小笠原長貴
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凡例 小笠原 長貴 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 寛政5年7月6日(1793年8月12日) |
死没 | 天保11年3月8日(1840年4月10日) |
改名 | 土用犬丸(幼名)、長貴 |
戒名 | 瑞竜院殿春沢宗仁大居士 |
墓所 | 福井県勝山市の開善寺 東京都台東区松が谷の海禅寺 |
官位 | 従五位下、相模守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番・若年寄 |
藩 | 越前勝山藩主 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原長教、母:中川久貞の娘 |
妻 | 正室:酒井忠道の娘 |
子 | 貴富、長保、長満、川勝広運、長守 娘(森長国正室)、娘(屋代忠規正室) |
小笠原 長貴(おがさわら ながたか)は、越前勝山藩の第7代藩主。信嶺系小笠原家9代。
経歴
寛政5年(1793年)7月6日、第6代藩主・小笠原長教の長男として生まれる。寛政11年(1799年)に父が死去したため家督を継いだ。しかし家督相続の年に勝山城下で大火が起こり、享和3年(1803年)には江戸藩邸が火事で焼失する。文化8年(1811年)には天候不順が原因で凶作となり、領内で打ちこわし(大杉沢騒動)が起こった。文化11年(1814年)には百姓一揆が起こり、天保期には天保の大飢饉で大被害を受け、それが原因で天保7年(1836年)に打ちこわしが起こっているなど、藩政は多難続きであり、藩財政は悪化した。
文化13年(1816年)7月から12月まで奏者番を務め、文政12年(1829年)から天保11年(1840年)まで若年寄を務めるなど、要職を歴任している。天保11年(1840年)3月8日に死去した。享年48。跡を六男の長守が継いだ。
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