日本映画













日本映画(にほんえいが)は、一般的に日本国内の映画館などで公開されることを前提として、日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人が出資(製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。邦画(ほうが)とも呼称される。また、時代によって活動写真、キネマ、シネマ等とも呼ばれる。


トーマス・エジソンによって1891年に発明されたキネトスコープが世界的な映画の起源となるが、それを用いて日本で最初に上映がなされたのは1896年11月で、当時の西洋技術の最先端である映画が到来した年にあたる。日本人による映画撮影としては1898年の浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まる。ここから現代に至るまで日本映画は日本文化の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ、日本を代表する大衆娯楽のひとつとして位置付けられていった。


日本映画をジャンルとして明確に定義することは困難であり、「日本人監督によって、日本人の俳優を用いて、日本で撮影し、日本で上映する日本語の映画」という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している[1]。このため、『ホノカアボーイ』などの総海外ロケの映画や、フランスの資本を基に黒澤明や大島渚が撮影した映画、崔洋一、李相日などの在日韓国・朝鮮人監督による映画など、全ての条件を満たしていなくても日本映画と認知されるものもある。


外国映画(洋画)に対する日本の映画という意味での呼称は存在するが、市場のボーダレス化等、製作、配給の両面において多国籍化が一般化している今日において、ジャンルとしての厳密な定義はほぼ無意味なものとなりつつある。




目次





  • 1 背景


  • 2 歴史

    • 2.1 サイレント時代


    • 2.2 戦前の黄金時代


    • 2.3 戦時下の映画


    • 2.4 外地での日本映画

      • 2.4.1 台湾


      • 2.4.2 朝鮮


      • 2.4.3 満州


      • 2.4.4 上海


      • 2.4.5 インドネシア



    • 2.5 アメリカ占領下時代


    • 2.6 第二黄金時代

      • 2.6.1 東映


      • 2.6.2 東宝


      • 2.6.3 松竹


      • 2.6.4 日活


      • 2.6.5 大映



    • 2.7 1960年代

      • 2.7.1 東映


      • 2.7.2 東宝


      • 2.7.3 松竹


      • 2.7.4 日活


      • 2.7.5 大映


      • 2.7.6 独立系


      • 2.7.7 ATG


      • 2.7.8 その他の動き



    • 2.8 1970年代

      • 2.8.1 東映


      • 2.8.2 松竹


      • 2.8.3 角川映画


      • 2.8.4 日活ロマンポルノ



    • 2.9 1980年代


    • 2.10 1990年代


    • 2.11 2000年代



  • 3 行政による映画支援の動き


  • 4 日本映画をめぐる最近の動き


  • 5 脚注


  • 6 参考文献


  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク




背景




山中貞雄『人情紙風船』


日本映画が日本映画たりえた背景には当然日本文化の影響が存在している。映画が日本に到来する時代、日本は世界でも稀な高い識字率を誇っており、大衆的な読み物から新聞、児童書などあらゆる書物が庶民に親しまれていた。また、映画よりはるかに長い歴史を持つ歌舞伎や人形浄瑠璃などの伝統演劇が日本映画に与えた影響も計り知れない。これは今日でも映画館を劇場と呼称したりすることからも伺える。


また、初期の無声映画時代、上映にあたり、弁士と呼ばれるフィルムの説明者が存在したが、映像と分離した音声を享受するというシステム、口踊芸と呼ばれる洗練された語りの手法は、既に人形浄瑠璃をはじめとする演劇で確立されており、日本人にすんなりと受け入れられ、独自の発展を遂げたとされる。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となり、花形の弁士が演じる映画は総じて人気を博した。無声映画とは声の無い映像のみの映画を指すが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言って良い[2]


純粋に日本文化を映画へ昇華し、日本映画らしさを出そうとする一方で、国外の文化や素材を日本風に咀嚼し、混交するという日本映画も多数誕生している。ジャック・フェデーの『ミモザ館』から着想を得た山中貞雄の『人情紙風船』や[3]ウィリアム・シェイクスピアの『リア王』が原作とされる黒澤明の『乱』などがそれにあたる[4]



歴史



サイレント時代




シネマトグラフ


日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった高橋信治によって1896年11月、神戸の神港倶楽部に始まった。これはトーマス・エジソンのキネトスコープによるものである。リュミエール兄弟のシネマトグラフによるスクリーン上映は1897年1月に稲畑勝太郎によって京都電燈株式会社の当時の本社(現在の元・立誠小学校の敷地)の中庭にて初めて行われた。続いて1897年2月に初めての「有料上映」が稲畑勝太郎によって大阪にて行われた。同年3月には東京でキネトスコープを改良したヴァイタスコープが公開され、人気を博した。谷崎潤一郎は自著『幼少時代』において「一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの」と評している。


その後浅野四郎によっていくつかの短編映画が撮られ、1898年、日本で初めて映画が撮影された。


1898年には先に挙げた『化け地蔵』『死人の蘇生』が、翌1899年には『芸者の手踊り』(東京歌舞伎座)が公開された。これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。同年には1巻70フィートの日本最初の劇映画となる『ピストル強盗清水定吉』が駒田好洋によって撮影され、日本初の映画俳優として新派の横山運平が起用された。積極的に映画と接触しようとした新派とは異なり歌舞伎などは映画を「泥芝居」と蔑み、原作や役者の提供に躊躇する時代であった[5]。現存する最も古い日本映画としては同年柴田常吉によって撮影された『紅葉狩』がある。


1903年には吉沢商店が浅草に日本で最初となる映画専門館「電気館」を設置した。翌1904年に日露戦争が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。




『忠臣蔵』(尾上松之助)


1908年に発表された『本能寺合戦』は最初の本格的な劇映画であり、横田商会の依頼で本作品を撮り上げた牧野省三は日本最初の映画監督として名を残している。京都に浄瑠璃小屋を所有し、狂言方として活動していた牧野は作品の原作に用いられる浄瑠璃を空で暗記していたことから、脚本を用いる事無く、撮影にあたったと言われている。翌年には歌舞伎俳優の尾上松之助が主演した『碁盤忠信』が大ヒットとなり、「目玉の松ちゃん」として日本最初のスターが誕生した。以降、尾上は14年間の俳優生活において千本を超える映画で主演を果たしている。中でも1910年に撮られた『忠臣蔵』は浄瑠璃、歌舞伎に続き、その後の日本映画においても欠かせない題材として庶民の人気であり続けた。後年、牧野はその功績を称えられ、アメリカの映画監督D・W・グリフィスによりグリフィス・マキノという称号を与えられている[6]


1912年、横田商会・吉沢商店・M・パテー商会・福宝堂という4つの映画会社がトラスト合同を行い、日本活動写真株式会社、略称日活を発足させた。日活は従来の家内工業的な小規模な製作から一線を画す、日本初の本格的な映画会社となった。東京向島の向島撮影所、京都二条城西櫓下の関西撮影所の2箇所の撮影所を設け、東京では新派(後の現代劇)を、京都では旧劇(後の時代劇)を製作した。




井上正夫像(松山市)


ここまでの多くのフィルムは演劇的演出の再現に留まり、映画として独自の技法が試みられるようになるのは1910年代後半に入ってからである。井上正夫が1917年に製作した『大尉の娘』ではクローズアップや移動技法、カットバックといった技法が導入されている。この頃より呼称も「活動写真」から「映画」へと次第に変遷が始まり、1922年ごろまでには映画という言葉が一般庶民にも深く浸透するようになった。


一方映画評論においては、吉沢商店が1909年に発表した初の映画雑誌『活動写真界』などが既にあったが、1917年に帰山教正が『活動写真劇の創作と撮影法』と題する理論書を発表したのをきっかけに1918年には日本映画の近代化運動「純映画劇運動」が起こる。映画芸術協会を主宰した帰山は同書で映画は演劇の模倣であってはならないと説き、舞台脚本をシナリオ、女形を女優、弁士を字幕として呼称した。帰山の作品には日本初の女優花柳はるみを使った『生の輝き』、日本初の女性のヌードシーンを撮影した『幻影の女』などがある。


その背景には第一次世界大戦が終結し、ハリウッドの映画会社が徐々に日本へと進出してきた影響は否定できない。こうした動きに合わせるように国活、大活といった映画会社が相次いで設立され、1920年には歌舞伎を本業としていた松竹が松竹キネマ合名会社を設立し製作に乗り出した。特に松竹が建てた俳優養成所はハリウッドのスター・システムを採用し、『路上の霊魂』の英百合子や『虞美人草』の栗島すみ子など、多数の女優を輩出した。また、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響も大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。




関東大震災により廃墟と化した横浜市


この純映画劇運動は1923年の関東大震災で、現代劇映画を製作していた東京のあらゆる撮影所が壊滅し、旧劇の中心地・京都での撮影のみが行われる状況が発生したことにより突然の終焉を迎えることとなった。1926年に入ると松竹による現代劇が本格化し、牛原虚彦による『彼と東京』(1928年)、『陸の王者』(1928年)など、ごく普通の庶民を等身大で描く都会風現代劇が出現した。また、五所平之助による『村の花嫁』(1928年)や『伊豆の踊子』(1933年)のように、田舎の田園を舞台とした牧歌的、叙情的な作品も登場している。エルンスト・ルビッチに強い影響を受けた小津安二郎は、『大学は出たけれど』(1929年)、『落第はしたけれど』(1930年)など庶民を主人公とした人生観を詰め込んだ作品を数多く残した。




『鞍馬天狗』嵐寛寿郎


こうした松竹の動きに遅れを取った日活は、1923年の震災による向島撮影所の閉鎖を受けてようやく女形から女優への移行を果たす。翌年には京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映京都撮影所)が開設される。日活現代劇の代表ともされる溝口健二はハリウッドで学んだ撮影技法を駆使し、『霧の港』(1923年)、『血と霊』(1923年)、『狂恋の女師匠』(1926年)など、様々なジャンルを試み、後礎を築いた。


他方、内務省警保局による活動写真検閲なども行われ、衣笠貞之助の『日輪』(1925年)などは作品に当局の介入が入り、大幅な編集を余儀なくされ、改作改題の上公開となるなど、検閲の影響により興行的に失敗となった作品も少なくない。しかし、衣笠はその後も精力的に活動を続け、日本最初の前衛映画となる『狂つた一頁』(1926年)や欧州で高い評価を受けた『十字路』(1928年)など、「純映画劇運動」の目的、目標を達成させている。


時代劇に目を移すと、尾上主演一千本記念作品『荒木又右衛門』(1925年)などが取り上げられるが、従来の悠々とした口上を述べ、人を斬るといったスタイルから、よりスピーディで激しい殺陣が求められるようになっていた。こうしたスタイルをいち早く確立した阪東妻三郎は『雄呂血』(1925年)で人気を博す。そのほか大河内傳次郎による『丹下左膳』や、市川右太衛門の『旗本退屈男』、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』など、新しい時代劇が多数登場した。



戦前の黄金時代




トーキー映画の産みの親リー・ド・フォレスト


映像に対し、音声を加えようとする試みは映画の移入とほぼ同時になされており、河浦謙一は1902年にレコードの回転とフィルムの回転を同期させることによるトーキーの実験を行っている。これらの試みが商業的な脚光を浴びるのは1927年の昭和キネマによるミナ・トーキーであった。アメリカのリー・ド・フォレストからトーキー技術の権利を購入した皆川芳造によるものである。


ミナ・トーキーを使用した小山内薫による『黎明』は技術的な問題から公開には至らず、日本最初のトーキー映画は1929年の『大尉の娘』であった。同年、ミナ・トーキーとは別方式、東條政生のイーストフォン・トーキーを採用しようと研究したが、結局、独自のディスク式トーキーでマキノ正博が監督した『戻橋』が公開された[7]。イーストフォンは一般には浸透しなかった。その後も溝口健二による『ふるさと』(1930年)などが続いたが、字幕と音声を併用したいわゆるパート・トーキーの形式が一般的で、完全なトーキー映画として最初に登場したのは五所平之助の『マダムと女房』(1931年)であった。


資本力のある大会社はこの時代、積極的に無声映画からトーキー映画へと移行を計り、一部例外として小津安二郎のようにトーキーに懐疑的な目を向ける者もいた[8]。1935年には完全に移行を成し遂げるが、財政的に移行の難しい独立プロは1938年ごろまで無声映画を撮り続けた。この結果小スタジオは続々と大手映画会社へ吸収されていく。


また、無声映画時代が終了しても海外映画の解説訳として存続が計られた弁士も、1931年『モロッコ』ではじめて採用された字幕スーパーの登場により、不要な存在となった。既得権益を守ろうとした弁士はトーキー侵出の妨害活動に出たが、時代の流れに逆らう事はもはや不可能となり、弁士の存在は忘れられていった。


こうしたトーキーの出現は新しい俳優の出現や新ジャンルの確立を齎した。落語や声帯模写など、語り芸を生業とする者がスクリーンへ登場し始め、榎本健一、古川緑波などといった喜劇俳優が台頭するようになった。また、『愛染かつら』のように主題歌の流行を通して人気を博す映画も現れるようになった。


トーキー映画の出現は撮影期間の長期化という現象を齎すこととなった。これがきっかけとなり日活は1934年に多摩川へ、松竹は1936年に大船へそれぞれ撮影所を移転・拡充した。それぞれの特徴として日活は重厚で泥臭い作風を、松竹は洗練された都会風の作風を得意としていた。日活を代表する監督としては『人生劇場・青春篇』(1936年)、『土』(1939年)の内田吐夢、『蒼氓』(1937年)、『阿部一族』(1938年)の熊谷久虎、松竹を代表する監督としては『隣の八重ちゃん』(1934年)の島津保次郎、『愛染かつら』(1938年)、『一人息子』(1936年)の野村浩将、『有りがたうさん』(1936年)、『花形選手』(1937年)の清水宏などが挙げられる。こうした一連の作風に疑問を投げかけた溝口健二は『浪華悲歌』(1936年)、『祇園の姉妹』(1936年)などで方言を用いた作品を撮り上げ、既存の「映画は東京弁でなければならぬ」という概念を打ち崩していった。
1930年に設立されたPCLは1933年より映画製作業界への参入を表明した。黒澤明や本多猪四郎、瀧口修造、井深大など、多数のスタッフを集め、日本で最初のプロデューサー・システムを採用した会社となった。初期には木村荘十二の『河向ふの青春』(1933年)、『兄いもうと』(1936年)や松竹より移籍してきた成瀬巳喜男の『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、石田民三の『花ちりぬ』(1938年)などが人気を博した。特に成瀬の『妻よ薔薇のやうに』は海外進出も実現し、ニューヨークで一般公開された初の日本映画となった。当初、PCLは配給館を所有していなかった事から、興行的な苦戦を強いられたが、1937年、小林一三などの働きにより「写真化学研究所」、京都の大沢商会の映画スタジオである「J.O.スタヂオ」、阪急資本による配給会社「東宝映画配給」などと合併し、東宝映画として配給上の困難を解消し、日活、松竹に続く大映画会社となった。


1937年、日本と当時のナチス・ドイツとの間で、一本の国策的映画が製作された。山岳映画を得意としたドイツのアーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督で製作された『新しき土』である。日本での興行的な成績では失敗に終わったが、主演女優として典型的な日本人女性大和光子を演じた原節子はその容貌と演技が絶賛され、戦時下の日本映画において欠かせない女優となった。



戦時下の映画


第二次世界大戦(太平洋戦争)による国民と国土の疲弊は、映画産業界においても、甚大な影響を与えていた。1941年には、当時アメリカに次ぐ世界第2位の製作数である[要出典]年間500本を超える映画を製作していた日本は1945年には僅か26本の製作となっており、その影響が伺える[誰によって?]。また、1939年に成立した映画法により、製作と配給が許可制に、監督と俳優は登録制となり、製作される作品についても、脚本段階で検閲が入った。


さらにABCD包囲網による経済制裁が発動すると、アメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となった。東宝はこれらの状況を打破するため、軍部と積極的に関わる事で活路を見出したが、日活は1942年に永田雅一の主導による合併に巻き込まれ、大日本映画となり日活の名は消えていった。戦前数多く存在した独立スタジオの閉鎖、合併を繰返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹、大映の3社を残すのみとなった。


当然、戦争を主題とした映画が主として製作され、田坂具隆は『五人の斥候兵』(1938年)で、戦場における信頼をテーマとした作品を撮り、ヴェネツィア国際映画祭で入賞を果たした。皇紀2600年記念の阿部豊の『燃ゆる大空』(1940年)では実写に重きを置いた航空映画として、陸軍航空本部の監修により実物の戦闘機や爆撃機が撮影に使用された[9]。吉村公三郎が製作した『間諜未だ死せず』(1942年)は戦意高揚を訴える映画が続く中で、スパイへの警戒を訴えた珍しい切り口の映画となった。また、山本嘉次郎の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)では、真珠湾攻撃を再現した特撮担当の円谷英二による精巧なミニチュアが話題を呼び、軍神加藤建夫と飛行第64戦隊を描いた『加藤隼戦闘隊』(1944年)では、陸軍の全面協力により実物の戦闘機や爆撃機および連合国軍の鹵獲機が多数出演し、円谷の特撮と高度な合成技術とともに迫力ある作品となった。


厳しい検閲の目をかわし、反戦を訴える作品を製作した監督としては亀井文夫が挙げられる。『支那事変』(1937年)や『上海』(1938年)などでは表向きは戦意高揚映画と謡いつつも、日本軍の行軍を見つめる民衆や、疲弊した兵の表情をフィルムに収めるなど、意図的な映像を流した。続く作品『戦ふ兵隊』(1938年)は上映禁止となり、亀井は免許剥奪の上検挙されてしまう。


また、戦争を主題としない作品についても、荒唐無稽な娯楽向け作品が一律禁止され、稲垣浩の『宮本武蔵』や溝口健二の『元禄忠臣蔵』など、厳粛な叙事詩的作品が製作された。1940年代前半に登場した黒澤明は『姿三四郎』(1943年)においてその頭角を現した。1945年に最終決戦を呼びかけるために製作が検討されていたジャンヌ・ダルクを原作とした『荒姫様』は、同年の日本の敗戦によりお蔵入りとなっている。



外地での日本映画


外地における映画は、獲得した地を日本化するための有効な手段と捉えられ、積極的な上映が実施された。台湾、朝鮮、満州、インドネシアなどにおける各地の映画史を簡単に以下に記す。



台湾


日清戦争により獲得した台湾で高松豊次郎により最初の映画上映が行われたのは1901年である。台湾において最初に製作がなされたのは1921年で、『預防霍乱』という食品衛生啓蒙映画であった。また、1925年には台湾人の李松峰により『誰之過』が製作された。


日本で興った「純映画劇運動」において、台湾という「辺境の地」は格好の題材となり、枝正義郎の『哀の曲』(1919年)、田坂具隆の『阿里山の侠児』(1927年)、張雲鶴の『血痕』(1929年)、安藤太郎の『義人呉鳳』(1932年)など、台湾を舞台とする様々な作品が撮られている。


しかし、現地人による映画製作はそれほど活性化せず、1941年に台湾映画協会が設立され、管理統制が厳しくなると、その傾向は終戦まで続いた。



朝鮮


1910年に併合した朝鮮における映画は1919年に製作された金陶山の『義理的仇討』を嚆矢とした。日本の新派に強い影響を受けた作風は独立後も続き、政府政策による日本主義の追放が叫ばれた後も新派の影響は払拭される事無く、現代に続いている。日本政府は当初、尹白南による貯蓄奨励映画『月下の誓い』(1923年)など、台湾と同じく映画による教育啓蒙を試みたが、自身の手による映画製作の気運が強く、1924年以降、日本人が設立した朝鮮キネマに対抗するかの如く、独立スタジオが林立した。


1926年に羅雲奎が製作した『アリラン』は、民族主義の高揚における重要な役割を果たした。『映画「アリラン」の再評価』(1997年、趙熙文)など、津守秀一が監督したという説も存在する[要出典]。その他、『金色夜叉』の翻案で、李慶孫の『長恨夢』(1926年)や李圭煥が製作した反日的内容の『主なき渡し舟』(1932年)などが話題を呼んだ。また、李明雨によって製作された最初のトーキー映画『春香伝』は1935年に登場して以降何度もリメイクされ、韓国における国民的映画のひとつに発展している。


日本が軍国主義へ傾くにつれ、厳しい検閲が敷かれるようになり朝鮮での映画生産は減少していき、1940年には日本と同じく映画法が実施されるに至った。1942年には全ての映画会社が閉鎖され、朝鮮総督府による朝映が設立された。この時代は主に日本人監督が現地のスタッフを使用して映画を製作する、というスタイルが主となり、日夏英太郎の『君と僕』(1941年)、豊田四郎の『若き姿』(1943年)、今井正の『望楼の決死隊』(1943年)などが公開された。


1945年、植民地支配が終わると共に自国映画製作が再開され、崔寅奎の『自由万歳』(1946年)を皮切りに反日映画のラッシュが続いた。その後、韓国においては1998年まで日本映画は公式には一切上映されなかった。




満州




李香蘭


日本が1932年に建国した満州国では、1936年に満州映画協会(満映)が設立され、映画製作が執り行われた。満映では日本の文化啓蒙を目的とした映画と一般の劇映画が製作され、一部は日本に持ち込まれるなどした。1940年に『支那の夜』に登場した李香蘭はその美貌と歌唱力、演技力などで一躍スターとなった。


1942年ごろより、自由な映画製作を求め、木村荘十二や内田吐夢など日本人映画監督が次々と渡満してくる。全編がロシア語で構成された島津保次郎の『私の鶯』(1943年)など、自由闊達な映画が企画・製作された。


1945年に満州国が崩壊すると満映の施設はソビエト連邦に接収され、満映スタッフは日本や台湾、香港へと散り散りに去っていった。日本では根岸寛一やマキノ光雄などによりこうした満映引揚者が迎え入れられ、後の東映の基礎を形作った。



上海


上海では1910年代より中国映画の製作地としてその名が知られており、1937年に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を川喜多長政に要請した。


川喜多は1939年、上海の映画会社を併合し、中華電影を設立した。作品としては満映との合作で製作された李香蘭主演の『萬世流芳』(1943年)などがある。


1945年、日本が敗戦した後は上海で日本人と共に映画製作を行っていた中国人監督の大部分が香港へ亡命し、後の香港における映画産業発展の礎となった。



インドネシア


インドネシアでは現地人による映画撮影が禁止され、日本軍による啓蒙映画が主に製作された。また、日本軍の捕虜虐待を隠蔽する目的でいくつかの偽ドキュメンタリー映画が製作されるなどした。


有名なものとしては1944年に日夏英太郎がジャカルタで製作した『Calling Australia』があり、オーストラリア人捕虜が撮影した映像として連合国軍側へ送付された。後にオーストラリアは捕虜として出演した者を集め、『Calling Australia』の虚偽を告発するドキュメンタリーを製作している[10]



アメリカ占領下時代




今井正『青い山脈』(杉葉子と原節子)


1945年、日本が第二次世界大戦に敗北すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本統治が開始された。日本で製作される映画はGHQの下部組織CIE(民間情報教育局)によって管理されることとなった。この管理体制は1952年まで続き、日本映画界において、初めて外国機関による管理と制御が実施された特異な期間となった。企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ製作がなされた。例えば、黒澤明の『暁の脱走』(1950年)は当初、山口淑子(満映の李香蘭)主演の朝鮮人従軍慰安婦を描いた作品としていたが、数十回に及ぶCIEの検閲により、原形を留めぬ作品となってしまっている[11]。完成したフィルムはCCD(民間検閲支隊)により二度目の検閲が行われた。また、この検閲は過去の映画作品に遡っても実施された[12]


また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画製作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政、根岸寛一、城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。しかし他のジャンルにおける追求と同じく、映画業界においても戦争責任の所在は曖昧に処理され、上記の処置は1950年には解除されている。


戦後、最初に公開された映画は佐々木康による『そよかぜ』で、並木路子による主題歌『リンゴの唄』が大ヒットした。


CIEのデヴィッド・コンデによって1945年に発布された製作禁止リストにおいて、国家主義や愛国主義、自殺や仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり、時代劇の製作は事実上不可能となった。この影響で時代劇を生業としていた俳優は現代劇に出演するようになる。片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』、阪東妻三郎の『破れ太鼓』、稲垣浩の『手をつなぐ子等』、伊藤大輔の『王将』などがそれにあたる。


また、GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数製作された。その中で黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。



第二黄金時代




『二十四の瞳』(1954年)


1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。また、1958年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。


GHQによって制限されていた戦争映画が製作されはじめ、関川秀雄の『きけ、わだつみの声』(1950年)、今井正の『ひめゆりの塔』(1953年)、木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)、市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)など、戦争を単純悪と捉えた作品ではなく、戦争体験の悲壮さや感傷的回顧を目的とした作品が次々と登場し、社会的影響となった。その他、『戦艦大和』(1953年)や『太平洋の鷲』(1953年)といったノスタルジア映画も量産された。こうした中で嵐寛寿郎が明治天皇を演じた『明治天皇と日露大戦争』(1957年)といった作品までもが登場した。神聖にして侵すべからずとされた天皇の商品化という、戦前には考えられなかった事態であった。





羅生門。(1950年)


映画の国際的評価も上昇し、1951年に黒澤明が『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したのを皮切りに、溝口健二が1952年『西鶴一代女』、1953年『雨月物語』、1954年『山椒大夫』と、3年連続で受賞した。1954年はほかに黒澤の『七人の侍』もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、カンヌ国際映画祭において衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞するなど、極東の国から届けられたフィルムに世界中が驚嘆した。


こうした映画の量産体制は東宝、松竹、日活、大映に加え、急速な発展を見せた東映が主体となって牽引した。各社の動向は以下の通り。



東映


新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。中村錦之助、東千代之介出演の『新諸国物語 笛吹童子』シリーズ(1954年・三部作)、『新諸国物語 紅孔雀』シリーズ(1954年 - 1955年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗出演の、大人向け時代劇も活性化。中村錦之助、大川橋蔵主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。現代劇でも東映ニューフェイスから、中原ひとみ、高倉健、水木襄、佐久間良子、梅宮辰夫、千葉真一などの主演スターが輩出した。今井正監督『米』(1957年)、『純愛物語』(同)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画『白蛇伝』を公開するなど、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。



東宝




『ゴジラ』(1954年)


森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、フランキー堺出演の社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支えた。今井正監督『また逢う日まで』(1950年)、ヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞した稲垣浩監督『無法松の一生』(1958年)、成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年)、岡本喜八監督『独立愚連隊』(1959年)、東宝争議により一時東宝を離れていた黒澤明は、『生きる』(1952年)を皮切りに、『七人の侍』(1954年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)などが大ヒットした。黒澤は莫大な製作費をかけるため、1959年に黒澤プロダクションが発足されるが、東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には『ゴジラ』が大成功を収め、シリーズ化されて1975年まで続くドル箱シリーズとなった。以降、小田基義監督+円谷英二特撮監督『透明人間』(1954年)、本多猪四郎監督+円谷英二特撮監督『獣人雪男』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『日本誕生』(1959年)だった。



松竹


大庭秀雄監督による『君の名は』(1953年 - 1954年)、今井正監督『にごりえ』(1953年)、『キクとイサム』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。小林正樹監督『人間の條件』(1959年 - 1962年)ではヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞を受賞した。さらに福田晴一監督・伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。木下惠介監督が『カルメン故郷に帰る』(1951年)、『日本の悲劇』(1953年)、『二十四の瞳』『女の園』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『太陽とバラ』(1956年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、『楢山節考』(1958年)などや、小津安二郎監督も『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、『彼岸花』(1958年)、『東京物語』(1953年)などを発表した。



日活


1953年の製作再開以降、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年)などの文藝作を製作していた。五社協定により他社からスターを引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明、川地民夫、待田京介、和田浩治などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作・配給した。なかでも古川卓己監督『太陽の季節』(1956年)、中平康監督『狂った果実』(1956年)、井上梅次監督『嵐を呼ぶ男』(1957年)、田坂具隆監督『陽のあたる坂道』、蔵原惟繕監督『風速40米』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。川島雄三監督フランキー堺主演の『幕末太陽傳』(1957年)などの歴史に残る作品も残している。



大映


1950年代から1960年代前半にかけて男優では長谷川一夫、市川雷蔵、女優では京マチ子、山本富士子、若尾文子と、さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し、溝口健二監督『近松物語』(1954年)、吉村公三郎監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川主演作が人気を呼び、森一生監督『薄桜記』(1959年)、伊藤大輔監督『弁天小僧』(1959年)などの時代劇の他、市川崑監督『炎上』などの文藝作もヒットした。


このほか、新藤兼人監督『原爆の子』(1952年)、山本薩夫監督『真空地帯』(1953年)、今井正監督『真昼の暗黒』(1956年)などの独立系映画も活発に製作・公開。1957年には勅使河原宏や羽仁進などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。



1960年代




日本の映画観客動員数


1960年に日本映画史上で最高製作本数となる547本を製作し、ピークを迎えた。そのほとんどは大手6社によるプログラムピクチャーで、この年以降、映画産業に翳りが見え隠れするようになった。観客動員数はこれより先、1958年の11億人強を最高に、急激に下降し、1963年には半分以下の5億人強となった。


この背景には1953年より登場したテレビの急速な普及がある。テレビは1959年の皇太子結婚をきっかけに一般に広く浸透し、1964年の東京オリンピックでその勢いは加速。またこの時期フジテレビに在籍していた五社英雄が松竹へ出向し『三匹の侍』で映画監督としてデビュー。テレビ畑出身、映画界での下積み経験のない人材が大手映画作品に進出していく契機となる。1961年には新東宝が製作停止、日活は1969年に撮影所を売却、1971年に製作停止となった。


同時に、中平康、鈴木清順、増村保造、蔵原惟繕、石井輝男、岡本喜八、今村昌平、松本俊夫、大島渚、高橋治、山田洋次、吉田喜重、篠田正浩、山下耕作、五社英雄、深作欣二、三隅研次、工藤栄一、浦山桐郎、熊井啓、勅使河原宏、若松孝二といった個性的で多種多様な若手監督が活躍した時代でもあった。



東映


観客動員No.1となった東映は、1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、製作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは鶴田浩二、高倉健、藤純子らを擁して仁侠ブームを作った。このジャンルの開祖は沢島忠の『人生劇場 飛車角』(1963年)といわれ、義理と人情の板挟みにあいながらも自己犠牲を貫く内容だった。以降、『博徒』、『日本侠客伝』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』、『緋牡丹博徒』といった任侠シリーズは人気を博し、1972年頃まで製作され、内藤誠の『不良番長シリーズ』もヒットした。一方で1969年にはオールスターキャストの『日本暗殺秘録』(主演:千葉真一・監督:中島貞夫)を封切り公開し、東大紛争・安保闘争など騒然とした当時の世相を反映させている[13]



東宝


東宝では社長シリーズに続き、古沢憲吾による植木等主演の無責任シリーズ、日本一の男シリーズなどを開始し、陽気なミュージカル喜劇として人気を博した。また、加山雄三主演の若大将シリーズでは松竹が得意としたスポーツマン大学生もののお株を奪うヒットを見せた。


他方で黒澤明や怪獣映画も人気を堅持し、黒澤は引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)、『赤ひげ』(1965年)などの作品を発表した。1969年にアメリカの20世紀フォックス社の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の脚本と監督を依頼された黒澤は、最終編集権が監督にないハリウッドのシステムに反発。撮影が容易に進まず、激しい心労の末に解任され、自殺未遂事件を起こす。また、1970年には初のカラー映画『どですかでん』を製作している。


岡本喜八による『独立愚連隊』(1959年)で戦争モノにも進出し、多彩なジャンルをアピールした。岡本はその後の『日本のいちばん長い日』(1967年)で東宝と製作主張を巡り訣別を告げ、私費で『肉弾』(1968年)を製作している。




成瀬巳喜男


その他代表作としては、市川崑総監督『東京オリンピック』(1965年)、成瀬巳喜男監督の『女の中にいる他人』(1966年)、『乱れ雲』(1967年)などが挙げられる。


東宝は1961年ごろにロサンジェルスの老舗映画館「ラ・ブレア」を買い取り、自社作品の上映を開始し、同館は米国における日本映画のショーケースとして機能した[14]。60年代には同様にニューヨークのタイムズスクエアにも専門館を所持した[15]



松竹




大島渚


「大船調」といわれた松竹お得意のメロドラマ路線が、収益を呼べず、1960年に城戸四郎社長が辞任。監査役の大谷博が社長となった。松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた助監督群が相次いでデビューし、大島渚監督『青春残酷物語』(1960年)、『日本の夜と霧』(1960年)、吉田喜重監督『ろくでなし』(1960年)、『秋津温泉』(1962年)、篠田正浩監督『恋の片道切符』(1960年)、『暗殺』(1964年)などの斬新な作品群を発表するが、日米安保改定問題を扱った大島渚監督『日本の夜と霧』が封切り4日後に松竹によって興行を打ち切られる。松竹を辞めた大島渚は独立プロ創造社を起こすなど、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちは後に松竹を後にした。野村芳太郎は『拝啓天皇陛下様』(1963年)などの人情喜劇、コント55号主演映画などを監督。山田洋次監督は『下町の太陽』(1963年)、『馬鹿まるだし』(1964年)、『霧の旗』(1965年)などの作品を経て、1969年より「男はつらいよシリーズ」を始める。代表作には、小津安二郎監督『秋日和』(1960年)、『秋刀魚の味』(1962年)、木下惠介監督『笛吹川』(1960年)、『永遠の人』(1961年)、『二人で歩いた幾春秋』(1962年)、『死闘の伝説』(1963年)、『香華』(1964年)、渋谷実監督『もず』(1961年)、小林正樹監督『切腹』『からみ合い』(1962年)、松山善三監督『山河あり』(1962年)、羽仁進監督『充たされた生活』(1962年)、中村登監督『古都』(1963年)、『紀ノ川』『暖春』(1966年)、『智恵子抄』『惜春』(1967年)、『わが恋わが歌』(1969年)、吉村公三郎監督の『眠れる美女』(1968年)、蔵原惟繕監督の『栄光への5000キロ』(1969年)などがある。『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。



日活


1960年代に引き続き、無国籍映画と云われた和製西部劇(小林旭の渡り鳥シリーズや流れ者シリーズなど)が大ヒットするが、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、アクション映画のマンネリ化、企画不足、石原裕次郎と小林の人気低下、社長・堀久作のワンマン体質からくる放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹、渡哲也、山本陽子、和泉雅子、松原智恵子、藤竜也、梶芽衣子、杉良太郎らを輩出したが、退潮を食い止めることはできなかった。一方、今村昌平が『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)、鈴木清順が『東京流れ者』、『けんかえれじい』(1966年)などを制作したが、『殺しの烙印』(1967年)に不満を持った堀から解雇される。このほか、監督では熊井啓、浦山桐郎らを擁した。



大映


1960年代に入ると勝新太郎・田宮二郎が頭角を現すが、長谷川一夫・叶順子の引退(1963年)、永田雅一社長によって五社協定にかけられた山本富士子(1963年)・田宮二郎(1968年)の退社、市川雷蔵の急逝(1969年)で観客数の落ち込みが深刻になり、永田のワンマンな放漫経営もあって業績は悪化。日本初の70ミリ映画『釈迦』(1961年)や『秦・始皇帝』(1962年)など大作映画路線も数作で終わった。この年代の大映の代表作には、市川崑監督の『おとうと』『ぼんち』(1960年)、『黒い十人の女』(1961年)、『私は二歳』『破戒』(1962年)、『雪之丞変化』(1963年)、増村保造監督の『偽大学生』(1960年)、『妻は告白する』(1961年)、『清作の妻』(1965年)、『華岡青洲の妻』(1967年)、三隅研次監督の『斬る』(1962年)、『剣』(1964年)、『剣鬼』(1965年)、吉村公三郎監督の『その夜は忘れない』(1962年)、『越前竹人形』(1963年)、川島雄三監督の『雁の寺』(1962年)、『しとやかな獣』(1963年)、山本薩夫監督の『傷だらけの山河』(1964年)、『白い巨塔』『氷点』(1966年)、森一生監督の『ある殺し屋』(1967年)などがある。大魔神シリーズ(1966年)、ガメラシリーズ(1965年 - 1971年)などの怪獣映画も発表するが、ヒットには至らなかった。主な人気シリーズは以下の通り。



  • 悪名シリーズ(1961年 - 1969年)勝新太郎、田宮二郎主演。


  • 座頭市物語シリーズ(1962年 - 1968年)勝新太郎主演


  • 兵隊やくざシリーズ(1965年 - 1968年)勝新太郎、田村高廣主演


  • 忍びの者シリーズ(1962年 - 1966年)市川雷蔵主演


  • 眠狂四郎シリーズ(1963年 - 1969年)市川雷蔵主演


  • 陸軍中野学校シリーズ(1966年 - 1968年)市川雷蔵主演


独立系


大手企業によるブロックブッキング制の影響があったものの、文芸プロダクションにんじんくらぶが複数の作品を制作・公開しており、1966年の日本・台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、主演の千葉真一と監督の深作欣二が東映に籍を置きながら参加した作品である。一方映画産業の斜陽化と共に、監督が大企業を離れて独立プロで製作を行う、といったことが見られるようになり、新藤兼人の『裸の島』(1960年)、『鬼婆』(1964年)、『裸の十九才』(1970年)や、勅使河原宏と安部公房による『おとし穴』(1962年)、『砂の女』(1964年)、『他人の顔』(1966年)といったブラックユーモアに満ちた作品が出現した。



ATG


1961年に、日本アート・シアター・ギルド (ATG) 設立(- 1992年)。非商業主義的な芸術作品を製作・配給した。第1回配給作品はイェジー・カヴァレロヴィチ監督『尼僧ヨアンナ』(1962年4月)。初の日本映画作品は勅使河原宏監督『おとし穴』(1962年7月)。以降、1968年には1000万映画の製作を開始し、新藤兼人、羽仁進などの独立系監督のほか、三島由紀夫(作家)、実相寺昭雄(テレビ演出家)、寺山修司(演劇)、田原総一朗(ジャーナリスト)、清水邦夫(演劇)などの異業種出身監督、黒木和雄、松本俊夫などの新人など、多くの出身者や作風に門戸を広げた。また1960年代後半には、ピンク映画出身の若松孝二など、そして大手五社映画を辞した大島渚、今村昌平、吉田喜重、篠田正浩、岡本喜八、熊井啓、増村保造、斎藤耕一またはフリーの市川崑などにも製作と発表の場を与えた功績も大きい。多くの作品がキネマ旬報ベストテンに選定されるなど高い評価を受け、70年代はもちろん、80年代後半まで大きな潮流となった。




その他の動き


1962年、手塚治虫が虫プロダクションを設立。



1970年代


1970年代も日本映画の集客力の凋落は止まらず、内訳で見た場合、1971年に公開された367本のうち、大手5社の占める割合が約4割に激減した。このうち、大映は倒産し、後の1974年に徳間書店に買収された。逆に、低予算で製作可能なピンク映画や独立プロによる映画が躍進している。経営難に陥った日活は労働組合を中心に再建がなされ、1971年より日活ロマンポルノとしてロマンポルノ路線を断行した。また、スターシステムの崩壊により俳優は製作会社への所属から作品ごとの契約へと切り替わりが進んだ。前時代に活躍した監督についても、資本を海外に求めた黒澤や大島、ドキュメンタリーへ転進した今村など、徐々に消えていくこととなった。いわゆる、五社協定の終焉である。


その一方で1976年に角川春樹が映画製作に進出し、豊富な予算による制作とメディアミックスによる戦略化された宣伝を展開。封切り公開された作品は立て続けに大ヒットし続け、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破り、角川映画の勢いは1980年代半ばまで続いた。アニメーションやドキュメンタリーの分野は発展し、後の礎を築いた。1977年公開の『宇宙戦艦ヤマト』では日本映画で初といわれる徹夜組が出た。1979年には『銀河鉄道999』が公開され、1979年度の邦画の邦画配収第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となった。アニメ映画が評価されなかった[16]時代に異例の評価を得る。



東映


学生運動の衰退に伴い、東映の任侠モノは色あせた映画と評されるようになった。伊藤俊也の『女囚さそりシリーズ』の公開後、1973年には実録路線の『仁義なき戦い』シリーズや、格闘映画の『ボディガード牙』シリーズなどが大ヒットし、以降次々とシリーズ化され、実録・格闘路線は経営を支える二本柱となった。特に千葉真一の格闘映画は欧米・東南アジアでも大ヒットした[17][18][19][20]。1975年には日本国内では初めてのパニック映画である『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では高い評価をされて大ヒットした。同年には松竹の『男はつらいよ』シリーズに対抗した『トラック野郎』が、『新幹線大爆破』より日本での興行収入を上回ったことからシリーズ化され、菅原文太はヤクザ映画から脱却するきっかけとなった。1978年には『柳生一族の陰謀』が大ヒットし[21]、『赤穂城断絶』など次々と時代劇復興を掲げた作品が製作された。



松竹




東京柴又駅の車寅次郎の銅像


松竹では1969年より開始された山田洋次による『男はつらいよ』のシリーズ化により国民的人気を勝ち取る事となった。このシリーズは30年近く、48本の映画が製作され、1983年、「世界最長の映画シリーズ」としてギネス・ワールド・レコーズに登録されている。



角川映画


1976年の『犬神家の一族』を皮切りに、出版やテレビドラマ等との複合的効果を狙ったメディアミックスマーケティングを展開し、『人間の証明』、『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』など、大作を立て続けに大ヒットさせた。『犬神家の一族』では製作を東宝、配給は東映など、以降の作品でも映画会社のそれぞれの強みのみを採用し、従来の映画界の枠を打ち破る独自の映画製作を進めていった。



日活ロマンポルノ


日活の転進はそれまで所属していた大物俳優や監督との訣別を意味した。小林旭や渡哲也は東映へ、宍戸錠はテレビへと活躍の場を求めている。逆に今まで機会のなかった新人監督や俳優が次々と出現し、業界の停滞期において、唯一といっていい人材育成の場所となった。日活ロマンポルノは1988年まで週に2本というペースで製作がなされ、神代辰巳、田中登、小沼勝、村川透、池田敏春、中原俊、黒沢直輔、金子修介といった多数の人材を輩出している。



1980年代




配給会社別年間配給収入


1980年になると従来のスタジオシステムは崩壊し、大手が大作映画を全国の専属劇場で同時公開するという方式が成り立たなくなった。


日活は1978年に社名を「にっかつ」に、1988年に「ロッポニカ」に変更し、ロマンポルノ路線からの脱皮を図ったが、うまく立ち行くことはできなかった。


新人監督という面でみれば、多大な貢献を果たしていたのは日活で、石井隆、那須博之、根岸吉太郎といった監督が日活より巣立った[要出典]。また、個人製作映画から森田芳光、原一男や高嶺剛といった個性的な監督が登場したのもこの頃である[要出典]


1984年、伊丹十三(映画監督伊丹万作の息子)が51歳で『お葬式』で映画監督としてデビューし、当初は「映画の名前が良くない」などと、ほとんど映画館から上映を断られるほど知名度が低い状態であったが、最初は小さな映画館での上映から始まり徐々に高い評価をうけ上映館が拡大し、ついには日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして、実に30を超える映画賞を受賞する状態までになった。(翌1985年の『タンポポ』も佳作との評価する人が多いが)1987年の『マルサの女』は、同時代を取材しそれを巧みに取り込んだ作品で、社会現象化し世間はこの映画のことで話題しきりの状態となった。伊丹は日本映画に、伊丹独特のセンス、新しい切り口、(製作上の)新しい手法などを導入した。(伊丹はその後も、『マルサの女2』(1988年)、『あげまん』(1990年)、『ミンボーの女』(1992年)、『大病人』(1993年)、『静かな生活』(1995年)、『スーパーの女』(1996年)、『マルタイの女』(1997年)と、90年代後半にかけて、手堅く当たる作品を世に出し続け、計十本の映画を手掛けることになる。なお『マルサの女』の現場には周防正行もスタッフとして参加しており、その現場で知りえた伊丹独特の手法が自分で映画を撮るときに大いに役に立ったと周防正行は後に語っており、伊丹はその意味でも日本映画に貢献した。)


80年代終盤になると有名人を映画監督に担ぎ出す動きが相次ぎ、ミュージシャンや俳優から作家、画家などあらゆるジャンルの監督が出現したが、二作目のメガホンをとったのは北野武、坂東玉三郎、竹中直人などごく僅かであった。


一方、1970年代に沈黙してきた巨匠の復帰作品というものも見られ、代表的なものとしては黒澤明の『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)や鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)や吉田喜重の『人間の約束』(1986年)、松本俊夫の『ドグラ・マグラ』(1988年)などがある。



1990年代




北野武


シネマコンプレックスが日本に定着した1990年代は、長期恒常的な不景気のあおりを受けつつも、1994年、長らく減少を続けていた映画館数がようやく増加の傾向に切り替わった。1960年から30年、全ての数値で減少し続けていた映画業界において、わずかながらではあるが、回復の兆しが見え始めた時期であるといえる。メディアミックスの動きが活発になり、ゲーム、漫画、アニメなどと連動した映画作品が増加した。製作委員会方式によるリスク分散の手法が一般化し、テレビ製作会社の映画事業参入が増加。2000年代の邦画復活の布石となった。


また、1950年来遠ざかっていた国際映画祭の話題もいくつか出現し、1997年、今村昌平の『うなぎ』がカンヌ映画祭のグランプリを、河瀬直美の『萌の朱雀』がカメラ・ドールを獲得した。ヴェネツィア映画祭では北野武の『HANA-BI』が金獅子賞を獲得し、マス・メディアにおいて「日本映画のルネッサンス」という標語まで誕生した。興行面においても周防正行の『Shall we ダンス?』などがアメリカをはじめとする諸国で成功を収めた。国内においても1997年に宮崎駿の『もののけ姫』が記録的なヒットとなるなど、明るい話題が続いた。



2000年代




配給会社別年間興行収入


近年、多チャンネル時代を迎える中で、海外の映画監督の評価もあり、日本独自の映像表現が見直されるようになった。特に、ジャパニーズホラーとも呼ばれるホラー映画が海外でも脚光を浴び、『呪怨』などがハリウッドでもリメイクされるようになる。同時に、低迷する日本映画を支える動きが起こりつつある。その成果があったのか、2006年は21年ぶりに邦画の興行収入が洋画の興行収入を上回った(日本映画製作者連盟)。だがこれも、洋画の興行収入の低迷によるという一面がある。2014年には、映画興行収入トップ20の大半が邦画であり、アメリカ映画は僅か5本となっている[22]


また、テレビ局が出資した映画のCMを自局で大量に流し、情報番組などで煽っているという裏があり、それに比例し、テレビ局の口出しが増え、映画の自主性が薄れているとされる[23]。もっとも、これらの傾向は低迷していた1980年代以来続いていたことであり、そういったメディア展開は必ずしも興行収入増加を約束するものではないという見方もある。


また、タレントや流行の単発芸人など話題性によるその場的な利用についても、特に日本は欧米と違い、タレントがCMからお笑い、ドラマや映画まで出演しているため出演者の個性が脳裏に焼きついて“映画”として見られないという声もある。


放送法でテレビ局は番組以外の商品は、宣伝が自由にできるので製作してはならないという決まりがあるが、将来自局で流す映画のコマーシャルは放送法に違反しないため問題はないので、上記で挙げた過剰な宣伝はモラルの問題とされる[23]


一方で、東京など大都市よりも地方都市でロケーション撮影をする作品が多くなっている。ヒット作品の中には地方都市を舞台にした作品もあり、これをきっかけにロケ地をめぐる観光客が増加したケースもある。地方活性化の一役を映画が担っている面もこの時代から急速に大きくなっている。そのため誘致から撮影のスケジュール調整などを担う「フィルムコミッション」が各地で設立されている。


現在、日本映画の製作本数は増加しており、2006年の公開作品総数は821本(1955年以降で最高)、スクリーン数は3062(対前年比136増。3000を超えたのは1970年以来)、入場者数は計1億6427万人余であった(日本映画製作者連盟)。しかし同時に公開の目処の立たない長篇映画、DVD化もされない作品も多く、そう云った作品は年間100本以上とも、3本に1本とも云われており、それらは「不良債権映画」とも云われている。


日本の文化的なモノとしては、基本的に観客は静寂を保つように視聴するのが礼儀となっており、北米やインドなど拍手・声援などで応答する文化と異なっている。2000年代に入ると、「応援上映」(チアリング上映)などと呼ばれる上映会が催され、それらでは声援など観客たちが映画の進行に合わせて盛り上げることが可能になっている。



行政による映画支援の動き


2001年11月16日、文化芸術振興基本法が衆議院に提出され、同月30日衆参で可決した。法律の公布・施行は同年12月7日。 この法律のメディア芸術の振興の項目(第9条)で、映画を含んだメディア芸術の製作・上映支援などのために必要な施策を講じることが明記され、これと連動する形で第35条で地方公共団体によるバックアップも明記された。


このことを受け、文化庁は地域振興と結びつく映画製作について助成することを打ち出し、各地方公共団体はフィルム・コミッションなどの設立・運営、および当該組織を通じての映画製作の誘致などを始めた。


さらに、『眠る男』(群馬県)や『船を降りたら彼女の島』(愛媛県)などのように、地方公共団体が(「補助金」や「寄付」などではなく)映画に対して直接出資する例も見られるようになった。


[24]



日本映画をめぐる最近の動き



  • 2000年2月 - 「フィルム・コミッション設立研究会」設立。


  • 2001年8月8日 - 「全国FC連絡協議会」設立総会開催。パシフィコ横浜で全国FC(フィルム・コミッション)連絡協議会の設立総会が開催された。46の正会員団体のうち、フィルム・コミッションの団体数は11。


  • 2001年12月7日 - 「文化芸術振興基本法」施行。この法律の対象には、メディア芸術(第九条)として、映画も含まれる。


  • 2003年4月1日 - 「全国FC連絡協議会」、加盟47団体へ。全国フィルム・コミッション連絡協議会への加盟FC(フィルム・コミッション)の数が47団体に達した。


  • 2003年4月24日 - 公開映画の納付義務付けを提言。文化庁の懇談会は、公開された日本映画を東京国立近代美術館フィルムセンターへ納入することを義務付ける事など日本映画を振興させる12の施策提言を最終報告書にまとめた。


脚注


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  1. ^ 四方田犬彦『日本映画史100年』(集英社 ISBN 978-4087200256)pp.14-16


  2. ^ 田中純一郎『日本映画発達史』[要ページ番号]


  3. ^ 山本喜久男 『日本映画における外国映画の影響』 早稲田大学出版部、1983年。ISBN 4-657-83008-2。pp.600-603


  4. ^ 山本喜久男 『日本映画における外国映画の影響』 早稲田大学出版部、1983年。ISBN 4-657-83008-2。[要ページ番号]


  5. ^ 「日本映画史100年」p.44


  6. ^ 「日本映画史100年」p.48


  7. ^ 『映画渡世・天の巻 - マキノ雅弘自伝』、マキノ雅弘、平凡社、1977年、p.141-142.


  8. ^ 「日本映画史100年」p.80


  9. ^ ジョン・ウェイン主演のアメリカの戦意高揚映画『フライング・タイガーFlying Tigers』(1942年)では、『燃ゆる大空』の一部フィルムが着色されたうえで流用(盗用)されている。


  10. ^ 「日本映画史100年」p.123


  11. ^ 「日本映画史100年」p.134


  12. ^ 「日本映画史100年」p.129


  13. ^ JJサニー千葉 『千葉流 サムライへの道』 ぶんか社、2010年、28 - 36頁。ISBN 4821142694。


  14. ^ Last Picture Show in Little Tokyo : Film: An era ends for the country's only remaining Japanese-language movie houseThe Los Angels Times, October 31, 1990


  15. ^ Toho La Brea TheatreCinema Treasures


  16. ^ 津堅信之『日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸』NTT出版、2004年。


  17. ^ Variety、1974年12月18日付。


  18. ^ 「本家ブルース・リーをしのぐ千葉真一」 報知新聞、1974年12月27日付朝刊。


  19. ^ 『SPORTS CITY』第1巻第2号、鎌倉書房、1981年8月、 32頁。


  20. ^ 中村カタブツ 『極真外伝 〜極真空手もう一つの闘い〜』 ぴいぷる社、1999年、172 - 186頁。ISBN 4893741373。


  21. ^ 「西郷輝彦、深作欣二作品の萬屋錦之介に身震い」、『アサ芸+』、徳間書店、2012年12月12日2013年1月1日閲覧。


  22. ^ 高森郁哉 (2015年8月18日). “ネットフリックス日本進出の成否、米メディアはこう見る”. ニューズウィーク. http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2015/08/post-3840.php 2015年8月22日閲覧。 

  23. ^ ab2006年10月号「日経エンタテインメント!」(日経BP社)の連載「テレビ証券」より


  24. ^ 「現在のところ、これらの動きはいわゆる「ご当地映画」製作へと結びつく傾向があるが、まだ始まったばかりであり、今後の展開が期待される。[要出典]



参考文献


  • 『講座日本映画』岩波書店
    • 今村昌平 『日本映画の誕生』(1985年、ISBN 9784000102513)

    • 今村昌平 『無声映画の完成』(1986年、ISBN 9784000102520)

    • 今村昌平他 『トーキーの時代』(1986年、ISBN 9784000102537)

    • 今村昌平他 『戦争と日本映画』(1986年、ISBN 9784000102544)

    • 今村昌平他 『戦後映画の展開』(1987年、ISBN 9784000102551)

    • 今村昌平他 『日本映画の模索』(1987年、ISBN 9784000102568)

    • 今村昌平他 『日本映画の現在』(1988年、ISBN 9784000102575)

    • 今村昌平他 『日本映画の展望』(1988年、ISBN 9784000102582)


  • 田中純一郎 『日本映画発達史』(中央公論社、1975年、ISBN 9784122002852)

  • 『日本映画における外国映画の影響』(早稲田大学出版部、1983年、ASIN B000J7FJYG)

  • ピーター・B・ハーイ 『銀幕の帝国』(名古屋大学出版会、1995年、ISBN 9784815802639)

  • 平野共余子 『天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲』(草思社、1998年、ISBN 9784794207760)


  • 山口猛 『幻のキネマ 満映』(平凡社、2006年、ISBN 9784582765885)


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