阿片戦争
鸦片戦争 | |||||||
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イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
イギリス
| 大清帝国 | ||||||
指揮官 | |||||||
ヴィクトリア(女王) メルバーン子爵(首相) パーマストン子爵(外相) チャールズ・エリオット(外交官) ジョージ・エリオット(海軍軍人) ジェームズ・ブレーマー(海軍軍人) ヒュー・ゴフ(陸軍軍人) | 道光帝(皇帝) 林則徐(欽差大臣) キシャン(琦善、欽差大臣) 関天培(武将) † 陳化成(武将) † | ||||||
戦力 | |||||||
19,000人[1]
| 200,000人 | ||||||
被害者数 | |||||||
69人戦死[1] 451人負傷[1] | 18,000人から20,000人死傷[1] |
阿片戦争(アヘンせんそう、中: 第一次鴉片戰爭、英: First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。
イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。
なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。
目次
1 戦争に至った経緯
1.1 アヘン貿易
1.2 清のアヘン取締
1.3 英国の対応
2 戦争勃発
3 終戦後の推移
4 戦争の余波
4.1 清・中華人民共和国への影響
4.2 銀の高騰
4.3 日本への影響
5 阿片戦争を扱った作品
5.1 小説
5.2 映画
5.3 ドラマ
6 参考文献
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 関連項目
戦争に至った経緯
もともと清は1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)[2]。
一方ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Committee of Supercargoes)という代表機関を設置していた[3]。しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった[3]。
このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては満足のいくものではなかった。広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていった[4]。
イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。北京政府は阿片貿易を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。1823年には阿片がインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となっている。広東貿易の枠外に広がりゆく阿片貿易は広東貿易制度を崩壊させるきっかけとなっていく[5]。
アヘン貿易
当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ[6]、イギリスの大幅な輸入超過[7]であった。イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
中国の明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年)にアヘン輸入禁止となる。以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた[8]。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転[9]、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。
清のアヘン取締
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清では、この事態に至って、官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い」というものである。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う黄爵滋らの意見が出て、道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命全権大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、夷館も閉鎖した。同年6月6日には没収したアヘンをまとめて処分した。焼却処分では燃え残りが出るため、阿片塊を海水に浸した上で塩と石灰を投入し、化学反応によって無毒化させた。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
英国の対応
北京の清政府内で阿片禁止論が強まっていた1836年、英国外相パーマストン子爵は現地イギリス人の保護のため、植民地勤務経験が豊富な外交官チャールズ・エリオットを清国貿易監察官として広東に派遣した[10]。またパーマストン子爵は海軍省を通じて東インド艦隊に対し、清に対する軍事行動の規制を大幅に緩めるのでエリオットに協力するよう通達した[10]。ただし、いまだ阿片取り締まりが始まっていないこの段階ではパーマストン子爵も直接の武力圧力をかけることは禁じている[10]。
1839年3月に広東に着任した林則徐による一連の阿片取り締まりがはじまると、エリオットはイギリス商人の所持する阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、5月24日には広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した[11]。急速な事態の進展に東インド艦隊も事態を掴んでおらず、軍艦を派遣してこなかったため、エリオットの元には武力がなかった。これを絶好のチャンスと見た林則徐は九竜半島でのイギリス船員による現地民殺害を口実に8月15日にマカオを武力封鎖して市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ[12]。
これによりエリオットたちは8月26日にマカオも放棄して船上へ避難することになった。しかしここでようやく東インド艦隊のフリゲート艦(「ボレージ」「ヒヤシンス」)が2隻だけ到着した(エリオットと清国の揉め事を察知したわけではなく、パーマストン子爵の方針にしたがってたまたま来ただけであり、しかも6等艦というイギリス海軍の序列では最下等の軍艦であった)。エリオットはこの2隻を使って早速に反撃に打って出た[13]。
戦争勃発
エリオットは1839年9月4日に九竜沖砲撃戦、11月3日に川鼻海戦に及んで清国船団を壊滅させた。
一方イギリス本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾いており、1839年10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議において遠征軍派遣が決定した[13]。「阿片の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の庶民院でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「不義の戦争」とする批判があったが[注釈 1]、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。
1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着した[16]。英国艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた広州ではなく、兵力が手薄な北方の沿岸地域を占領しながら北上し、大沽砲台を陥落させて首都北京に近い天津沖へ入った[17]。
天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、強硬派の林則徐を開戦の責を負わせて新疆イリへ左遷し、和平派のキシャンを後任に任じてイギリスに交渉を求めた。イギリス軍側もモンスーンの接近を警戒しており、また舟山諸島占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて9月に一時撤収した[18]。
1841年1月20日にはキシャンとエリオットの間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。後の南京条約と比べると比較的清に好意的だった)が締結された。ところがイギリス軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否した[19]。
締結拒否を知ったイギリス軍はその報復として軍事行動を再開した。英国艦隊は廈門、舟山諸島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧していった[20]。三元里事件での現地民間人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らが奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。とくに「ネメシス」号をはじめとした東インド会社汽走砲艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、清軍のジャンク船を次々と沈めて、後続の艦隊の進入の成功に導いた[21]。
英国艦隊はモンスーンに備えて1841年から1842年にかけての冬の間は停止したが、1842年春にインドのセポイ6,700人、本国からの援軍2,000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開した。5月に清が誇る満洲八旗軍が駐屯する乍浦を陥落させると揚子江へ進入を開始し(ここでも汽走砲艦が活躍)、7月には鎮江を陥落させた[22]。イギリス軍が鎮江を抑えたことにより京杭大運河は止められ、北京は補給を断たれた[22]。
この破滅的状況を前に道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われた[22]。
終戦後の推移
1842年8月29日、両国は南京条約に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結した。
阿片戦争以前、清国は広東(広州)、福建(厦門)、浙江(寧波)に海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していた。南京条約では公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。加えて本条約では英国への多額の賠償金の支払と香港の割譲が定められた。また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。
この英国と清国との不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。
この戦争を英国が引き起こした目的は大きく言って2つある。それは、東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。しかし、結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的は達成されなかった。中国製の綿製品が英国製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかった英国は次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。
戦争の余波
清・中華人民共和国への影響
阿片戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。北京から遠く離れた広東が主戦場であったことや、中華が夷狄(いてき:異民族)に敗れることはまま歴史上に見られたことがその原因である。そもそも、清という国自体が、漢民族から見れば夷狄の満州族が支配する帝国である。
広東システムに基づく管理貿易は廃止させられたものの、清は、依然として中華思想を捨てておらず、イギリスをその後も「英夷」と呼び続けた。
しかし、一部の人々は、イギリスがそれまでの中国の歴史上に度々登場した「夷狄」とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に『海国図志』を著した。「夷の長技を師とし以て夷を制す」という一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。ただし、この試みはあくまでも魏源による個人的な作業であって、政府機関主導による体系的な事業(例えば日本の江戸幕府が長崎を拠点に行ったようなそれ)ではなかったので、魏源による折角の努力も後継者不在の為発展せず、中国社会全体には大して影響を及ぼさなかった。
その後、太平天国の乱などが起きる一方、1860年代から洋務運動による近代化が図られた[23]。
阿片戦争の影響は、清が存在した中国大陸を現在支配している中華人民共和国にも及んでいるという指摘もある。同国では1kg以上の阿片を密輸、販売、運搬、製造すると、薬物密輸販売運搬製造罪(刑法第347条)となり、15年以上の懲役、無期徒刑又は死刑に処された上、財産を没収される。これについて、韓国の中央日報は「阿片戦争のトラウマによるもの」と指摘している[24]。天安門広場にある人民英雄紀念碑には阿片戦争の屈辱から中国共産党による大陸制覇までの歴史を掲げている。
銀の高騰
アヘンの輸入量は1800〜01年の約4,500箱(一箱約60kg)から1830〜31年には2万箱、阿片戦争前夜の1838〜39年には約4万箱に達した。このため1830年代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出し、国内の銀流通量を著しく減少させて銀貨の高騰をもたらした。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動していた。乾隆時代には銀1両(約37g)は銅銭700〜800文と交換されていたが、1830年には1,200文となり30年代末には最大で2,000文に達した。
地丁銀の税額は銀何両という形で指定されるが、農民が実際に手にするのは銅銭であり、納税の際には銅銭を銀に換算しなければならなかった。つまり、銀貨が倍に高騰することは納税額が倍に増えることを意味した。
日本への影響
清朝の敗戦は、長崎に入港するオランダや清の商人を通じて幕末の日本にも伝えられた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して、圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた[25]。かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に募らせた。中国国内では重要視されなかった魏源の『海国図志』[26]もすぐに日本に伝えられ、吉田松陰や佐久間象山ら、幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、中国ではなく日本において活かされることになったのである。天保14年(1843年)には、昌平坂学問所にいた斎藤竹堂が『鴉片始末』[27]という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えている。
それまで、異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令を出すなど、強硬な態度を採っていた江戸幕府も、この戦争結果に驚愕した。同時期に、日本人漂流民を送り届けてくれた船を追い返すというモリソン号事件が発生したこともあり、天保13年(1842年)には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打ち出すなど、欧米列強への態度を軟化させる[25]。この幕府の対外軟化が、やがて開国の大きな要因となり、ペリー来航、明治維新を経て、日本の近代化へとつながることになった[28]。
阿片戦争を扱った作品
小説
- 『阿片戦争』陳舜臣著 ISBN 4061311883・ISBN 4061311891・ISBN 4061311905
映画
- 『万世流芳』(1942年中華民国汪兆銘政権・満州国、監督:卜万蒼、朱石麟、馬徐維邦、張善琨、楊小仲)
- 『阿片戦争』(1943年日本、監督:マキノ正博)
- 『阿片戦争』(1959年中華人民共和国、監督:鄭君里、岑範)
- 『鴉片戦争』(1963年台湾、監督:李泉渓)
- 『阿片戦争[:zh]』(1997年中華人民共和国、監督:謝晋[シェ・チン])
ドラマ
- 『年忘れ必殺スペシャル 仕事人アヘン戦争へ行く 翔べ!熱気球よ香港へ』(1983年)
参考文献
陳舜臣『実録アヘン戦争』中公文庫 ISBN 4122012074
矢野仁一『支那外交史とイギリス〈その1〉アヘン戦争と香港』中公文庫 ISBN 4122016894
堀川哲男『林則徐―清末の官僚とアヘン戦争』中公文庫 ISBN 412202837X
井上裕正『清代アヘン政策史の研究』京都大学学術出版会、2004年 ISBN 4876985200- 井上裕正『林則徐 中国歴史人物選12』白帝社、1994年 ISBN 4891742291
角山栄『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』中公新書 ISBN 4121805968
ポール・ジョンソン『近代の誕生 第III巻 民衆の時代へ』別宮貞徳訳、共同通信社、1995年 ISBN 4764103427
横井勝彦 『アジアの海の大英帝国』 同文館、1988年。.mw-parser-output cite.citationfont-style:inherit.mw-parser-output .citation qquotes:"""""""'""'".mw-parser-output .citation .cs1-lock-free abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registrationcolor:#555.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration spanborder-bottom:1px dotted;cursor:help.mw-parser-output .cs1-ws-icon abackground:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center.mw-parser-output code.cs1-codecolor:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit.mw-parser-output .cs1-hidden-errordisplay:none;font-size:100%.mw-parser-output .cs1-visible-errorfont-size:100%.mw-parser-output .cs1-maintdisplay:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-formatfont-size:95%.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-leftpadding-left:0.2em.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-rightpadding-right:0.2em
ISBN 9784495852719。- 横井勝彦 『アジアの海の大英帝国 19世紀海洋支配の構図』 講談社学術文庫、2004年。
ISBN 978-4061596412。
- 横井勝彦 『アジアの海の大英帝国 19世紀海洋支配の構図』 講談社学術文庫、2004年。
尾鍋輝彦 『最高の議会人 グラッドストン』 清水書院〈清水新書016〉、1984年。
ISBN 978-4389440169。- 新版『最高の議会人 グラッドストン』清水書院「新・人と歴史29」、2018年。ISBN 978-4389441296。
- 和田民子「19世紀末中国の伝統的経済・社会の特質と発展的可能性 (PDF) 」 、『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』第8号、日本大学大学院総合社会情報研究科、2007年、 285-294頁、 ISSN 13461656、2014年2月6日閲覧。
脚注
注釈
^ グラッドストンは議会で「確かに中国人には愚かしい大言壮語と高慢の習癖があり、それも度を越すほどである。しかし、正義は異教徒にして半文明な野蛮人たる中国人側にある」と演説して阿片戦争に反対した[14]。他方グラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言も行い、答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に追及して彼をやり込めた[15]。
出典
- ^ abcdMartin, Robert Montgomery (1847). China: Political, Commercial, and Social; In an Official Report to Her Majesty's Government. Volume 2. James Madden. pp. 81–82.
^ 横井勝彦 2004, p. 70-72.- ^ ab横井勝彦 2004, p. 72.
^ 横井勝彦 2004, p. 73-74.
^ 横井勝彦 2004, p. 74.
^ 『近代の誕生 第III巻』p.113イギリスの主要輸出品だった綿織物への需要はほとんど無かった。
^ 『近代の誕生 第III巻』p.113 清国は1810年 - 1820年には2600万ドルの貿易黒字を計上している。
^ 加藤徹『貝と羊の中国人』p.92。
^ 『近代の誕生 第III巻』p.114 清国の貿易収支は1828年 - 1836年に3800万ドルの輸入超過になっている。- ^ abc横井(1988) p.55
^ 横井(1988) p.56-57
^ 横井(1988) p.57- ^ ab横井(1988) p.58
^ “世界史の遺風(91)ディズレーリ 「帝国主義者」の社会改革”. 産経新聞. (2014年1月9日). http://sankei.jp.msn.com/life/news/140109/art14010908300001-n1.htm 2014年8月21日閲覧。
^ 尾鍋(1984) p.72-73
^ 横井(1988) p.64
^ 横井(1988) p.66
^ 横井(1988) p.64-67
^ 横井(1988) p.69
^ 横井(1988) p.74-75
^ 横井(1988) p.70- ^ abc横井(1988) p.77
^ 和田民子 2007, pp. 287-290.
^ “【社説】韓国人の死刑執行6日後に通知した中国の欠礼”. 中央日報. (2015年1月7日). http://japanese.joins.com/article/980/194980.html 2017年5月1日閲覧。- ^ ab『世界大百科事典』平凡社、1988年、阿片戦争の項目.
^ [1] 海国図志. 巻首,1-100 / 魏源 撰
^ [2] 鴉片始末 / 斉藤馨 稿 ; 斎藤正謙 批
^ 猪木正道『軍国日本の興亡: 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp.3-5.
関連項目
- アヘン
- 中体西用
- イギリス帝国
- イギリス東インド会社
- ジャーディン・マセソン
- 香港上海銀行
- アロー戦争
- 麻薬戦争
- 南京条約
- 三元里事件
- 英華書院