梁川星巌
梁川 星巌(やながわ せいがん、寛政元年6月18日(1789年7月10日) - 安政5年9月2日(1858年10月8日))は、江戸時代後期の漢詩人である。名は「卯」、字は「伯兎」。後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。
目次
1 人物
2 星巌と妻・紅蘭
3 関連人物
4 刊行書籍
人物
美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚した。紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。
梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡した。星巖の死に様は、詩人であることにちなんで、「死に(詩に)上手」と評された。妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。
出身地・岐阜県大垣市曽根町の華渓寺には梁川星巌記念館があり、近くの曽根城公園に妻・紅蘭との銅像がある。かつて学問の街といわれた大垣であるが、現在の大垣の代表的文人とされている。また、大垣市立星和中学校の校名は、星巌の名前に由来するものである。
星巌と妻・紅蘭
星巌とその妻・紅蘭は又従兄妹にあたる。江戸から故郷に帰った星巌は、村の子供たちを集めて、「梨花村草舎」と称する塾の様なものを開いた。そこに通っていた中に紅蘭もいた(当時14歳)。紅蘭は星巌の才学、人となりを慕って、進んで妻になることを父に請うたと言われている。
星巌32歳、紅蘭17歳の年に結婚をする。ところが結婚後すぐに星巌は、「留守中に裁縫をすること、三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。それから3年後、帰ってきた星巌を迎えた紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばかりでなく、一首の詩を詠んでいる。
- 階前栽芍薬。堂後蒔當歸。
- 一花還一草。情緒兩依依。
- 訳
きざはしの前には芍薬を植え、座敷のうしろには當歸をまきました(どちらも薬用植物だが、〈當歸〉は〈まさにかえるべし〉と訓読できるので、〈きっと帰ってくるだろう〉の意味がこめられている)。- 花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。
星巌の放浪癖はその後も変わらなかったものの、これ以降は当時としては珍しく、妻を同伴して旅をするようになったという。
関連人物
- 藤田東湖
- 梅田雲浜
- 吉田松陰
- 橋本左内
- 池内大学
- 西郷隆盛
- 佐久間象山
- 頼山陽
- 春日潜庵
- 小野湖山
- 宇津木景福
- 岡本半介
- 頼三樹三郎
- 藤森弘庵
- 谷口藹山
- 山中静逸
- 藤井竹外
- 柏木如亭
- 所郁太郎
- 森春濤
- 高井鴻山
- 小原鉄心
- 日根対山
- 淡海槐堂
- 里井浮丘
- 江馬天江
刊行書籍
入谷仙介訳注 『頼山陽 梁川星巌』 岩波書店〈江戸詩人選集第8巻〉、1990年。 ※以下は近年刊行のみ- 山本和義、福島理子訳注 『梁川星巌』 研文出版〈日本漢詩人選集17〉、2008年。
- 上野日出刀訳注 『梁川星巌 藤森弘庵』 明徳出版社〈叢書・日本の思想家37〉、1998年。