軍学
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軍学(ぐんがく)とは、用兵・戦術など、兵法に関する学問のことである。その研究者を軍学者と呼ぶ。
目次
1 軍学と軍事学・軍事評論の違い
2 近世日本における流派の派生
2.1 諸派における代表書
3 参考文献
4 脚注・出典
5 関連項目
軍学と軍事学・軍事評論の違い
軍学は中国では古代に、ヨーロッパでは16世紀に、そして日本でも室町時代末期から江戸時代初期にかけ学問として体系化された歴史の古い学問である。
日本の江戸時代における軍学は、戦が無くなった平和な時代において、軍事的な知識を絶やさず継承するという目的を持つ学問であり、実戦にフィードバックされる機会はほとんど無かった。近世軍学においては天文学も重視されていた[1]。
近代に入ってからは軍事についての専門的な学問は「軍事学」と体系付けられたが、現代において「軍学者」を自称する兵頭二十八は、軍事(に限らずあらゆる分野)の問題について、解決のための論理を正しくあらしめるためには、軍事的(ないし当該分野の)専門知識だけでは全く不充分で、世界や社会・人間についての有り様を総体的にとらえた上で思考せねば単純で身近な軍事的問題の解も求め得ないとの立場から、スペシャリストとして軍事の評論をする「軍事評論」や軍事の研究をする「軍事学」を専門とせず、ゼネラリストの学問としての「軍学」の確立に尽力している[2]。
兵頭は、日本には太古の昔から「他人を理屈でもって公然と批判する」[3]文化は存在せず、フランスにおいて社会的地位を確立した「評論家」という存在は、日本ではおしなべてその紹介者である小林秀雄の系譜・ないし亜流に属すると唱え、それとは全く異なる日本独自の評論活動の系譜として山鹿素行、由井正雪らを挙げ、それらと基本構造を同じくするものとしての「兵頭流軍学」を体系化している。
近世日本における流派の派生
小幡景憲が甲州流軍学(武田流・信玄流)を創始し、寛永頃に、景憲に師事した北条氏長が北条流を創始[4]。さらに氏長に師事した山鹿素行が山鹿流を創始する[4]。
一方、越後流[5]からは、宇佐美流[6]・神徳流・要門流(沢崎主水の創始)が分流する[4]。
これらとは別に、長沼澹斎が明代兵書を研究し、『兵要録』に体系化、長沼流を創始した他、楠木正成の兵術を理想とする楠木流[7]が興る(以上、九流が『広辞苑』にも記載される流名)。
また、北条氏長は徳川家光の諮問を受け、オランダ流攻城法を調査・上申しているなど[4](砲術等)、17世紀の時点で西洋軍学の研究もある程度は行われていた(幕末の五稜郭=星型要塞等)。
諸派における代表書
- 『甲陽軍鑑』(元和7年・1621年には原形成立[8]) - 甲州流
- 『士鑑用法』(自序、正保3年・1646年) - 北条流[9]
- 『城塞繹史』 - 山鹿流[10]
- 『宇佐美伝記』(承応元年・1652年成立) - 宇佐美流[11]
- 『兵要録』 - 長沼流
参考文献
兵頭二十八 著 『軍学考』(中央公論新社・中公叢書、2000年)- 『広辞苑 第六版』(岩波書店)
脚注・出典
^ 『歴史読本 特集 徹底検証!黒田官兵衛 2013年5月号』 新人物往来社 p.144
^ 兵頭の学説によれば軍学は軍事学や軍事評論と異なり学際的な学問とされる。
^ 兵頭『軍学考』、1頁。- ^ abcd『広辞苑』より一部参考。
^ 宇佐美流を初めとする軍学の総称(『広辞苑』)。
^ 宇佐美駿河守(良勝、または定行)を創始者と位置付ける。
^ 正成が学んだ兵法書として、『闘戦経』がある(詳細は闘戦経を参照)。
^ 同『歴史読本2013年5月号』 p.140
^ 当書では、軍学者を「権衡(つりあい)の臣」と「知略計策の臣」の2つに分類している。
^ 同『歴史読本 2013年5月号』
^ 『歴史読本 特集 徹底検証!黒田官兵衛 2013年5月号』
関連項目
- 甲州流系統
甲州流軍学 - 北条流 - 山鹿流
- 越後流系統
越後流 - 宇佐美流 - 神徳流 - 要門流
- 楠木流系統
楠木流 - 聖徳太子流
- 長沼流
- 軍学校
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