座り込み
座り込み(すわりこみ)またはシット・イン、シット・ダウン (sit-in 、sit-down ) は抗議のために非暴力で1人またはそれ以上でその場を占拠する直接行動。政治的、社会的、経済的変化を求めて行なわれることが多い。
目次
1 手順
2 歴史
2.1 公民権運動
2.1.1 1957年、ノースカロライナ州ダーラム座り込み
2.1.2 1958年、オクラホマシティ座り込み
2.1.3 1960年、グリーンズボロおよびナッシュビル座り込み
3 参照
4 脚注
5 外部リンク
手順
抗議者は座り込みにおいてレストラン、通路の妨害、政府や企業の事務所など通常方策に沿った場所に居座る。通常、武力や逮捕により強制退去させられるまで、あるいは要求が通るまで居残る。座り込みにより抗議または抗議の代理人に世間の注目を集めるため、歴史的に高い成功率を上げている。非暴力のこの方法により効果的に場所や業務を妨害することができる。抗議者を退去させる際、抗議に反対する人々による暴力に遭うこともあり、逆に世間の同情をひくこともあるため抗議者の願いが届く機会が高まる。
歴史
公民権運動
座り込みは非暴力戦略の市民的不服従に不可欠であり、抗議者達は最終的に法的にアメリカ合衆国の人種差別の終焉となった1964年の公民権法制定および白人以外の選挙権を認めていなかった投票権法の改訂など多くの人種の壁の崩壊に導いた。
Fellowship of Reconciliation (FOR)および人種平等会議(CORE)は早くも1940年代には座り込みを行なっていた。アーネスト・フィッシャーはバーニス・フィッシャーを「レストラン座り込みの母」と評した[1]。1939年8月、アフリカ系アメリカ人弁護士サミュエル・ウィルバート・タッカーは当時差別的であったバージニア州アレクサンドリアの図書館での座り込みを企画した[2]。産業別労働組合会議(CIO)の労働者代表数名は1947年、オハイオ州コロンバスで行われた会議で短期間ではあったが自然発生的にランチ・カウンターでの座り込みを行なった[3]。
初期の頃に行われた人種関連の座り込みの1つとして、1939年9月、ニューヨークのシャック・サンドイッチ・ショップの人種的に不平等な雇用に対しFather Divine とInternational Peace Mission movement の信者達は食堂労働組合302区と共にプロテストに参加した。1939年9月23日木曜日のニューヨーク・タイムズによると[4]、最もストライキが集中する41番街とレキシントン通りの角のレストランに75から100名が現れ店内に入り、5セントのコーヒーを買って客として座り込んだ。そのためその他の客は席につくことができなかった[5]。
メルヴィン・B・トルソンとジェイムス・L・ファーマー・ジュニアの支援により、ウィリー大学とビショップ大学の学生はテキサス州マーシャルのハリソン郡庁舎のロタンダでテキサス州初の座り込みを企画。この座り込みはテキサス州で最も古い白人市民会に直接挑戦するもので、結果的に州内のジム・クロウ法を覆し、1950年のSweatt v. Painter の評決により大学院生間の人種差別撤廃となった。
1957年、ノースカロライナ州ダーラム座り込み
公民権運動初期の1957年6月23日、ノースカロライナ州ダーラムのロイヤル・アイス・クリーム・パーラーで女性3名と男性4名の『ロイヤル・セブン』による人種差別への抗議行動の座り込みが行なわれたが[6]、不法侵入として逮捕された。彼らの功績はノースカロライナ州ダーラムの町の歴史的シンボルとして称えられている。
1958年、オクラホマシティ座り込み
人種差別撤廃を目的としたランチ・カウンターでの座り込みの2例目として、1958年7月、カンザス州ウィチタのレクサルのチェーンストアのダッカム・ドラッグでの座り込みが始まり[7]、8月上旬、このドラッグ・ストアは人種差別を撤廃した。数週間後の1958年8月19日、オクラホマ州オクラホマシティのカッツ・ドラッグ・ストアのランチ・カウンターでの座り込みが全国的に知られるようになった。オクラホマシティの座り込みは全米黒人地位向上協会青年組織のリーダーで地元高等学校の教師であるクララ・ルパーの先導で、彼女の8歳の娘を含む地元の学生達によって行われた。これによりカッツ・ドラッグ・ストアでは即座に人種差別が撤廃された。オクラホマシティ全体の食堂関連の人種差別を撤廃するにはその後数年かかった。現在カンザス州ウィチタのダウンタウンにはこの座り込みの先駆者に接客するウェイトレスの像が立っている。
1960年、グリーンズボロおよびナッシュビル座り込み
オクラホマシティでの座り込みの後、学生による非暴力の座り込み抗議運動は拡大していった。1960年2月1日、ノースカロライナ州グリーンズボロのF・W・ウールワース・カンパニーでグリーンズボロ座り込みにより南部全体に人種差別撤廃に向けた座り込みが広がり、アメリカ国内の人種差別の根深さを国民に気付かせることとなった[8]。数週間のうちに座り込みは近隣の市町村に広がり始め、最初の標的となったのがウールワース、S・H・クレスなど全米に支店のあるチェーン店であった[9]。
この人種差別撤廃に対する抗議の座り込みで最大にして最高となったのは、企画や基礎の段階からナッシュビル座り込みであった。参加者は何百人にも及び、ナッシュビルのランチ・カウンターでの人種差別撤廃に導いた[10]。ナッシュビルの座り込みの参加者の多くは大学生で、ダイアン・ナッシュ、ジェイムス・ベヴェル、バーナード・ラファイエット、C・T・ヴィヴィアンなど多くの人々が1960年代の全米の公民権運動のほとんどを先導し、戦略を練り、指示した。市内の歴史的黒人大学の生徒がナッシュビル座り込みを実行し、重要な役割を担った。
参照
ベッド・イン - 1969年のジョン・レノンとオノ・ヨーコによる平和キャンペーン- ダイ・イン
- ヒューマンビーイン
脚注
^ OF TIME AND SOUND, Requiem For A Free, Compassionate Spirit, by Ernest Galloway, published in Missouri Teamster, May 12, 1966, Page 7.
^ “America's First Sit-Down Strike: The 1939 Alexandria Library Sit-In”. City of Alexandria. 2009年8月22日閲覧。
^ (NYT Mar 17, 1947: 16)
^ “DIVINE'S FOLLOWERS GIVE AID TO STRIKERS: With Evangelist's Sanction They 'Sit Down' in Restaurant”. New York Times. (1939年9月23日). http://search.proquest.com/docview/103043251/pageview/1355494A1D318A3B20E/1?accountid=2837 2012年3月7日閲覧。
^ “DIVINE'S FOLLOWERS GIVE AID TO STRIKERS; With Evangelist's Sanction They 'Sit Down' in Restaurant”. New York Times (US). (1939年9月23日). http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FA0A17FA3B54107A93C1AB1782D85F4D8385F9 2010年7月20日閲覧。
^ Royal Ice Cream Sit-in — Durham, NC ~ Civil Rights Movement Veterans
^ [1]
^ First Southern Sit-in, Greensboro NC ~ Civil Rights Movement Veterans
^ Sit-ins Spread Across the South ~ Civil Rights Movement Veterans
^ Nashville Student Movement ~ Civil Rights Movement Veterans
外部リンク
エリック・バーノウ賞受賞ドキュメンタリー『February One 』 (英語) 1960年のグリーンズボロ座り込みにまつわる秘話
『Sit-In: A Tactical Analysis 』アーロン・クレイダー著 (英語) 学生の座り込みに関する調査をベースにしたエッセイ
National Young Lords (英語) 若きリーダー達についての覚書
Civil Rights Movement Veterans (英語) 公民権運動経験者による歴史、個人の思い出、写真など