皇后美智子





































皇后 美智子


唐衣裳姿の皇后美智子

第125代今上天皇后


皇后在位期間
1989年1月7日 - 在位中
昭和64年1月7日午前6時34分 - 在位中

立后
1989年(昭和64年)1月7日

誕生
(1934-10-20) 1934年10月20日(84歳)
日本の旗 日本・東京府東京市本郷区
(現:東京都文京区本郷)

結婚
1959年(昭和34年)4月10日
皇后
1989年(昭和64年)1月7日
身位
皇太子妃 → 皇后
敬称
陛下

美智子(みちこ)
氏族
正田家
旧名
正田美智子
お印
白樺
父親
正田英三郎
母親
正田富美子
配偶者
今上天皇
子女
皇太子徳仁親王(浩宮徳仁親王)
秋篠宮文仁親王(礼宮文仁親王)
黒田清子(紀宮清子内親王)
栄典
宝冠大綬章
役職
日本赤十字社名誉総裁
国際児童図書評議会名誉総裁
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称号: 皇后


Japan Kou(tai)gou Flag.svg
敬称
陛下
Her Imperial Majesty (H.I.M.)

皇室

Imperial Seal of Japan.svg

天皇 明仁
皇后 美智子



  • 皇太子 徳仁親王
    皇太子 徳仁親王妃 雅子
    • 敬宮 愛子内親王


  • 秋篠宮 文仁親王
    秋篠宮 文仁親王妃 紀子
    • 眞子内親王

    • 佳子内親王

    • 悠仁親王



  • 常陸宮 正仁親王
    常陸宮 正仁親王妃 華子

  • 三笠宮 崇仁親王妃 百合子


  • 寛仁親王妃 信子
    • 彬子女王

    • 瑶子女王




  • 高円宮 憲仁親王妃 久子
    • 承子女王


皇后美智子(こうごう みちこ、1934年〈昭和9年〉10月20日 - )は、日本の第125代天皇である今上天皇の皇后(在位:1989年〈昭和64年〉1月7日 - )。皇族。


旧姓名は、正田美智子(しょうだ みちこ)。


皇室典範に定める敬称は陛下。お印は白樺。栄典は勲一等宝冠大綬章。明治時代以降初めての民間出身[注釈 1]の皇族。




目次





  • 1 略歴

    • 1.1 少女時代


    • 1.2 入内への反発


    • 1.3 皇太子妃時代


    • 1.4 皇后時代


    • 1.5 今上天皇退位後



  • 2 年譜


  • 3 外国訪問

    • 3.1 単独訪問


    • 3.2 今上天皇との訪問



  • 4 皇子孫

    • 4.1 皇子女


    • 4.2 皇孫



  • 5 生家・正田家

    • 5.1 系譜


    • 5.2 正田邸



  • 6 栄典

    • 6.1 日本


    • 6.2 外国


    • 6.3 名誉役職



  • 7 著作

    • 7.1 和歌・発言集


    • 7.2 児童関連楽曲・書籍


    • 7.3 作詞



  • 8 逸話

    • 8.1 少女時代


    • 8.2 天皇に関するもの


    • 8.3 成婚に関するもの


    • 8.4 家庭・育児に関するもの


    • 8.5 祭祀・公務などに関するもの


    • 8.6 他の妃・皇孫に対するもの


    • 8.7 その他



  • 9 発言


  • 10 出典・注釈

    • 10.1 注釈


    • 10.2 出典



  • 11 参考文献


  • 12 関連項目


  • 13 外部リンク




略歴




少女時代




1940年(昭和15年)頃の正田美智子


1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現:東京都文京区の東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生[1]


大和郷幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校に入学するが、1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県藤沢市の乃木高等女学校附属小学校(現:湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現:館林市立第二小学校)、1945年(昭和20年)5月には、長野県の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入、同年9月まで在籍)[2]と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。


小学生時代の性格は、担任の回想では真面目な女の子・活発で勝ち気だった・神経質な性格だったとされていて、スポーツが得意な女の子だった[3]。また、ピアノ・絵画・料理、香道も習っていた[4]


1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は品川区五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国の子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだった事から「テンプルちゃん」や[5]ミッチ」「ミチ[4]と呼ばれていた。


1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を首席で卒業[6]。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長[7]、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた[8]。卒業式では、総代として答辞を読んだ[9]。自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた[10]。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクインした[11]。昭和29年度(1954年度)の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学の卒業論文は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』(The Forsyte Chronicles by John Galsworthy)大学卒業後にフランス語の習得をしながら19世紀の児童文学の研究を続けていた[12]
同年8月、長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られる。その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は正田美智子(当時)の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、「皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。


1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。


同年11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。同日記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました。」と回答。これは当時の流行語にもなった[13]。また第一印象について「ご清潔な方」とした。明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売される等のミッチー・ブームが起こる。



入内への反発




1955年ごろの呉竹寮。


皇太子妃は「皇族(臣籍降下後の旧宮家)か五摂家(伯爵以上)といった特定の旧華族」に属する女性から選ばれるのが習わしとされており、「平民から妃を迎える」ということが考えられなかった時代であり、1958年(昭和33年)の正田美智子嬢入内は、旧皇族・旧華族らに強く反対された[14]
旧皇族久邇宮家出身で姑ともなる皇后良子(当時)は、夏に、静岡県・御殿場[注釈 2]に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん。」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えた。
しかし、11月の皇室会議では、猛反対をしていた秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。旧皇族の梨本伊都子は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付けの日記に、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。」と記している。ただ、この結婚に理解を示した自身の義父ともなる昭和天皇の意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった[15][16]





皇太子妃時代




1959年(昭和34年)、朝見の儀に臨んだ昭和天皇、香淳皇后、皇太子同妃美智子




お印に選ばれた白樺




1979年(昭和54年)10月、訪蘭時にベアトリクス女王夫妻と




1987年(昭和62年)10月、訪米時にロナルド・レーガン大統領夫妻と


1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と成婚する。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった[17]。お印は夫妻の出会いの場だった軽井沢にちなんで白樺とした[18]


晴れがましいご成婚のパレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる[19]。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従入江相政に対し「(香淳皇后は)平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという[20]


一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる東久邇成子より自宅のホームパーティーに招かれるなど、好意的な旧皇族も存在した。またパレードの際にも暴漢が馬車を襲撃[注釈 3]して取り押さえられる事件が起こった。


1960年(昭和35年)2月23日に第一子・第一男子浩宮徳仁親王が誕生した。出産後、昭和天皇、香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」とねぎらいの言葉をかけられた。また、浩宮徳仁の命名は昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待された。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。


1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ[21]。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説「美智子さま」の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版に申し入れ、連載は中止された[22]。直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行われた[22]。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連付け、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる[22]。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった[23]。7月8日から皇太子・浩宮とともに軽井沢で過ごした後、9月1日に帰京し、9月13日の山口国体から、段階的に公務に復帰した。





1964年(昭和39年)皇太子明仁親王と共に 東京パラリンピックにて


1965年(昭和40年)11月30日、第二子・第二男子礼宮文仁親王誕生。


1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王との第三子・第一女子紀宮清子内親王誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。


これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した[注釈 4]


1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点を付けるか」との問いに対し、皇太子が「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。


1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪韓は中止になった。手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。


晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃勢津子とは共にマラソンを観戦した姿も目撃、報道された[24]。また次男の文仁親王と長女の清子内親王は高松宮妃喜久子と関係が深く、孫のように可愛がられていたといわれる。



皇后時代




2002年(平成14年)1月、米国ジョージ・W・ブッシュ大統領夫妻と会談




2009年(平成21年)7月10日、カナダ訪問時(リッチモンド・オリンピックオーバル、ブリティッシュコロンビア州リッチモンド)


1989年(昭和64年)1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后になる。即位後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。


1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日に赤坂御所にて倒れる。同年の『宝島30』8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた[25][26]。島田雅彦のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、今上天皇夫妻を昭和天皇に比して華美で西洋風な生活を送り、神道よりもキリスト教に親和性が高く(元々美智子皇后がミッション系大学の出でもあることから)、国民の望む皇室の主としてふさわしくないという批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも皇后に対するバッシング記事が掲載された[26][27]。宮中の最高権力者となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる[26]。このため皇后は精神的な苦痛から失声症となった[26][27]。これに対し、宝島社および文藝春秋の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后が宮中祭祀を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の菊タブーが明らかになったとされる[26]。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している[27]


1994年(平成6年)10月20日、還暦を迎える。


1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻で阪神・淡路大震災後の神戸を見舞い(行幸啓)、兵庫県神戸市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。


1998年(平成10年)、インド・ニューデリーで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本神話に触れ、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、IBBYの本部があるスイス・バーゼルで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。


2002年(平成14年)10月20日、皇后の満68歳の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で次のように北朝鮮による日本人拉致問題についてコメントした。「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います[28]」。


2005年(平成17年)10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという[29]


2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問。





2009年(平成21年)7月15日、米国ハワイ・ホノルルの第二次世界大戦太平洋戦線戦没者慰霊碑に礼をして。


しかしながら、2008年(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された[30]


2011年(平成23年)3月30日、 天皇とともに夫妻で、東北地方太平洋沖地震による東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館(東京都足立区)を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人一人を親しく激励した。


2015年(平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から、徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。宮内庁は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、東京大学病院で精密検査を受診すると発表した。同病院で、冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している[31]



今上天皇退位後


2017年6月9日に退位特例法が成立した。これにより今上天皇の退位が実現すれば、同法に基づき称号は「上皇后(じょうこうごう)」となるとされているが、歴史的に用いられてきた「皇太后(こうたいごう)」(あるいはその略称である「太后(たいごう)」)の称号を用いるべきとする反対意見もある。



年譜



  • 1934年(昭和9年)10月20日、東京府東京市本郷区(東京都文京区本郷)の東京帝国大学医学部附属病院にて誕生。


  • 1939年(昭和14年)、大和郷幼稚園に入園(文京区本駒込)。

  • 1939年(昭和14年)、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園に編入園(千代田区六番町)。


  • 1941年(昭和16年)、雙葉学園雙葉小学校に入学。


  • 1944年(昭和19年)、乃木高等女学校附属小学校(現:湘南白百合学園小学校)に編入学(神奈川県藤沢市)。
    • 館林南国民学校(現:館林市立第二小学校)に編入学。


  • 1945年(昭和20年)5月、軽井沢第一国民学校(現:軽井沢町立東部小学校)に編入学。


  • 1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業。


  • 1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院中等科を卒業


  • 1955年(昭和30年)3月、聖心女子学院高等科を卒業


  • 1957年(昭和32年)、聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。


  • 1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と成婚(皇太子妃冊立)。
    • 同日付で勲一等宝冠章を受章。


  • 1960年(昭和35年)2月23日、浩宮徳仁親王を出産。


  • 1965年(昭和40年)11月30日、礼宮文仁親王を出産。


  • 1969年(昭和44年)4月18日、紀宮清子内親王を出産。


  • 1989年(昭和64年)1月7日、皇太子明仁親王の践祚に伴い皇后冊立(立后)。


外国訪問



単独訪問





1987年(昭和62年)今上天皇と共に アメリカ・メリーランド州、アンドルーズ空軍基地にて



  • 2002年(平成14年)9月28日 - 10月3日、スイス旅行。

    • 国際児童図書評議会 (IBBY)、スイス・バーゼル=シュタット準州州政府からの招待により、同準州州都でIBBYの本部があるバーゼルで開催される「国際児童図書評議会創立50周年記念大会」に同会の名誉総裁として出席のため。


  • 2014年(平成26年)12月11日 - 12月13日、ベルギー訪問。
    • 元・ベルギー国王ボードゥアンの王妃であるファビオラが12月5日に死去し、12月12日に首都ブリュッセル行われる葬儀に参列するため[32]


今上天皇との訪問










































































































































































































































































第125代天皇在位中の外国訪問
出国帰国訪問地同行
備考

1991年
(平成3)
9月26日10月6日
タイ王国の旗 タイ、マレーシアの旗 マレーシア、 インドネシア
皇后国際親善 各国からの招待

1992年
(平成4)
10月23日10月28日
中華人民共和国の旗 中国
皇后国際親善 中国からの招待

1993年
(平成5)
8月6日8月9日
ベルギーの旗 ベルギー
皇后国王ボードゥアン1世の国葬参列
9月3日9月19日
イタリアの旗 イタリア・ベルギーの旗 ベルギー・ドイツの旗 ドイツ(バチカンの旗 バチカン立寄り)
皇后国際親善 各国からの招待

1994年
(平成6)
6月10日6月26日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
皇后国際親善 アメリカからの招待
10月2日10月14日
フランスの旗 フランス・スペインの旗 スペイン( ドイツの旗 ドイツ立寄り)
皇后国際親善 両国からの招待

1997年
(平成9)
5月30日6月13日
ブラジルの旗 ブラジル・アルゼンチンの旗 アルゼンチン(ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク・アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国立寄り)
皇后国際親善 両国からの招待

1998年
(平成10)
5月23日6月5日
イギリスの旗 イギリス・ デンマーク(ポーランドの旗 ポーランド立寄り)
皇后国際親善 両国からの招待

2000年
(平成12)
5月20日6月1日
オランダの旗 オランダ・ スウェーデン(スイスの旗 スイス、 フィンランド立寄り)
皇后国際親善 両国からの招待

2002年
(平成14)
7月6日7月20日
ポーランドの旗 ポーランド・ ハンガリー( チェコ、 オーストリア立寄り)
皇后国際親善 両国からの招待

2005年
(平成17)
5月7日5月14日
 ノルウェー(アイルランドの旗 アイルランド立寄り)
皇后国際親善 ノルウェーからの招待
6月27日6月28日
北マリアナ諸島の旗 サイパン島
皇后
平和祈念 戦没者慰霊

2006年
(平成18)
6月8日6月15日
シンガポールの旗 シンガポール・タイ王国の旗 タイ(マレーシアの旗 マレーシア立寄り)
皇后国際親善 シンガポールからの招待
タイ国王即位60年記念式典臨席

2007年
(平成19)
5月21日5月30日
 スウェーデン・ エストニア・ ラトビア リトアニア・イギリスの旗 イギリス
皇后国際親善 各国からの招待[34]

2009年
(平成21)
7月3日7月17日
カナダの旗 カナダ・ハワイ州の旗ハワイ
皇后国際親善 カナダからの招待
ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事[35]

2012年
(平成24)
5月16日
5月20日

イギリスの旗 イギリス
皇后
女王エリザベス2世即位60周年の記念午餐会招待[36]

2013年
(平成25)
11月30日12月6日
インドの旗 インド
皇后
国際親善 インド政府からの招待[37]

2015年
(平成27)
4月8日4月9日
パラオの旗 パラオ
皇后戦没者慰霊 平和祈念 パラオ国の招請[38]

2016年
(平成28)
1月27日1月30日
フィリピンの旗 フィリピン
皇后国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念[39]

2017年
(平成29)
2月28日3月6日
 ベトナム(タイ王国の旗 タイ立寄り)
皇后国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念
タイ国前国王プミポン・アドゥンヤデートの弔問[40]




皇子孫




1969年(昭和44年)



皇子女


第125代今上天皇との間に3子がいる。




























読み
生年

御称号

続柄
現在

徳仁親王
なるひと
昭和35年(1960年)
2月23日(58歳)

ひろのみや
浩宮

第1皇男子

皇太子

文仁親王
ふみひと
昭和40年(1965年)
11月30日(53歳)

あやのみや
礼宮
第2皇男子

秋篠宮家当主

清子内親王
さやこ
昭和44年(1969年)
4月18日(49歳)

のりのみや
紀宮
第1皇女

黒田家に皇籍離脱


皇孫





























読み
生年

御称号

続柄

愛子内親王
あいこ
平成13年(2001年)
12月1日(17歳)

としのみや
敬宮

皇太子徳仁親王第1女子

眞子内親王
まこ
平成3年(1991年)
10月23日(27歳)


秋篠宮文仁親王第1女子

佳子内親王
かこ
平成6年(1994年)
12月29日(24歳)

秋篠宮文仁親王第2女子

悠仁親王
ひさひと
平成18年(2006年)
9月6日(12歳)

秋篠宮文仁親王第1男子

※ 順序は皇位継承の順序に準ずる。[41]




天皇一家と諸王





生家・正田家




正田貞一郎の家族
前列右から貞一郎、二女・勅子、母・幸、三女・祐子、五男・篤五郎、妻・きぬ、四男・順四郎、後列右から三男・英三郎、長男・明一郎、義弟・卓治、二男・建次郎[42]


  • 高祖父:文右衛門 - 正田醤油株式会社創業者

  • 祖父:貞一郎 - 日清製粉グループ本社創業者、貴族院議員、正五位勲三等

  • 祖母:きぬ - 正田醤油社長・文右衛門の長女

  • 父:英三郎 - 日清製粉名誉会長

  • 母:富美子 - 多久藩士・副島家出身。中支那振興会社常務理事・副島綱雄の長女、英国租界(現:中国上海)生まれ。[注釈 5]

  • 兄: - 日本銀行国債局長、日本銀行監事、ドイツベルリン生まれ。夫人は第27代内閣総理大臣濱口雄幸の孫、国際電電(現:KDDI)会長濱口雄彦の次女

  • 妹:恵美子 - 昭和電工専務、日本体育協会会長・安西孝之夫人

  • 弟: - 日清製粉グループ本社取締役会長、東武鉄道監査役、花王取締役。夫人は華族・野津道貫侯爵の孫

  • 叔父:建次郎 - 数学者・大阪大学6代総長、武蔵大学学長、勲一等瑞宝章[43]

  • 叔父:順四郎 - 日本農産工業社長、日本医学会(日本栄養・食糧学会)常務、1945年(昭和20年)5月の東京大空襲で死亡(享年39歳)

  • 叔父:篤五郎 - 東京大学名誉教授、専修大学教授

  • 叔母:祐子 - ニチロ取締役、一橋大学教授、三菱銀行行員・脇村禮次郎夫人

  • 叔母:勅子 - 東京大学教授、東京大学幅射線化学研究所所長、日本学士院会員・水島三一郎夫人。勲一等瑞宝章

  • 従兄: - 慶應義塾大学名誉教授、上智大学教授、公正取引委員会顧問

  • 従兄: - ソニーチャイナ会長、ソニー顧問

  • 従弟:晋一郎 - 東北大学助教授、東北大学大学院工学研究科教授、日本化学会東北支部幹事長、高分子学会東北支部理事

  • 従兄:脇村春夫 - 第5代日本高等学校野球連盟会長、東京大学助教授、東洋紡績専務


系譜


  • 『正田貞一郎小伝』9 - 21頁によると、
    • 「徳川家の菩提所である群馬県新田郡世良田長楽寺の伝えるところによれば、正田家の祖先は新田義重の家臣生田隼人[注釈 6]となっている。天正年間、生田義豊は徳川家康に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。

    • 後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人となり、これが館林における正田家の始まりである。それは、延享、寛政の頃といわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これを襲名した。

    • 正田家は代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林および近郊きっての富商であった。「米文」の名声は江戸はいうまでもなく、大阪方面まで聞こえていた。弘化の頃(1844年 - 1847年)には名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。


    • 文政元年(1818年)7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家“中興の祖”といわれている。文右衛門は明治6年(1873年)米穀商を辞め、醤油醸造業を始めた。」という。



  • 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(角川書店、2002年)385-386頁によると、
    • 「そもそも正田家のルーツは群馬県館林の在。“開かれた皇室”を実現すべく、皇太子妃を選ぶにあたって尽力した小泉信三は、正田家を三百年前までさかのぼって調べたという。

    • 郷土史家によれば“正田家の祖先は源義家の孫、新田義重の重臣、生田隼人[注釈 6]までいきあたる”というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(天和2年没)からである。

    • この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名するに至っている。江戸時代は“米文”の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場をうごかす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋であったが、明治6年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は、突然家業をやめ、“亀甲正”という商号で新しく醤油醸造業を始めた。」という。




(三代)
正田文右衛門━┳━正田文右衛門
       ┃              ┏━正田明一郎
       ┃              ┣━はる
       ┗━正田作次郎━━正田貞一郎 ┃
                  ┃   ┃
                  ┃   ┃
                  ┣━━━╋━正田建次郎
                  ┃   ┃  ┣━━━━正田彬
                  ┃   ┃
                 きぬ   ┃
       (五代目・正田文右衛門の長女)┣━勅子
                      ┣━正田英三郎
                      ┃  ┣━━┳━正田巌
                      ┃ 冨美子 ┣━美智子
                      ┃     ┣━恵美子
                      ┣━祐子  ┗━正田修
                      ┣━正田順四郎
                      ┣━正田篤五郎
                      ┗━和子















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































 
 
 
 
 
 
 
 
歴代天皇
 
歴代皇后
 
親王
 
内親王・女王
 
臣籍降嫁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正天皇
 
貞明皇后
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇
 
香淳皇后
 
秩父宮
雍仁親王
 
勢津子
 
高松宮
宣仁親王
 
喜久子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三笠宮
崇仁親王
 
百合子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東久邇成子
(照宮)
 
久宮
祐子内親王
 
鷹司和子
(孝宮)
 
池田厚子
(順宮)
 
今上天皇
 
皇后美智子
 
常陸宮
正仁親王
 
華子
 
島津貴子
(清宮)
 
近衞甯子
 
寬仁親王
 
信子
 
桂宮
宜仁親王
 
千容子
 
高円宮
憲仁親王
 
久子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇太子
徳仁親王
 
雅子
 
秋篠宮
文仁親王
 
紀子
 
黒田清子
(紀宮)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彬子女王
 
瑶子女王
 
 
 
 
 
承子女王
 
千家典子
 
守谷絢子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敬宮
愛子内親王
 
 
 
眞子内親王
 
佳子内親王
 
悠仁親王
 
 
 
 
 




正田邸





1958年(昭和33年)4月10日の正田家一族と正田邸




旧正田邸跡地の公園ねむの木の庭。(2007年)


皇后が家族と共に、出生から結婚までの半生を過ごした正田邸は、昭和初期に皇后の父である正田英三郎が構え、清水組によって建設された洋館である。竣工当時は、比較的シンプルなデザインであったが、重層的な増築により、屋根などの装飾が複雑に重なり、天窓などのモダニズム建築の要素も加えられた。近世イギリスのテューダー朝形式の英国風の屋根や、当時流行した木組みを表面に見せる北欧のハーフティンバー様式のデザインは典型的な上流邸宅しても建設された。邸内は客室兼書斎の中央にマントルピースが備わっており、居間にはシャンデリアなどもあり、和室なども存在した[44]


約70年間保存されてきた貴重な建造物であったが、2003年(平成15年)3月に老朽化を理由に解体された。2004年(平成16年)8月26日に、「旧正田邸跡地」「皇后美智子の生家跡」とされ、後に自由公園であるねむの木の庭が建設された。現在では、公園用地として品川区が運営している。公園名の由来は、皇后が聖心女子高等学校時代に作った詩である「ねむの木の子守歌」にちなんで名付けられた。旧正田邸の門扉を模した正門、正田邸にあった庭石などがあり、暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯などが配されている。園内には、皇后が歌会始で詠んだやまぼうし、ねむの木、ライラックや、皇后のお印である白樺などが植えられている。また、皇太子妃時代に、イギリスから贈られた薔薇プリンセス・ミチコも、初夏と秋に咲いている。




栄典



日本



  • 宝冠大綬章(勲一等宝冠章) - JPN Hokan-sho 1Class BAR.svg[45][46][47][48][49]


外国



  • オーストリアの旗 オーストリア: オーストリア共和国勲章 - AUT Honour for Services to the Republic of Austria - 1st Class BAR.png[50]


  • ベルギーの旗 ベルギー: レオポルド勲章 - Grand Crest Ordre de Leopold.png[51][52]


  • デンマークの旗 デンマーク: エレファント勲章 - Orderelefant ribbon.png[53][54]


  • エチオピアの旗 エチオピア: シバの女王勲章 - Order of The Queen of Sheba (Ethiopia) ribbon.gif[55][56]


  • ドイツの旗 ドイツ: ドイツ連邦共和国功労勲章 - GER Bundesverdienstkreuz 9 Sond des Grosskreuzes.svg


  • リトアニアの旗 リトアニア: 大公ヴィータウタス勲章 - Order of Vytautas Commanders Grand Cross Ribbon.jpg


  • ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク: ナッサウ家金獅子勲章 - Ord.Lion.Nassau.jpg[57]


  • マレーシアの旗 マレーシア: ラム・クラウン勲章 - MY Darjah Utama Seri Mahkota Negara (Crown of the Realm) - DMN.svg


  • ネパールの旗 ネパール:
    • オヤイランニャ勲章 - Ord.Rajanya.Nepal-Ribbon.gif[58]

    • ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハメダル[59]



  • オランダの旗 オランダ: オランダライオン勲章 - NLD Order of the Dutch Lion - Grand Cross BAR.png[60][61][62]


  • ノルウェーの旗 ノルウェー: 聖オーラヴ勲章 - St Olavs Orden storkors stripe.svg[63]


  • フィリピンの旗 フィリピン: ガブリエラ・シラン勲章 - PHL Order of Gabriela Silang.png[64]


  • ポーランドの旗 ポーランド: 白鷲勲章 - POL Order Orła Białego BAR.svg


  • ポルトガルの旗 ポルトガル: ソード・セントジェームス勲章 - PRT Order of Saint James of the Sword - Knight BAR.png[65]


  • ポルトガルの旗 ポルトガル: エンリケ航海王子勲章 - PRT Order of Prince Henry - Grand Cross BAR.png


  • スペインの旗 スペイン:
    • イザベラ・カトリック勲章 - Order of Isabella the Catholic - Sash of Collar.svg[66][67][68]

    • チャールズ3世勲章 - ESP Charles III Order GC.svg[69][70][71]



  • スウェーデンの旗 スウェーデン : セラフィム勲章 - Order of the Seraphim - Ribbon bar.svg[72][73][74]


  • ギリシャの旗 ギリシャ : 救い主勲章 - GRE Order Redeemer 1Class.png


  • タイ王国の旗 タイ: 大チャクリー勲章 - Order of the Royal House of Chakri (Thailand) ribbon.png[75][76][77][78]


  • モロッコの旗 モロッコ:ウイサム・アラウアイト勲章[79][80]


名誉役職



  • 日本赤十字社名誉総裁[81][82]


  • 国際児童図書評議会名誉総裁


著作



和歌・発言集


  • 『ともしび-皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月

  • 『瀬音-皇后陛下御歌集』 大東出版社、1997年4月、ISBN 4-500-00633-8 / 新装版 2007年、ISBN 978-4-500-00724-0

  • 『あゆみ-皇后陛下お言葉集』 宮内庁侍従職監修、海竜社、2005年10月、ISBN 4-7593-0900-4 / 改訂新版 2010年3月、ISBN 978-4-7593-1097-9

  • 『道--天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月 ISBN 4-14-080467-X / 新装版 2009年、ISBN 978-4-14-081390-4

  • 『道--天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、2009年、ISBN 978-4-14-081389-8


児童関連楽曲・書籍


  • 『はじめての やまのぼり』絵 武田和子 至光社 1991年、ISBN 9784783401995

  • 『五木の子守唄 鮫島有美子』 Denon、1992年(作詞した「ねむの木の子守歌」を収録)

  • 『愛のゆりかご 日本の子守歌』 中目徹編、東亜音楽社、1995年(楽譜、19曲目に作詞曲を収録)

  • 『どうぶつたち (The Animals):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、1992年9月、ISBN 978-4-915777-06-6

  • 『ふしぎなポケット (The Magic Pocket):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、1998年6月、ISBN 4-915777-21-9

  • 『橋をかける--子供時代の読書の思い出』 すえもりブックス、1998年11月 ISBN 4-915777-22-7 / 文春文庫、2009年4月、ISBN 978-4-16-775381-8

  • 『バーゼルより--子どもと本を結ぶ人たちへ』 すえもりブックス、2003年2月、ISBN 4-915777-34-0(第2版)


作詞


  • ねむの木の子守歌(作曲:山本正美)

    • 1966年、吉永小百合(ビクター)と梓みちよ(キング)の競作でシングルレコードとして発売。


    • 鮫島有美子や横内美知代をはじめ多くの歌手にカバーされている。


逸話



少女時代


  • 非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代にはリレーの選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であったと伝えられる。

  • 学生時代に学校において出会ったアイルランドの修道女たちに深い思いを寄せており、一人一人の顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。


天皇に関するもの


  • 戦後新憲法(日本国憲法第1章)により,天皇のご存在が「象徴」という,私にとっては不思議な言葉で示された1947年(昭和22年)、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を,ただそのままに受け止めておりました。御所に上がって50年がたちますが、「象徴」の意味は、今も言葉には表し難く、ただ,陛下(=自身の夫)が「国の象徴」また「国民統合の象徴」としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます[83]


成婚に関するもの



  • 1955年(昭和30年)- 1956年(昭和31年)頃、東京・銀座の小料理店「井上」2階にて、独身時代の三島由紀夫と“見合い”風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。[84][85][86])


  • 皇室に嫁ぐ際、お印が白樺に決まると、実家の庭に軽井沢から取り寄せたその苗木を自ら植えた[18]

  • 成婚に際しては作曲家の團伊玖磨が「祝典行進曲」を作曲した。この曲は後に紀宮清子内親王が降嫁する際、皇居から帝国ホテルへ出発する内親王を送るためにも演奏された。

  • 国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、この事に関し2004年(平成16年)の誕生日に次のように発表した[87]
    • 「私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います」。

  • 結婚の儀当日天皇から授けられた守り刀は、1955年に、刀剣では最初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された刀工高橋貞次の作。浩宮徳仁親王・礼宮文仁親王の守り刀も彼の作である。


家庭・育児に関するもの


  • 成婚時に「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置。後に幼少期の浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの離乳食や弁当もこの厨房で自ら作ったこともある。

  • 皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止、3人の子を全て自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。なお、後の礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。

  • いわゆる「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている[87]


祭祀・公務などに関するもの





2005年(平成17年)12月、天皇誕生日の一般参賀にて天皇と共に


  • 天皇行幸の際には、ほぼ常に同行している(行啓)。そのときの服装は、訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。例えば2007年(平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。


  • 明治以来の歴代皇后が行ってきた養蚕(皇后御親蚕)を継承している。紅葉山御養蚕所において奈良時代から飼育され続けてきた蚕の品種「小石丸」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。小石丸は今日では全国で飼育されるに至り、各種美術品の修復にも用いられている。養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てた事もある。近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、内親王たちの着物に仕立てられたという。

  • 特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」[注釈 7]では、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。またこの講演では幼少の頃に家族から聞かされた童話として新美南吉の「デンデンムシノカナシミ」を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。2002年には、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。なお、その時の祝辞は、『バーゼルより-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。

  • 戦没者慰霊の地に赴き、和歌を詠んでいる。


他の妃・皇孫に対するもの



  • 紀子妃は同じく旧皇族・旧華族以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。


  • 皇太子徳仁親王の結婚の際には、雅子妃にルビーの指輪を贈った。この指輪は自身の結婚の際、香淳皇后から贈られたものであった。また、秋篠宮文仁親王の結婚の際には、紀子妃に真珠の指輪を贈った。


  • 2006年(平成18年)2月、紀子妃の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。また、紀子妃が前置胎盤で帝王切開が必要なことがわかると、それを心配する言葉を寄せた。
    • 無事に悠仁親王が誕生すると、皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。このベビーシューズは秋篠宮家で大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた[88]

  • また、同年の誕生日においては、敬宮愛子内親王との面会や彼女の着袴の儀を楽しみにしている旨を発表[89]。なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮」と呼ばずに「愛子」と呼んでいる。


その他




プリンセス・ミチコ(1966年)




1987年(昭和62年)、レーガン大統領夫人と皇太子妃美智子(当時)



  • イギリスのディクソン社からプリンセス・ミチコというバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。他にエンプレス・ミチコというバラが皇后冊立後4周年記念に献呈されたが、「プリンセス・ミチコ」の方がフロリバンの品種として優れており「美智子さまの薔薇」と言えばこちらを指すのが一般的である。

  • 皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」等ともいわれて[誰?]いたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなどリフォームをして繰り返し着用しているという[90]

  • 公務の際は、洋装に日本独自のもの(佐賀錦等)をあしらったり、訪問先の国花・都道府県花等を身につけたり、国旗を意識した配色の衣服を着用する等の気配りを見せている。そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、1985年・1988年・1990年の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。植田いつ子らがデザイナーとして知られる。


  • 1992年(平成4年)に、山形県において開催された秋の国体(べにばな国体)の開会式臨席の際、暴漢が発煙筒を投じたところ、とっさに片手を挙げ身を挺して天皇をかばうなど[注釈 8]、常に天皇を気遣っている。


  • 宮内庁職員組合文化祭には白木華子(=白樺子→シラカバ)の名前でひそかに手芸作品を出品したことがある。その時、紀宮清子内親王も「川瀬美子(かわせ・みこ→カワセミ)」の名前で出品した。

  • 音楽に造詣が深く、学生時代からピアノが得意とされる。バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接したピアニストの中村紘子は、あれだけ想いの深い演奏をするピアニストは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている[91]。またピアニスト・田中希代子の演奏を愛し、1996年(平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。このほかハープも得意とする。ハープを演奏する写真も撮影されている。2009年(平成21年)のカナダ訪問時に訪れたトロントの小児病院では子供たちを前に、子育てのとき子供たちに歌って聞かせた「揺籃のうた」(北原白秋作詞、草川信作曲)を歌唱した。




1958年(昭和33年)、ピアノを演奏する皇后美智子(正田美智子)



  • 1999年(平成11年)、父・正田英三郎の死去に伴い、東京都品川区東五反田五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸が相続の対象になった際は、相続権を放棄。正田邸跡地は小公園「品川区立ねむの木の庭」になっている。

  • 元・宮内庁担当記者の板垣恭介は、皇太子妃時代の記者会見で彼女がクッキーを手作りすることを疑う質問をすると、次の機会で記者らに手作りクッキーを出して笑顔で勧めたり、明仁皇太子の語学に関する話題で不用意な発言をし気まずくなった板垣をかばい、彼のタバコに火をつけながらフォローする言葉をかけてくれて、母校の聖心で「あっ、やばい!」などと下世話な掛け声をかけながらテニスをするという皇后の人柄を、聡明でユーモアがあると好意的に評した[19]。板垣は夫妻のメキシコ訪問時に、明仁皇太子に美智子妃の報道に関する相談を受けたこともある[23]


発言


  • 「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - 1958年(昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評

  • 「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか見当がつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」 - 1960年(昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で

  • 「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - 1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」をふまえ

  • 「平成初めての大会に当たり、1947年(昭和22年)以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになった皇太后陛下に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - 1989年(平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて

  • 「変化の尺度を測れるのは皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています」

  • 「どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」 - 以上1994年(平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、皇后美智子が天皇とともに皇室に新風を吹き込んだという指摘に対して

  • 「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」 - 1995年(平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて

  • 「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があって良かった、と、国民が心から安堵し喜ぶことの出来る皇室でありたいと思っています」 - 1996年(平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて

  • 「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しを頂いて加わりました」 - 1998年(平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して[92]

  • 「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - 2002年(平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて[28]

  • 「清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - 2005年(平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に[93]

  • 「東宮妃の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、また東宮も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - 2006年(平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて[94]

  • 「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田や神保町の古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - 2007年(平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、身分を隠し好きな所で一日を過ごすとしたらという問いに対し[95]

  • 「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、「妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい」という、私の以前の言葉に変わりはありません」

  • 「この頃愛子と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人の一寸した言葉の表現や、話している語の響きなど、「これは面白がっているな」と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのような時、とても幸せな気持ちになります。思い出して見ると、眞子や佳子が小さかった頃にも、同じようなことが、度々ありました」 - 2008年(平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて[96]

  • 「この度も私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - 2009年(平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ[97]

  • 「東宮も秋篠宮も孫として昭和天皇のおそばで過ごす機会を度々に頂き、また成人となってからは、陛下をお助けする中でそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」 - 2009年(平成21年)11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて[98]

  • 「これがミクちゃんですか」 - 2013年(平成25年)8月20日、六本木ヒルズ・森美術館でのLOVE展にて[99]

  • 「80年前,私に生を与えてくれた両親は既に世を去り,私は母の生きた齢としを越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に,同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は,私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います。」 - 2014年(平成26年)10月20日、皇后誕生日に際し、80年の傘寿を迎えて[100]


出典・注釈



注釈


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  1. ^ 士族以下の意。ただし徳川氏の遠祖新田義重の重臣である徳川郷郷主生田氏の家系であり、南北朝時代まで遡ると家格は決して低くない。


  2. ^ 通常は避暑地として使われた秩父宮家の別邸。


  3. ^ 午後2時半過ぎ、祝田橋付近で発生。犯人は長野県上伊那郡長谷村(現伊那市)出身で県立伊那北高校卒業の19歳の浪人生。走って馬車に接近、一発投石した。石は外れたもののさらに馬車の幌部分に飛び乗り、護衛官に押さえつけられ引きずりおろされて警視庁丸の内警察署に逮捕された。この模様はそのままテレビで生中継された。犯人は東京都練馬区の東京少年鑑別所に50日間拘留され、精神鑑定の結果、精神分裂症と診断され、未成年者であったこともあり保護観察処分となり釈放された。


  4. ^ 大正天皇・貞明皇后の時代より改革が行われ、続く昭和天皇・香淳皇后も女官制度廃止・乳母は置いたがほぼ母乳で育てる・内親王を学齢まで手元で育てる等を行った。明仁親王夫妻の改革もこれに続くものである(1977年(昭和52年):昭和天皇・香淳皇后への那須御用邸での記者会見より)。


  5. ^ 帰国後、雙葉高等女学校に入学するも1929年(昭和4年)に英三郎に嫁す(仲人は大蔵省顧問・児玉謙次)。

  6. ^ ab重幸。生田隼人は当主の代々名。


  7. ^ このビデオ講演は、NHK教育テレビETV特集(現)で、国民一般にも放送され、大きな反響を呼んだ。出雲大社社務所では、皇后の講演全文を小冊子にして、社頭にて一般に頒布(はんぷ)している。


  8. ^ この時の様子は津川雅彦や小林よしのりも証言している[1] [リンク切れ][2]。



出典


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  1. ^ 歴代皇后125代総覧423頁


  2. ^ “軽井沢観光協会公式ホームページ 軽井沢を知る 軽井沢と皇室”. 2016年4月11日閲覧。


  3. ^ 歴代皇后125代総覧424頁8行目

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  5. ^ 歴代皇后125代総覧424頁5行目


  6. ^ 歴代皇后125代総覧424頁11行目


  7. ^ 歴代皇后125代総覧424頁12行目


  8. ^ 歴代皇后125代総覧424頁13行目


  9. ^ 歴代皇后125代総覧424頁14行目


  10. ^ 歴代皇后125代総覧424頁15行目


  11. ^ 歴代皇后125代総覧425頁1行目


  12. ^ 歴代皇后125代総覧425頁5行目


  13. ^ (板垣 2006, p. 22)


  14. ^ “JAPAN: The Girl from Outside”. TIME. (1959年3月23日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,892335-1,00.html 2016年10月21日閲覧。 


  15. ^ 講談社『美智子さまと皇族たち』(河原敏明・1994年)44項~46項


  16. ^ 猛反対の理由は平民に対する差別的な意図ではなく、民間の女性が皇室という特殊な世界に嫁ぎ、務めを果たしていくことを危惧してのものである


  17. ^ 『朝日新聞』2009年3月9日 「ご成婚パレード「儀装馬車」展示 京都御所の特別公開で」 - ウェイバックマシン(2009年4月16日アーカイブ分)

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  20. ^ (板垣 2006, p. 49)、『入江相政日記』1967年(昭和42年)11月13日。


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  22. ^ abc(板垣 2006, pp. 34-40)

  23. ^ ab(板垣 2006, pp. 41-49)


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参考文献


  • 森 暢平・河西 秀哉 編『皇后四代の歴史: 昭憲皇太后から美智子皇后まで 』(吉川弘文館、2018/5/20)

  • 板垣, 恭介 『明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか 元宮内庁記者から愛をこめて』 大月書店、2006年1月20日、初版第1刷。ISBN 4-272-21086-6。


関連項目




  • 祝典行進曲

  • 吉川重国


外部リンク



  • 宮内庁ホームページ (日本語)


  • 海外ニュース映像 日本のロイヤルウエディング(1959年) - British Pathe








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