本居宣長























本居宣長

本居宣長四十四歳自画自賛像
(部分) 安永2年(1773年)

人物情報
生誕
享保15年5月7日(1730年6月21日)
伊勢国松坂
死没
享和元年9月29日(1801年11月5日)
伊勢国松坂
居住
伊勢国松坂
配偶者
勝(かつ)
学問
時代
江戸時代中期 - 後期
研究分野
国学・文献学
主要な作品
『古事記伝』
『源氏物語玉の小櫛』
影響を
受けた人物

堀景山、荻生徂徠、契沖、賀茂真淵
影響を
与えた人物

平田篤胤
主な受賞歴
贈正四位[1]贈従三位[2]
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本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋すずのや[3]にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人すずのやのうしと呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人しうし」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。




目次





  • 1 概要


  • 2 生涯


  • 3 人物


  • 4 作品

    • 4.1 著作文献


    • 4.2 国学


    • 4.3 評論


    • 4.4 語学


    • 4.5 随筆


    • 4.6 歌論


    • 4.7 経済


    • 4.8 歴史


    • 4.9 家集(和歌集)



  • 5 本居家

    • 5.1 和歌山本居家歴代当主


    • 5.2 松坂本居家歴代当主


    • 5.3 ゆかりの地



  • 6 参考文献


  • 7 伝記

    • 7.1 研究



  • 8 関連項目

    • 8.1 関連人物



  • 9 脚注


  • 10 外部リンク




概要


契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し[4]、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる[5]。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。


本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し[6]、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる[7]


また、本居宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。


本居宣長の代表作には、前述の『古事記伝』のほか、『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、そして『玉勝間』、『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』[8]などがある。


門下生も数多く『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載れている。主な門人として田中道麿、服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿・長瀬真幸・藤井高尚・高林方朗(みちあきら)・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。



生涯




「本居宣長六十一歳自画自賛像」 寛政2年(1790年)8月
賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのかかたなり、筆のついてに、しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山桜かな」[9]


本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家[10]の次男として生まれる。幼名は富之助。元文2年(1737年)、8歳で寺子屋に学ぶ。元文5年(1740年)、11歳で父を亡くす[11]。延享2年(1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。[12]


寛延元年(1748年)、19歳のとき、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰る。このころから和歌を詠み始める。


宝暦2年、22歳のとき、義兄[13]が亡くなり、小津家を継ぐが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。


宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書[14]に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。宝暦13年(1763年)5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』[15]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている[16]


宣長は、一時は紀伊藩に仕えた[17]が、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に、天明年間 (1781〜1789) の末頃から増加する。天明8年 (1788) 末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。


60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。その中では、自らの学問・思想・信念について述べている。また、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。寛政12年(1800年)、71歳の時、『地名字音転用例』を刊行する。『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している[18]


死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容の他、命日の定め方[19]、供養、墓のデザインまでにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。これについては、やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささかズレがあるとして、「謎」であるとする評論もある。


その墓は近世以後、1959年(昭和34年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに1999年(平成11年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。



人物




『古事記伝』再稿本(本居宣長記念館蔵・国重文)


家業を手伝うも、読書に熱中し商売に適していないと、母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動しており、かつ、寛政4年(1792年)紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていた[20]


宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした[21]。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。


しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている[22]。山室町高峰の妙楽寺に葬られた。


鈴コレクターで、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。この駅鈴は、寛政7年(1795年)8月13日に浜田藩主・松平康定が宣長の源氏物語講釈を聴講するのに先立って、自筆色紙と共に贈ったものである[23]。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。19歳の頃には架空都市「端原氏城下絵図」を描いた[24]


平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。これは、万葉の「ますらをぶり」を尊び、平安文芸を「たをやめぶり」と貶めた賀茂真淵の態度とは対照的である。


読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、借りた本を傷めるな、借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい、などの考えを記している。


大和国吉野の水分神が子守明神として、子を与え、守る神と世間で信じられていたため、宣長の父は男子が得られるよう祈り、宣長が生まれたため、宣長自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた[25]


儒仏に対する排除を主張していた宣長だが、10代頃は浄土教思想の強い影響下にあり、『直毘霊』成立前後から排除思想が強くなった[26]


宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。



作品




本居宣長記念館(三重県松阪市)




記念館近くの本居宣長ノ宮




本居宣長ノ宮(拝殿)




本居宣長の歌碑(猿田彦神社・三重県伊勢市)




本居宣長先生修学之地 石碑(京都市下京区綾小路通)







『本居宣長全集』は筑摩書房(全23冊)。他に『全集』は大正期に吉川弘文館(全12冊)、戦中期に岩波書店(6冊、未完)で刊行された。



著作文献


  • 『本居宣長全集』(全20巻別巻3)大野晋、大久保正編、筑摩書房、1968-1977年

  • 吉川幸次郎、佐竹昭広、日野龍夫校注 『本居宣長 日本思想大系』岩波書店、1978年


  • 日野龍夫校注 『本居宣長集』 新潮日本古典集成 新潮社、1983年、新装版2018年
    • 「紫文要領」「石上私淑言」を収録


  • 今西祐一郎校注 『古今集遠鏡』平凡社東洋文庫 全2巻、2008年


  • 白石良夫訳注 『本居宣長 「うひ山ぶみ」全訳注』講談社学術文庫、2009年

  • 村岡典嗣校訂 『うひ山ふみ 鈴屋問答録』、『玉くしげ・秘本玉くしげ』
    • 『玉勝間』(上・下)、『直毘靈』、各・岩波文庫(初刊) 1934-36年

  • 『排蘆小船 宣長「物のあはれ」歌論』 子安宣邦校注 岩波文庫 2003年

  • 『紫文要領』 子安宣邦校注 岩波文庫 2010年

  • 『宣長選集』野口武彦編・校注 筑摩叢書 1986年。「玉くしげ」など

  • 『現代語訳 本居宣長選集』山口志義夫訳、多摩通信社、新書判
    • 1. 『玉くしげ - 美しい国のための提言』(玉くしげ、玉くしげ別巻、直毘霊)2007年

    • 2. 『馭戎慨言 - 日本外交史』2009年

    • 3. 『うい山ぶみ - 皇朝学入門』(うい山ぶみ、答問録、講後談)2010年

    • 4. 『源氏物語玉の小櫛 - 物のあわれ論』(源氏物語玉の小櫛、第一巻、第二巻)2013年


  • 『本居宣長 コレクション日本歌人選058』山下久夫編、和歌文学会監修、笠間書院 2012年


国学


  • 『古事記伝』 村岡典嗣校訂、岩波文庫全4巻(全44巻のうち第1から第17巻まで)

  • 『源氏物語年紀考』

  • 『紫文要領』

  • 『源氏物語玉の小櫛』

  • 『直毘霊(なおびのみたま)』[27] 村岡典嗣校訂、岩波文庫

  • 『玉鉾百首』 同上

  • 『玉くしげ』 村岡校訂

  • 『鈴野屋問答』 村岡校訂

  • 『うひ山ぶみ』 同上、学問論でもある。

  • 『古今集遠鏡』


評論


  • 『排蘆小船(あしわけおぶね)』[28]

  • 『紫文要領』


語学


  • 『漢字三音考』

  • 『てにをは紐鏡(てにをはひもかがみ)』[29]

  • 『字音仮字用格(じおんかなづかい)』[30]

  • 『詞の玉緒(ことばのたまのお)』[31]

  • 『地名字音転用例』


随筆


  • 『玉勝間』 村岡典嗣校訂、岩波文庫上下


歌論


  • 『石上私淑言』

  • 『くず花』


経済


  • 『秘本玉くしげ(ひほんたまくしげ)』[32]


歴史


  • 『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』


家集(和歌集)


  • 『大日本天下四海画図』考證の為の自筆稿本(資料集)
「日本の絵図世に多いといっても、諸国の城下其外名所旧跡悉く在所が相違している。又行程の宿場や馬借の駅が微細でない。そのため自分は今この絵図を描くにあたり、城下町や船着場、名所遺跡の方角を正確に記し、在所を分明にして道中の行程や駅を微細に記し山川海島を悉くを描く。ならびに六十六洲の諸郡を顕して、又知行や高田数を書いて、大坂を起点とした諸方への道法を東西に分てこれを記す、異国の道のりも略顕した。延享三年五月吉日」(大日本天下四海画図より現代語訳)
  • 『都考抜書』考證の為の自筆稿本(資料集)

  • 『鈴屋集』


本居家


宣長以後、本居家は家督を継いだ養子大平の系譜に連なる和歌山の本居家と、実子春庭の系譜に連なる松坂の本居家に分かれる。



和歌山本居家歴代当主


  • 1本居宣長

  • 2本居大平(1756-1833):本居宣長養子。
    • (本居建正)(1788-1819):本居大平長男。32歳で早逝する。

    • (本居清島)(1789-1821):本居大平次男。33歳で早逝する。


  • 3本居内遠(1792-1855):本居大平養子。学識は宣長に次ぐといわれる。
    • (本居永平)(1819-1842):本居大平四男。後嗣となるが、24歳で早逝する。

  • 4本居豊穎(1834-1913):本居内遠長男。近代を代表する国学者。
    • (松野勇雄)(1852-1893):明治10年(1878年)に本居豊穎の養子となるが、明治12年(1880年)7月に離縁。

    • (増田于信)(1862-没年不詳):明治17年(1884年)に本居豊穎の養子となるが、まもなく離縁。


  • 5本居並子(1843-1886):本居豊穎長女。

  • 6本居長世(1885-1945):本居並子次男(増田于信長男)。作曲家。童謡の先駆者。

  • 7本居雷章菱山修三)(1909-1967):本居長世養子。詩人。


松坂本居家歴代当主


  • 1本居宣長

  • 2本居春庭(1763-1828):本居宣長長男。32歳で失明。

  • 3本居有郷(1804-1852):本居春庭長男。

  • 4本居信郷(1825-1900):本居有郷養子。本居宣長曾孫。

  • 5本居清造(1873-1958):本居信郷次男。本居豊穎から学統を継承する。

  • 6本居弥生(1903-1983):本居清造長男。

  • 7本居芳野(1942-):東京都在住。

*歴代は、本居宣長記念館の記述[1]に従う。()は一時期、後継者になったが、当主にならなかった人物。



ゆかりの地


  • 「本居宣長先生修学の地」- 本居宣長が京都に遊学して、儒学や医学を学んだ塾跡地(京都市下京区)に、本居宣長翁遺跡顕彰会の手によって建立。


参考文献



  • 日本古典文学大辞典編集委員会編 (1986), 日本古典文学大辞典簡約版, 岩波書店 .


伝記



  • 村岡典嗣 『本居宣長』 岩波書店、初版1928年/平凡社東洋文庫(全2巻、前田勉校訂)、2008年


  • 小林秀雄 『本居宣長』 新潮社、初版1977年/新潮文庫(上下)、改版2006年。脚注入り

  • 城福勇 『本居宣長』 吉川弘文館〈人物叢書〉、新装版1990年ほか


  • 田中康二 『本居宣長 文学と思想の巨人』 中公新書[33]、2014年

  • 岩田隆 『本居宣長の生涯 その学の軌跡』 以文社、1999年


  • 本山幸彦 『本居宣長』清水書院〈人と思想〉、新装版2014年


  • 芳賀登『本居宣長 近世国学の成立』 吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2017年。新装版

  • 吉田悦之 『本居宣長 日本人のこころの言葉』創元社 2015年
    • 吉田悦之 『第十回 『宣長さん』吟詠剣詩舞道大会記念 心力をつくして - 本居宣長の生涯』
    『宣長さん』吟詠剣詩舞道実行委員会、2013年4月(非売品)

  • 中根道幸 『宣長さん 伊勢人の仕事』 和泉書院 2002年

  • 小井土繁(漫画)・岡田勝(シナリオ) 『鈴せんせい 歴史漫画・本居宣長のすべて』 松阪青年会議所、1989年

  • 公益財団法人 鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館編・刊行 『新版 本居宣長の世界』 2013年11月


研究



  • 吉川幸次郎 『仁斎・徂徠・宣長』 岩波書店、1975年、復刊2001年
    • 『本居宣長』、『文弱の価値』 /のち「全集 日本編」に分巻で収録。各・筑摩書房


  • 相良亨 『本居宣長』 東京大学出版会、1978年/講談社学術文庫、2011年
    • 『相良亨著作集4 国学-本居宣長とその周辺 ほか』ぺりかん社、1994年


  • 長谷川三千子 『からごころ』 中央公論社〈中公叢書〉、1986年/中公文庫、2014年


  • 菅野覚明 『本居宣長 言葉と雅び』 ぺりかん社、1991年、改訂版2004年

  • 岡田千昭編 『本居宣長の研究』 吉川弘文館、2006年

  • 田中康二 『本居宣長の国文学』 ぺりかん社、2015年


  • 熊野純彦 『本居宣長』作品社、2018年

  • 『本居宣長事典』 本居宣長記念館編、東京堂出版、2001年


関連項目


  • 本居宣長旧宅

  • もののあはれ

  • 漢意

  • 字音仮名遣

  • 上代特殊仮名遣

  • 酒折宮

  • 皇学館

  • 伊勢神道


関連人物


  • 徳川治宝

  • 谷川士清

  • 橘守部

  • 松岡操


  • 服部中庸(箕田水月)

  • 伴信友


脚注


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  1. ^ 明治16年に贈位。山室山神社 -本居宣長記念館


  2. ^ 明治38年11月12日に従三位に追陞(『故賀茂真淵外一名贈位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A10110212900 )


  3. ^ 大久保正 「本居宣長」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 1815)


  4. ^ 師・真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張したという。

  5. ^ ab日本史用語研究会 『必携日本史用語』 実教出版(原著2009年2月2日)、四訂版。ISBN 9784407316599。


  6. ^ 儒教を体系化した孔子その人には好意的であり、「聖人と人はいへども聖人のたぐひならめや孔子はよき人」という歌を詠んでいる


  7. ^ 一方で、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは多大な影響を受けていることも指摘されている。


  8. ^ 杉戸清彬 「馭戎慨言」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 506)


  9. ^ 宣長にとってこの歌は自身の心とも言える特別なものだったらしく、自選歌集『鈴屋集』には載せず、人から乞われた時のみ染筆している(『心力をつくして ─本居宣長の生涯─』pp.70-72)


  10. ^ 父は小津三四右衛門定利(さだとし)。兄宗五郎定治は養子。宣長は実子としては長男だった。


  11. ^ 江戸店にて病死、享年46歳


  12. ^ 商売見習いのためであったと考えられる。当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆し、宝暦元年(1752年)12月上旬に書写作業完了。また、この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書(とこうばっしょ)』を延享3年より起筆、宝暦元年(1751年)頃まで書き継いだ。


  13. ^ 定治、江戸神田紺屋町宅にて没、享年40歳


  14. ^ 『冠辞考』(かんじこう)は『万葉集』に出てくる枕詞について詳細な解釈、精密な考察を施した書。


  15. ^ 杉戸清彬 「玉勝間」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, pp. 1189-1190)


  16. ^ この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。


  17. ^ 寛政4年(1792年)に五人扶持


  18. ^ 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ] 』 原書房 2011年 101-102ページ


  19. ^ 天文学的な、0時(当時の表現で「九つ(ここのつ)」)を日付の境とする考え方はまだ一般的には広まっておらず、日の出を境とする意識が(当時のインテリである宣長にはともかく、残される他の者には)多かったということだろうが、そういったことまで詳細に述べている。『こよみと天文・今昔』 p. 93


  20. ^ 初め加賀藩から仕官の交渉があったが、遠国であり、老身であるため、仕官を好まず、『記伝』の執筆中もあって断り、この噂を聞いた紀州藩が対抗的に招いた(先祖同様の士分に戻ったことを喜んだ)。参考・城福勇 『本居宣長』 吉川弘文館 新装版第二刷1990年 ISBN 4-642-05110-4 pp.187 - 188.


  21. ^ 青柳精一『診療報酬の歴史』思文閣出版、1996年、ISBN 978-4-7842-0896-8 P160-163


  22. ^ 布施昌一「医師の歴史」中央公論 1979


  23. ^ 『新版 本居宣長の世界』 p.89。


  24. ^ 「端原氏城下絵図」(はしはらし じょうか えず)


  25. ^ 城福勇 『本居宣長』 吉川弘文館 1990年 p.6.


  26. ^ 城福勇 『本居宣長』 吉川弘文館 1990年 pp.25 - 26.p.108.考え方には儒教の影響も見られるとされる。


  27. ^ 大久保正 「直毘霊」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 1345)


  28. ^ 岩田隆 「排蘆小船」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 29)


  29. ^ 山口明穂 「てにをは紐鏡」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 1282)


  30. ^ 鈴木真喜男 「字音仮字用格」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 844)


  31. ^ 永野賢 「詞の玉緒」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 733)


  32. ^ 大久保正 「秘本玉くしげ」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 1527)


  33. ^ 新書版は他に、野崎守英、田原嗣郎、子安宣邦があるが各・品切絶版。



外部リンク






  • ようこそ宣長ワールドへ

  • 吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』(松岡正剛の千夜千冊)

  • 本居宣長記念館


  • 1. 国学者 | あの人の直筆 - 国立国会図書館









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