ジェームス・マセソン
初代准男爵、サー・ジェームス・ニコラス・サザーランド・マセソン(英語: Sir James Nicolas Sutherland Matheson, 1st Baronet、中国語: 詹姆士·馬地臣(勿地臣)、1796年11月17日 - 1878年12月31日)はイギリス・スコットランドの実業家。
ウィリアム・ジャーディンとともにジャーディン・マセソン商会を設立した。
目次
1 生涯
2 日本との関わり
3 地名
4 関連項目
5 脚注
6 外部リンク
生涯
スコットランドのサザランドLairg生まれ。エディンバラ・ロイヤル・ハイスクール、エディンバラ大学で学び、卒業後は叔父がインドのカルカッタで開業したマッキントッシュ商会で働いていたが、叔父の事業失敗により失業する。その後、貿易船長のロバート・テイラーに従って中国広州に行き、1819年から二人でアヘン貿易を開始する。マセソンは全財産をつぎこむことになったが、幸いにも後にアヘンの価格は暴騰する[1]。
1820年、デンマーク駐広州領事に就任する。当時は英国商人が他国の領事に就任しても、イギリス東インド会社の規定に触れなかった[2]。1827年11月8日、ウィリアム・ウッドと広州でアヘン相場などを掲載した英字新聞『広州紀録報』を創刊した[3]。
1832年、ウィリアム・ジャーディンとともにジャーディン・マセソン商会を設立。インドから清へのアヘンの密輸、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、清の茶と絹のイングランドへの輸入、船積書類と積荷保険の取り扱い、造船所設備と倉庫の賃貸、貿易金融、その他貿易に関するあらゆる業務を取り扱った。
1830年代中頃から、清国ではアヘン貿易の代償に銀が大量に流出するのを恐れた当局が締め付けを強化したため貿易が次第に困難になっていた。この貿易不均衡は、西欧の貿易会社が取り扱う清国産の茶や絹の輸出額よりもアヘンの輸入額が高かったことを意味する。
しかし、清でのアヘン取引の拡大を望んだウィリアム・ジャーディンは、対清貿易で強硬姿勢を取るよう政府を説得するためマセソンをイギリスに派遣した。マセソンは『鉄の公爵』と呼ばれた外務大臣ウェリントン公に面会したが門前払いを食わされ、「傲慢で愚かな男に辱めを受けた」とジャーディンに報告した。1836年にマセソンがアジアに戻ると、ジャーディン自らがイギリスに向かった。同年、マセソンは著書『Present Position and Future Prospects of Trade in China』(イギリス対中貿易の現状と展望)を出版し、中国における貿易事情について詳しく述べている。
アヘン戦争後の1842年にイギリスに帰国。1843年11月9日、メリー・パーシバルと結婚。1844年、50余万英ポンドでスコットランドのルイス島を買収し、ルイス城を建設した。1851年、ルイス準男爵(1st Baronet of Lewis)を受勲。1843年から1852年までアシュバートン市選出の国会議員、1852年から1868年までスコットランドのロス・クロマティ郡選出の国会議員を務めた。1878年、フランスのマントンにて82歳で死去。子供がいなかったため、マセソンの家系は断絶した[4]。
日本との関わり
長州五傑(井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文)の英国留学は、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)が支援した。また、彼らの英国滞在中はジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話役となった。
地名
香港・銅鑼湾の「勿地臣街」(Matheson Street)はジェームス・マセソンから命名されている。
関連項目
- アヘン戦争
- ジャーディン・マセソン
- 英一番館
- ルイス島
- 広東システム
- 小説『阿片戦争』(陳舜臣) - 重要なキャラクターとして登場
脚注
^ 『洋行之王』p29-30 劉詩平 著、三聯書店(香港)、2010年
^ 『和平與友誼:丹麥與中國的官方關係1674-2000』 白慕申 著、北欧亜洲研究所、2000年
^ 『洋行之王』p39
^ 『Jardine Matheson: Traders of the Far East』 Robert Blake, Orion, 1999
外部リンク
Jardine Matheson - 本社HP
Jardines - 175Years of Looking to The Future - 本社HP~創業175周年の歴史
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