衆国大統領経験者の最高齢
2006年 -
次代:
(現行記録保持者)







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