土屋寅直
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凡例 土屋寅直 | |
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政3年2月24日(1820年4月6日) |
死没 | 明治28年(1895年)11月29日 |
改名 | 多仁丸(幼名)→寅直 |
別名 | 采女(通称) |
戒名 | 太亀院殿楊軒寅直大居士 |
墓所 | 茨城県土浦市大岩田町の法泉寺 |
官位 | 従五位下、采女正、従四位下、正四位、従三位、正三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 常陸土浦藩主 |
氏族 | 土屋氏 |
父母 | 父:土屋彦直 母:充子(土屋寛直の養女、土屋英直の娘) |
兄弟 | 寅直、樫次郎 |
妻 | 正室:有馬頼徳の娘 |
子 | 多仁丸、質直、養直、娘(青山忠誠正室)、 養子:挙直 |
土屋 寅直(つちや ともなお)は、常陸土浦藩の第10代藩主。
生涯
文政3年(1820年)2月24日、第9代藩主土屋彦直の長男として生まれる。天保8年(1837年)8月に従五位下・采女正に叙位・任官する。天保9年(1838年)12月7日、父が眼病を理由に隠居したため、家督を継いだ。
天保14年(1843年)に奏者番に任じられる。嘉永元年(1848年)7月23日に寺社奉行見習、10月18日に寺社奉行に任じられる。嘉永3年(1850年)9月1日に大坂城代に任じられた。安政5年(1858年)11月26日、大坂城代を退任する。元治元年(1864年)9月10日、奏者番兼寺社奉行に再び就任する。慶応4年(1868年)3月1日、奏者番兼寺社奉行を退任する。
水戸藩の徳川斉昭の従弟に当たることから、安政5年(1858年)の大坂・兵庫開港に反対している。また、水戸藩で天狗党の乱が起こったときにも、その鎮圧には消極的な立場に終始するなど、佐幕派と討幕派の間で苦慮した行動が目立った。藩政では藩財政再建のために倹約令を出し、家臣の知行借上や特産物の専売化を行なっている。また、人材登用や郡制改革、学問の奨励など、斉昭に倣った藩政改革を行なっている。
慶応4年(1868年)3月1日、新政府の命令で謹慎する。後に新政府に恭順して江戸城警備を務めた。5月6日、養子の挙直(徳川斉昭の十七男)に家督を譲って隠居した。明治28年(1895年)に死去、享年76。
栄典
1895年(明治28年)11月29日 - 正三位[1]
脚注
^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1895年12月2日。
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