町奉行


町奉行(まちぶぎょう)とは江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠し、遠国奉行と総称された。




目次





  • 1 概要


  • 2 町奉行


  • 3 町奉行所

    • 3.1 町奉行所の組織

      • 3.1.1 組織構造



    • 3.2 月番制と管轄



  • 4 その他


  • 5 町奉行の一覧

    • 5.1 一奉行所時代


    • 5.2 北町奉行


    • 5.3 南町奉行


    • 5.4 中町奉行



  • 6 関連項目


  • 7 参考文献


  • 8 脚注


  • 9 外部リンク




概要


町奉行という役職は一般に江戸時代に幕府や藩で用いられた役職である。しかし、後北条氏の例のように、江戸時代以前に町奉行という役職が用いられたこともある。


町奉行所は一般に現代でいう警察と裁判所の役割を持った公的機関と知られているが、実際にはもっと広い範囲の行政も担当した。特に町方(町人)の調査(人別改)も町奉行所の仕事であり、他にも防災など現代でいう役所全般の職務も含まれていた。また、他の奉行(寺社奉行・勘定奉行)も、その職権が定められた範囲において司法権を持つ役職であり、司法権は町奉行のみが有した権限ではない。


町奉行は幕府や藩が「町方」として指定した地域を管轄する役職であり、通常は町方の多くは藩庁のある城下町(陣屋町)に限定されたため、町奉行という役職もそこに限定された(ただし、広島藩における尾道のように、藩庁以外に町方を指定したケースもある)。また、町方は通常は武家町・寺社町・町地を含むものであり、町奉行所の管轄は一般にこの中の町地に限定された(諸藩においては、町奉行が寺社奉行職務を兼任することも多かった)。一方で、重要な交通路にあった宿場町など規模の大きい町であっても、町方に指定されていない地域は、通常は郡奉行(郡代)が担当した。


以下では役職としての江戸の町奉行について記述し、また幕府の機関としての江戸の町奉行所についても記述する(以後、特別断りが無い場合、奉行とは町奉行、奉行所とは町奉行所を指す)。



町奉行


町奉行は寺社奉行・勘定奉行とあわせて三奉行と称された。他の二奉行と同様評定所の構成メンバーであり、幕政にも参与する立場であった。基本的に定員は2人である。初期は大名が任命され、後には旗本が任命された。旗本が任命されるようになってから以降の町奉行の石高は3000石程度であった。


町奉行は旗本が就く役職としては最高のもの(格式は大目付の方が高い)で、目付から遠国奉行・勘定奉行等を経て司法・民政・財政などの経験を積んだ者が任命された[1]。特に目付を経験していることが重要視された。


その職務は四つ時(午前10時頃)には江戸城に登城し、老中などへの報告や打ち合わせ、他の役職者との公用文書の交換などを行い、午後は奉行所で決裁や裁判を行なうというもので、江戸の町人地の司法・行政・治安維持を一手に担う役職であったため職務は多忙を極めた。時代劇などでは町奉行が一人で捜査に赴いたり、単身で犯罪現場へ乗り込んだりしているが前述のように町奉行は高位の旗本の就く役職で、移動の際には駕籠に乗り、25人程度の同心や従者を伴っていたし、多忙な役職であるため、実際には時代劇のような行動は取っていない[2]。また、時代劇ではお白洲のその場で町奉行が死罪や遠島を容疑者に言い渡しているが、実際には町奉行だけの権限で言い渡せるのは中追放までで、重追放(田畑・家屋敷・家財没収の上、武蔵、山城などの十五か国及び東海道筋、木曽路筋への立ち入り禁止)以上の重い刑罰は老中に上申せねばならず(実際には町奉行は奥右筆の吟味方に調書を提出し、奥右筆が公事方御定書や過去の判例を元に判決案を作成する)、老中、さらには将軍の最終決裁を経なければ刑が確定しなかった[3]


町奉行の役宅は奉行所内にあった。激務のため在任中に死ぬものも多かった。


部下は与力や同心である。これらは将軍家の家臣(旗本ないしは御家人)であり、実質的な世襲制で奉行所に勤めていた。奉行は老中所轄の旗本であって、与力や同心たちとは直接の主従関係は無かった。奉行と主従関係にあった与力は内与力(うちよりき)と呼ばれ、通常の与力とは区別された。内与力は将軍からは陪臣にあたるので、本来は与力よりは格下であり禄高も低いが、実際には奉行の側近として上席与力の待遇を受けることが多かった。講談などでは南北奉行所が互いにライバル関係にあり仲が悪かったかのように描写されるが、後述する南北奉行所の関係(月番制や管轄)からもわかるように、むしろ、奉行の方が余所者であって信頼関係が薄かったとされている。


このため奉行は与力に夏や冬に反物を贈ったり、業務が多忙な時に出勤した者たちへ湯漬けや鮪を自腹で供したり、火事場への出馬の際には与力や同心の弁当を奉行が自腹で負担する等、与力や同心の歓心を得ようとしていた[4]。また町奉行は2-5年で異動するため(20年近く在職した大岡忠相や18年近く在職した根岸鎮衛などは例外である)、職務に関するノウハウを代々受け継いでいる与力や同心を制御することが難しく、地位は高いものの職務については与力の言いなりになりがちであったという[5]



町奉行所





東京都千代田区
JR有楽町駅前
南町奉行所跡碑と、
再開発事業によって出土され再現された石組みの下水溝の一部(2018年11月)


1631年に幕府が町奉行所を建てるまで、町奉行所は、町奉行に任ぜられた者がその邸宅に白州を作ってその職務を執り行っていた。


管轄区域は江戸の町方のみで、面積の半分以上を占める武家地・寺社地には権限が及ばなかった。ただ寺社の門前町についてはのちに町奉行管轄に移管された。1818年には江戸の範囲が地図上に赤い線(朱引)で正式に定められたが、同時に町奉行の管轄する範囲も黒い線(墨引)で示された。これは後の東京15区、即ち市制施行時の東京市の範囲とほぼ一致する。


町奉行所と言う名称は、その役職から来た名であるため、町人たちからは御番所(ごばんしょ)や御役所と呼ばれていた。南町奉行所(南番所)は現在の有楽町マリオン付近に、北町奉行所(北番所)が東京駅の八重洲北口付近に置かれていた[6]。通常奉行所は厳重に警備されていたが年に一度6月7日の中橋天王祭礼のときだけは表門を開いて神輿を迎え入れ、また奉行や与力・同心の家族・親類などが男女問わず奉行所の内部を見学することを許していた。その際見学に訪れる者は着飾った衣服を身に付けていたという[7]



町奉行所の組織


与力は南北奉行所に25名ずつ、同心は100名ずついた。50万人の町人の人口に比べると南北合わせて250人程度という非常に少ない人数で治安維持や行政、防災にあたっていたのである。特に、犯罪捜査などの警察業務にあたるのは三廻(定廻、隠密廻、臨時廻)だが、定廻は同心が3-5名程度、隠密廻、臨時廻を加えても南北合わせて30名程度という少人数で江戸の治安維持に当たっていた。このため定廻同心達は自腹で目明し(岡っ引)を雇っていたほか、放火や盗賊については武官の先手組が加役の火付盗賊改方として取締りに当たった[8]



組織構造


時代によって職種などは変化したが、概ね以下のような組織になっていた。特に注の無い限り、内与力・三廻以外は、与力-同心という構造になっていた[9]


  • 町奉行
    • 内与力(町奉行の家臣。奉行の秘書役)

    • 年番方(人事・出納・奉行所全体の管理。与力の筆頭格) - 同心


    • 吟味方(訴訟の審理・刑の執行) - 同心

    • 赦帳方・撰要方・人別調掛(恩赦の資料作成、『撰要類集』の編纂、人別調査) - 同心

    • 例繰方(判例の記録と調査) - 同心

    • 本所見廻(本所・深川に関する事柄を担当。江戸初期は本所奉行という独立した役職が担当していた) - 同心

    • 養生所見廻(小石川養生所の管理) - 同心

    • 牢屋敷見廻(伝馬町牢屋敷の取締り。実務は牢屋奉行の配下が担当) - 同心

    • 定橋掛(幕府が普請した橋の維持・管理) - 同心

    • 町会所見廻(市中の町会所の事務管理) - 同心


    • 猿屋町会所見廻(浅草蔵前の札差業務の管理) - 同心

    • 古銅吹所見廻(市中の古銅吹き替え業務の監督) - 同心

    • 高積改(防火のため河岸の荷を監視) - 同心

    • 町火消人足改(町火消の消火活動を指揮) - 同心

    • 風烈見廻(強風時に昼夜巡回。火災の警戒) - 同心

    • 人足寄場定掛(人足寄場の事務監督) - 同心

    • 三廻(同心のみ)
      • 定廻同心(犯罪捜査、犯人の逮捕)

      • 臨時廻同心(定廻同心の補佐)

      • 隠密廻同心(奉行に直属して偵察)



月番制と管轄


よく北町奉行(所)・南町奉行(所)と言われるように、(一部の時期を除き)江戸町奉行所は2ヶ所あり、1か月交代で開門する月番制によって交互に業務を行っていた。これは民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、月番でない奉行所は、月番のときに受理して未処理となっている訴訟の処理等を行った。奉行が職権で開始する刑事事件の処理などの通常業務は、月番であるか否かにかかわらず、常に行われていた。ただし、商業に関することだけは南北で窓口が分けられており、呉服・木綿・薬種問屋の案件は南町奉行所、書物・酒・廻船・材木問屋の案件は北町奉行所といったようにそれぞれ違う業種を受け持っていた[10]


現在で言うところの管轄区域は南北奉行所で分け合ったのではなく、南北双方の奉行所にいた廻り方同心各自に受け持ち地域を指定した。


南北という名称は、奉行所所在地の位置関係によりそう呼ばれていたということであり、南北は正式な呼称ではなく公式には一律で町奉行とのみ呼ばれた。従って1つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになる。宝永4年(1707年)に本来北町奉行所であった常盤橋門内の役宅が一番南側の数寄屋橋門内に移転した際には、その場所ゆえに南町奉行所と呼ばれるようになり、従来鍛冶橋内にあった南町奉行所が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が北町奉行所となった。



その他


1702年(元禄15年)閏8月 - 1719年(享保4年)1月という短い間ではあるが中町奉行所というものも設置された。設置された理由や職務内容はあまり定かではないが、南北町奉行所の補助役として設置されたとされる。


明治以降、奉行所は取り壊されてしまったが、北(東京駅八重洲口北側付近)・南(有楽町マリオン・有楽町イトシア)の両町奉行所が存在していたとされる場所には、今でも石碑が建っている。ただし、いずれも幕末期における町奉行所の位置を指すものであり、文化2年(1805年)以後に固定化された場所に相応している。



町奉行の一覧


初期は、北・南の両町奉行が置かれておらず、一つの奉行で成り立っており、正式な町奉行という役職ではなかったが事実上同じ働きを持っていた。正式に町奉行という官職ができたのは、北南町奉行が設置されてからである。また、途中中町奉行が設置されたが、わずか17年で廃止された。


※人名については苗字、官名、諱で記述していく。



一奉行所時代


  1. 天野三郎兵衛康景

  2. 神田与兵衛政高

  3. 岸助兵衛正久


  4. 板倉四郎右衛門勝重(天正18年(1590年) - 慶長5年(1600年))


  5. 彦坂小刑部元成(彦坂元正)(天正18年(1590年) - 慶長5年(1600年))


  6. 青山常陸介忠成(慶長6年(1601年) - 慶長11年(1606年))


  7. 内藤修理亮清成(慶長6年(1601年) - 慶長11年(1606年))


北町奉行



  1. 米津勘兵衛田政(慶長9年(1604年)3月6日 - 寛永元年(1624年)11月22日)


  2. 堀式部少輔直之(寛永8年(1631年)10月5日 - 寛永15年(1638年)1月28日)


  3. 酒井因幡守忠知(寛永15年(1638年)5月16日 - 寛永16年(1639年)5月18日)


  4. 朝倉石見守在重(寛永16年(1639年)7月18日 - 慶安3年(1650年)11月19日)


  5. 石谷左近将監貞清(慶安4年(1651年)6月18日 - 万治2年(1659年)1月28日)


  6. 村越長門守吉勝(万治2年(1659年)2月9日 - 寛文7年(1667年)閏2月16日)


  7. 島田出雲守守政(寛文7年(1667年)閏2月21日 - 延宝9年(1681年)3月27日)


  8. 北条安房守氏平(延宝9年(1681年)4月6日 - 元禄6年(1693年)12月15日)


  9. 川口摂津守宗恒(元禄6年(1693年)12月15日 - 元禄11年(1698年)12月1日)


  10. 保田越前守宗郷(元禄11年(1698年)12月1日 - 宝永元年(1704年)10月1日)


  11. 松野河内守助義(宝永元年(1704年)10月1日 - 宝永4年(1707年)4月22日)


  12. 丹羽遠江守長守(宝永4年(1707年)4月22日 - 正徳4年(1714年)1月16日)


  13. 中山出雲守時春(正徳4年(1714年)1月28日 - 享保8年(1723年)6月29日)


  14. 諏訪美濃守頼篤(享保8年(1723年)7月20日 - 享保16年(1731年)9月19日)


  15. 稲生下野守正武(享保16年(1731年)9月19日 - 元文3年(1738年)2月15日)


  16. 石河土佐守政朝(元文3年(1738年)2月28日 - 延享元年(1744年)6月11日)


  17. 能勢肥後守頼一(延享元年(1744年)6月11日 - 宝暦3年(1753年)3月28日)


  18. 依田和泉守政次(宝暦3年(1753年)4月7日 - 明和6年(1769年)8月15日)


  19. 曲淵甲斐守景漸(明和6年(1769年)8月15日 - 天明7年(1787年)6月1日)


  20. 石河土佐守政武(天明7年(1787年)6月10日 - 9月19日)


  21. 柳生主膳正久通(天明7年(1787年)9月27日 - 天明8年(1788年)9月10日)


  22. 初鹿野河内守信興(天明8年(1788年)9月10日 - 寛政3年(1791年)12月20日)


  23. 小田切土佐守直年(寛政4年(1792年)1月18日 - 文化8年(1811年)4月20日)


  24. 永田備後守正道(文化8年(1811年)4月26日 - 文政2年(1819年)4月22日)


  25. 榊原主計頭忠之(文政2年(1819年)閏4月1日 - 天保7年(1836年)9月20日)


  26. 大草安房守高好(天保7年(1836年)9月20日 - 天保11年(1840年)1月18日)


  27. 遠山左衛門尉景元(天保11年(1840年)3月2日 - 天保14年(1843年)2月24日)


  28. 阿部遠江守正蔵(天保14年(1843年)2月24日 - 10月1日)


  29. 鍋島内匠頭直孝(天保14年(1843年)10月10日 - 嘉永元年(1848年)11月8日)


  30. 牧野駿河守成綱(嘉永元年(1848年)11月8日 - 嘉永2年(1849年)7月6日)


  31. 井戸対馬守覚弘(嘉永2年(1849年)8月4日 - 安政3年(1856年)11月18日)


  32. 跡部甲斐守良弼(安政3年(1856年)11月18日 - 安政5年(1858年)5月24日)


  33. 石谷因幡守穆清(安政5年(1858年)5月24日 - 文久2年(1862年)6月5日)


  34. 小笠原長門守長常(文久2年(1862年)6月5日 - 10月17日)


  35. 浅野備前守長祚(文久2年(1862年)10月17日 - 文久3年(1863年)4月16日)


  36. 佐々木信濃守顕発(文久3年(1863年)4月16日 - 4月23日)


  37. 阿部越前守正外(文久3年(1863年)4月23日 - 元治元年(1864年)3月4日)


  38. 都筑駿河守峯暉(元治元年(1864年)3月14日 - 7月6日)


  39. 池田播磨守頼方(元治元年(1864年)7月6日 - 慶応2年(1866年)6月29日)


  40. 井上信濃守清直(慶応2年(1866年)6月29日 - 慶応3年(1867年)12月28日)


  41. 杉浦武三郎知周(慶応3年(1867年)10月27日 - 慶応4年(1868年)5月2日)


  42. 小出大和守秀実(慶応3年(1867年)12月27日 - 慶応4年(1868年)2月16日)


  43. 石川河内守利政(慶応4年(1868年)2月17日 - 5月20日)


南町奉行



  1. 土屋権右衛門重成(慶長9年(1604年) - 慶長16年(1611年)7月)


  2. 島田弾正忠利正(慶長18年(1613年)12月 - 寛永8年(1631年)10月5日)


  3. 加々爪民部少輔忠澄(寛永8年(1631年)10月5日 - 寛永17年(1640年)1月23日)


  4. 神尾備前守元勝(寛永17年(1640年)5月18日 - 万治4年(1661年)3月8日)


  5. 渡辺大隅守綱貞(万治4年(1661年)4月12日 - 寛文13年(1673年)1月23日)


  6. 宮崎若狭守重成(寛文13年(1673年)1月23日 - 延宝8年(1680年)2月23日)


  7. 松平隼人正忠冬(延宝8年(1680年)2月26日 - 8月12日)


  8. 甲斐庄飛騨守正親(延宝8年(1680年)8月30日 - 元禄3年(1690年)12月13日)


  9. 能勢出雲守頼相(元禄3年(1690年)12月23日 - 元禄10年(1697年)4月3日)


  10. 松前伊豆守嘉広(元禄10年(1697年)4月14日 - 元禄16年(1703年)11月13日)


  11. 林土佐守忠和(元禄16年(1703年)11月15日 - 宝永2年(1705年)1月28日)


  12. 坪内能登守定鑑(宝永2年(1705年)4月28日 - 宝永4年(1707年)4月22日)


  13. 松野河内守助義(宝永4年(1707年)4月22日- 享保2年(1717年)2月2日)


  14. 大岡越前守忠相(享保2年(1717年)2月3日 - 元文元年(1736年)8月12日)


  15. 松波筑後守正春(元文元年(1736年)8月12日 - 元文4年(1739年)9月1日)


  16. 水野備前守勝彦(元文4年(1739年)9月1日 - 元文5年(1740年)12月3日)


  17. 島長門守祥正(元文5年(1740年)12月28日 - 延享3年(1746年)6月15日)


  18. 馬場讃岐守尚繁(延享3年(1746年)7月2日 - 寛延3年(1750年)1月26日)


  19. 山田肥後守利延(寛延3年(1750年)3月16日 - 宝暦3年(1753年)11月24日)


  20. 土屋越前守正方(宝暦3年(1753年)12月24日 - 明和5年(1768年)5月19日)


  21. 牧野大隅守成賢(明和5年(1768年)5月26日 - 天明4年(1784年)3月12日)


  22. 山村信濃守良旺(天明4年(1784年)3月12日 - 寛政元年(1789年)9月7日)


  23. 池田筑後守長恵(寛政元年(1789年)9月7日 - 寛政7年(1795年)6月28日)


  24. 坂部能登守広高(寛政7年(1795年)6月28日 - 寛政8年(1796年)9月28日)


  25. 村上肥後守義礼(寛政8年(1796年)9月28日 - 寛政10年(1798年)10月22日)


  26. 根岸肥前守鎮衛(寛政10年(1798年)11月11日 - 文化12年(1815年)11月9日)


  27. 岩瀬加賀守氏紀(文化12年(1815年)11月24日 - 文政3年(1820年)2月8日)


  28. 荒尾但馬守成章(文政3年(1820年)3月17日 - 文政4年(1821年)1月23日)


  29. 筒井和泉守政憲(文政4年(1821年)1月29日 - 天保12年(1841年)4月28日)


  30. 矢部駿河守定謙(天保12年(1841年)4月28日 - 12月21日)


  31. 鳥居甲斐守忠耀(天保12年(1841年)12月28日 - 天保15年(1844年)9月6日)


  32. 跡部能登守良弼(天保15年(1844年)9月15日 - 弘化2年(1845年)3月15日)

  33. 遠山左衛門尉景元(弘化2年(1845年)3月15日 - 嘉永5年(1852年)3月24日)


  34. 池田播磨守頼方(嘉永5年(1852年)3月30日 - 安政4年(1857年)12月28日)


  35. 伊沢美作守政義(安政4年(1857年)12月28日 - 安政5年(1858年)10月9日)

  36. 池田播磨守頼方(安政5年(1858年)10月9日 - 文久元年(1861年)5月26日)


  37. 黒川備中守盛泰(文久元年(1861年)5月28日 - 文久2年(1862年)閏8月25日)


  38. 小栗豊後守忠順(文久2年(1862年)閏8月25日 - 12月1日)


  39. 井上信濃守清直(文久2年(1862年)12月1日 - 文久3年(1863年)8月1日)

  40. 佐々木信濃守顕発(文久3年(1863年)8月2日 - 元治元年(1864年)6月29日)


  41. 松平石見守康直(元治元年(1864年)6月29日 - 11月20日)


  42. 有馬出雲守則篤(元治元年(1864年)11月22日 - 12月21日)


  43. 根岸肥前守衛奮(元治元年(1864年)12月21日 - 慶応元年(1865年)11月2日)


  44. 山口駿河守直毅(慶応元年(1865年)11月2日 - 慶応2年(1866年)8月5日)

  45. 有馬阿波守則篤(慶応2年(1866年)8月5日 - 10月24日)


  46. 駒井相模守信興(慶応2年(1866年)10月24日 - 慶応4年(1868年)1月5日)


  47. 朝比奈甲斐守昌広(慶応3年(1867年)7月4日 - 慶応4年(1868年)1月15日) - 町奉行並


  48. 黒川近江守盛泰(慶応4年(1868年)1月10日 - 3月5日)


  49. 松浦越中守信寔(慶応4年(1868年)3月5日 - 3月10日)


  50. 佐久間鐇五郎信義(慶応4年(1868年)3月25日 - 5月20日) - 官位なし:幕末の混乱のため


中町奉行


  1. 丹羽遠江守長守(元禄15年(1702年)閏8月15日 - 宝永4年(1707年)4月22日)

  2. 坪内能登守定鑑(宝永4年(1707年)4月22日 - 享保4年(1719年)1月28日)


関連項目


  • 与力

  • 同心

  • 岡っ引

  • お白洲

  • 火付盗賊改方

  • 先手組

  • 自身番

  • 評定所


  • 東京駅(北町奉行所跡地)


  • 有楽町駅(南町奉行所跡地は、駅と有楽町イトシア)


参考文献



  • 釣洋一「江戸刑事人名事典」(新人物往来社、2006年)

※中町奉行関係資料


  • 「日本の組織図事典」(新人物往来社、1988年)所収 進士慶幹「大岡忠相と江戸町奉行の組織」


  • 山本博文『江戸の組織人』(2008年 新潮文庫)


脚注



  1. ^ 山本博文『江戸の組織人』(2008年 新潮文庫)51-52頁


  2. ^ 山本『江戸の組織人』P53-54


  3. ^ 山本『江戸の組織人』P82-84


  4. ^ 山本『江戸の組織人』62-63頁


  5. ^ 山本『江戸の組織人』68-70頁


  6. ^ 山本『江戸の組織人』P55


  7. ^ 山本『江戸の組織人』P57-58


  8. ^ 山本『江戸の組織人』P46-48


  9. ^ 山本『江戸の組織人』P49


  10. ^ 山本『江戸の組織人』P60-61


外部リンク



  • 「江戸時代の歴代「中町奉行」の在職期間を知りたい。」 - レファレンス協同データベース

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