三国志 (歴史書)































三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。




目次





  • 1 成立過程・版本


  • 2 構成


  • 3 裴松之の注


  • 4 後世の評価


  • 5 内容

    • 5.1 魏志(魏書)


    • 5.2 蜀志(蜀書)


    • 5.3 呉志(呉書)



  • 6 裴松之の注に引用された主要文献


  • 7 日本語訳


  • 8 『三国志』と『三国志演義』


  • 9 注釈


  • 10 出典


  • 11 関連項目


  • 12 外部リンク




成立過程・版本


成立時期は西晋による中国統一後の280年以降とされる[1]


現在通行している版本はおおむね4種ある。



  • 百衲本(宋本) - 紹興年間(1131年-1162年)の刻本が現存する最古の底本である。ただし一部欠落があるため、紹熙年間の刻本で補い、張元済が民国25年に編した。


  • 武英殿本(殿本) - 明代の北監本を底本に陳浩らが乾隆41年に編した。政府部局である武英殿書局による欽定本。

  • 金陵活字本(馮本) - 明代の南監馮夢禎本を底本に曽国藩が設立した金陵書局が同治9年(1870年)に編した。

  • 江南書局本(毛本) - 毛氏汲古閣本を底本に曽国藩が設立した江南書局が光緒13年(1887年)に編した。 

また、20世紀に発見された写本としては以下のものがある。


  • 虞翻陸績張温伝残巻 - 1920年代にトルファン市出土との伝。影印は早くから流通しており、中華書局版『三国志』(北京、1959年)の巻頭にも書影があるが、原写本は現在所在不明。[2]

  • 虞翻伝残巻 - 20世紀初に敦煌某寺で出土との伝。10行、100余字が残る。台東区立書道博物館所蔵。重要文化財。

  • 歩騭伝残巻 - 20世紀初に莫高窟で発見された敦煌文献の一つ。25行、440余字が残る。

  • 呉主伝残巻 - 1965年トルファン市の仏塔から発見された。40行、570字が残る。[3]

  • 臧洪伝残巻 - 1965年トルファン市の仏塔から発見された。21行、370余字が残る。


  • 韋曜華覈伝残巻 1909年トルファン市火焔山トユクの土中から出土。24行、590余字が残る。台東区立書道博物館所蔵。重要文化財。


構成


紀伝体の歴史書であり、「魏書」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)、「呉書」20巻、「蜀書」15巻の計65巻から成る。この他、陳寿の自序(序文)が付されていたといわれるが、現存しない。また、表(年表)や志(天文・礼楽などの記録)が存在しない。


三国がそれぞれ『魏国志』『蜀国志』『呉国志』として、独立した書物としても扱われていたという[4]。『呉国志』『魏国志』『蜀国志』の書かれた前後関係は不明である。三国の記述を独立させ、合わせて『三国志』としたところに本書の特徴がある。


魏のみに本紀が設けられているので三国のうち魏を正統としているものと判断されている。他の魏を正統とした類書では、『魏書』など魏単独の表題とし、蜀(蜀漢)や呉は独立した扱いを受けていない。また、西晋・東晋十六国時代を扱った正史『晋書』も、北の諸国家(十六国)はほとんど「載記」(地方の覇者の伝記)として扱われ、やはり独立した扱いを受けていない。南北朝時代の北魏を正統とした『魏書』(魏国志とは別)では、南朝の宋などの皇帝の伝記が、やはり「島夷」として列伝に入れられ、独立した扱いを受けていない[注釈 1]。こうしたことからみても、魏・呉・蜀をそれぞれ独立した扱いをしている本書は魏を純粋な正統と意図した歴史書であるとはいいきれない[注釈 2]。その一方で、漢の正統としての蜀にも大いに配慮をして書かれていることは多くの日本・中国の研究者が従来から指摘している。「蜀書」の末尾には本伝の補足として楊戯の「季漢輔臣賛」を全文収載している。これについて銭大昕「三国志弁疑序」では「楊戯伝に『季漢輔臣賛』を載せて数百言も費やしたのは、魏・呉よりも蜀を尊んだものである。季漢(漢の末期)と言う言葉を残したのは、蜀王朝が実際は漢王朝であることを明らかにしたものだ。」として蜀(蜀漢)の遺臣である陳寿の故国顕彰の表れであるとしている。


『三国志』には、魏に朝貢した北方や東方、西方の民族の記事は存在するものの、蜀(蜀漢)や呉に朝貢していた可能性が高い民族の国々については伝が立てられていないという指摘がある[注釈 3]。こうしたことは、『三国志』が当時のことを正確にもれなく記した史書であるかどうかの疑問を提示するものでもある。編纂当初から魏を正統として編纂したとみる日本の研究者の中には、蜀(蜀漢)と呉はあくまでも地方政権としての扱いなので書けなかったのだと解釈する意見もあるが[注釈 4]、編纂意図として魏を正統としていたかは前述のように定かでない。


日本に関する記事としては、「魏書」烏丸鮮卑東夷伝に邪馬台国についての記述が見られる。日本ではこの部分(魏書東夷伝倭人条)を「魏志倭人伝」と通称している。



裴松之の注


陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた[注釈 5]。そこで、南北朝時代の宋の文帝は裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉6年(西暦429年)上表と共に提出した。


裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明するものが少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』完成後の出来事も補われている[注釈 6]。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、話としては面白いが信憑性に欠ける逸話も数多く収録されており、説話の題材にも取り入れられていった。



後世の評価


『三国志』については、司馬遷著『史記』、班固著『漢書』、范曄著『後漢書』と並び、二十四史の中でも優れた歴史書であるとの評価が高い。同時代に、王沈、韋昭らにより、『魏書』、『呉書』等の史書が書かれているが、いずれも散逸して、陳寿の『三国志』のみが残ったと言う事実が、『三国志』に対する評価を表しているともいえる[注釈 7]。また、夏侯湛が陳寿の『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。


しかし後世において、王朝の正統論問題や、撰者陳寿の人物に対する批評内容、三国志演義が流布して定着した人物や事件のイメージとの相違、等の要因により、同書は様々な批判に晒されることとなった。特に個人的な私怨によって伝を立てなかったり悪口を書いたりの「曲筆」の疑惑については早くから指摘されている。陳寿が丁儀・丁廙の子に穀物を求め、断られたため丁儀・丁廙の伝を立てなかった、陳寿の父が諸葛亮によって処罰されたのを根に持ち諸葛亮の悪口を書いた、などの逸話は、正史である『晋書』にも記載されている。だが、これらの疑惑に対しては『郡斎読書志』も「未必然也(必ずしも事実とは言い切れない)」と記述するなど、懐疑的な見方も多く[注釈 8]、王鳴盛の『十七史商榷』では「丁儀・丁廙の2人はしょせん(曹植に取り入っただけの)巧佞の臣であって、どうして伝を立てることなどできようか」[注釈 9]「陳寿は晋に入って『諸葛亮集』を編纂し上表しており、諸葛亮伝にその目録と上表文を掲載している。史家の前例にないことであり、諸葛亮を非常に尊敬しているということだ」[注釈 10]「諸葛亮は6度も祁山に出征しながら、ついに一勝も収めなかった[注釈 11]。慎重を期した軍事であって進取には鈍いことがわかる。(応変の将略に欠けるとした陳寿の評は)普通に事実を述べただけだ」と批判している。ただし、曲筆の疑惑は現在でも消えた訳ではない。例えば魏の杜畿は非常に高く評価されているが、杜畿の孫の杜預を擁護するために過大評価をしたとする説がある[5]


また、陳寿が最終的に仕えた西晋に対しては、もっとも曲筆が目立つと指摘されている。その中でも最も批判を受けたのが高貴郷公殺害の経緯である。西晋に仕えたという立場上、その禅譲という正統性に対して重大な瑕疵を与えうるこの件に関して陳寿は隠蔽せざるを得ず、唐代の考証学者劉知幾は「記言の奸賊、戴筆の凶人」と罵倒し、「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と激しく糾弾した。


また、劉知幾『史通』曲筆篇は、「蜀志後主伝に『蜀には史官がいないから災祥も記録されなかった』とあるのに、蜀志には災祥が散見される。史官が設けられなかったのであれば、災祥は何によって記録されたのか? 陳寿が蜀の史官の存在を否定したことは私怨によるものである」と批判した。史官は国家に必須のものと考えられていた(『史通』史官建置篇)。劉知幾による陳寿批判の趣旨は、蜀には国家に必須のものが欠けていると私怨に基づいて述べたもの、ということである。


更に後世になると、蜀(蜀漢)を正統とする朱子学の影響から、魏を正統とした陳寿への非難も現れた。黄震『黄氏日抄』に至っては「どこの鬼魅だ、コソコソと史筆をもてあそび、賊を帝と呼び、帝を賊と呼んでいるのは」などと述べ、陳寿を鬼魅(化け物)と罵倒している。一方で朱彝尊『曝書亭集』のように「当時何人かの史家がいたが、ただ魏があるのを知るのみだった。陳寿のみ魏と呉・蜀(蜀漢)を並列し「三国」という名称に正したのは、魏が正統と言えないことを明らかにしたものだ」との意見もある。


さらに、蜀漢正統論に基づいて再構成された歴史書もぞろぞろと執筆された。南宋の蕭常、元の郝経、清の銭兆鵬の『続後漢書』、明の謝陛、清の湯世烈の『季漢書』などはいずれも蜀を本紀として、魏呉を世家や載記としている。紀伝体以外の書としては、元の趙居信の『蜀漢本末』、清の趙作羹の『季漢紀』などがある。


北宋の司馬光『資治通鑑』は、魏の年号を用いて編年しているが、正統論自体には極めて慎重であり「漢から魏、魏から晋…(以下北宋まで)の流れで引き継がれているので、これらの年号を採用して諸国の事績を記さざるを得ないだけであって、特定の国を尊んだり特定の国を卑しんだり正閏論について意見するつもりはない。」(巻六十九黄初二年条)と明言している。


断代史(王朝ごとの歴史書)形式にもかかわらず、袁紹、呂布、劉焉など後漢時代に没した人物の伝を立てていることについては、清の時代の趙翼が種々の歴史書について述べた『二十二史箚記』において「(袁紹等の)諸軍閥はみな曹操と並立して割拠しており、かつ曹操とお互い関わった事件が多い。だから魏書に伝を立て、(魏王朝についての)事績の叙述にあたりその建国の起源を明らかにしなければならないのだ。また、劉焉は劉璋の父で、彼が割拠した地は劉備が拠点とした。劉備の紀伝を作るには、まず劉璋について記述後、劉璋について記述するにはまず劉焉について記述しなければならないのだ。」とされ、董卓・荀彧らが『後漢書』に重複して伝が立てられている点については、「董卓らは皆漢末の臣であり、荀彧は曹操のために計略を立てはしたが、心はなお漢朝のためにあった。三国志に既に伝があるからといって、後漢書の立伝を省くことはできないのだ。」としている。ただし『後漢書』は陳寿の死後1世紀以上経って編纂されたものであるから、陳寿にはその記載に対して何の責任もない。また、杭世駿『諸史然疑』は、「魏史列伝の巻頭が董卓であるのは、(漢魏革命の原因である天下大乱の)元凶を明らかにしているのであり、漢書列伝の巻頭が項籍であるのと同じ意図である。」としている。一方で『四庫全書総目提要』は、魏の建国者の前代である曹操から記述を始めていることについて「史記の周・秦本紀の誤りを踏襲したもの」で、「『魏書前史』ともいえない(中途半端な)体裁となっている」と批判している。



内容



魏志(魏書)































































































巻数題名収録人物
巻1武帝紀
曹操
巻2文帝紀
曹丕
巻3明帝紀
曹叡
巻4三少帝紀
曹芳・曹髦・曹奐
巻5后妃伝
武宣卞皇后・文昭甄皇后・文徳郭皇后・明悼毛皇后・明元郭皇后
巻6董二袁劉伝
董卓・李傕・郭汜・張済・楊奉・袁紹・袁譚・袁尚・袁術・劉表
巻7呂布臧洪伝
呂布・張邈・臧洪
巻8二公孫陶四張伝
公孫瓚・陶謙・張楊・公孫度・公孫康・公孫恭・公孫淵・張燕・張繍・張魯
巻9諸夏侯曹伝
夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・曹休・曹真・曹爽・夏侯尚・夏侯玄
巻10荀彧荀攸賈詡伝
荀彧・荀攸・賈詡
巻11袁張涼国田王邴管伝
袁渙・張範・張承・涼茂・国淵・田疇・王修・邴原・管寧
巻12崔毛徐何邢司馬伝
崔琰・毛玠・徐奕・何夔・邢顒・鮑勛・司馬芝
巻13鍾繇華歆王朗伝
鍾繇・華歆・王朗・王粛
巻14程郭董劉蒋劉伝
程昱・郭嘉・董昭・劉曄・蒋済・劉放・孫資
巻15劉司馬梁張温賈伝
劉馥・司馬朗・梁習・張既・温恢・賈逵
巻16任蘇杜鄭倉伝
任峻・蘇則・杜畿・鄭渾・倉慈
巻17張楽于張徐伝
張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃・朱霊
巻18二李臧文呂許典二龐閻伝
李典・李通・臧覇・孫観・文聘・呂虔・許褚・典韋・龐悳・龐淯・閻温
巻19任城陳蕭王伝
曹彰・曹植・曹熊
巻20武文世王公伝
曹昂・曹鑠・曹沖・曹據・曹宇・曹林・曹袞・曹玹・曹峻・曹矩・曹幹・曹上・曹彪・曹勤・曹乗・曹整・曹京・曹均・曹棘・曹徽・曹茂・曹協・曹蕤・曹鑑・曹霖・曹礼・曹邕・曹貢・曹儼
巻21王衛二劉伝
王粲・衛覬・劉廙・劉劭・傅嘏
巻22桓二陳徐衛盧伝
桓階・陳羣・陳矯・徐宣・衛臻・盧毓
巻23和常楊杜趙裴伝
和洽・常林・楊俊・杜襲・趙儼・裴潜
巻24韓崔高孫王伝
韓曁・崔林・高柔・孫礼・王観
巻25辛毗楊阜高堂隆伝
辛毗・楊阜・高堂隆
巻26満田牽郭伝
満寵・田豫・牽招・郭淮
巻27徐胡二王伝
徐邈・胡質・王昶・王基
巻28王毌丘諸葛鄧鍾伝
王淩・毌丘倹・諸葛誕・文欽・唐咨・鄧艾・鍾会
巻29方技伝
華佗・杜夔・朱建平・周宣・管輅
巻30烏丸鮮卑東夷伝
烏丸・鮮卑・夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭


蜀志(蜀書)


















































巻数題名収録人物
巻31劉二牧伝
劉焉・劉璋
巻32先主伝
劉備
巻33後主伝
劉禅
巻34二主妃子伝
先主甘皇后、先主穆皇后、後主敬哀皇后、後主張皇后、先主子永、先主子理、後主太子璿
巻35諸葛亮伝
諸葛亮・諸葛瞻・董厥
巻36関張馬黄趙伝
関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲
巻37龐統法正伝
龐統・法正
巻38許糜孫簡伊秦伝
許靖・糜竺・孫乾・簡雍・伊籍・秦宓
巻39董劉馬陳董呂伝
董和・劉巴・馬良・馬謖・陳震・董允・陳祗・呂乂
巻40劉彭廖李劉魏楊伝
劉封・彭羕・廖立・李厳・劉琰・魏延・楊儀
巻41霍王向張楊費伝
霍峻・霍弋・羅憲・王連・向朗・向寵・張裔・楊洪・費詩
巻42杜周杜許孟来尹李譙郤伝
杜微・周羣・杜瓊・許慈・孟光・来敏・尹黙・李譔・譙周・郤正
巻43黄李呂馬王張伝
黄権・黄崇・李恢・呂凱・馬忠・王平・張嶷
巻44蒋琬費禕姜維伝
蒋琬・蒋斌・費禕・姜維
巻45鄧張宗楊伝
鄧芝・張翼・宗預・廖化・楊戯


呉志(呉書)

































































巻数題名収録人物
巻46孫破虜討逆伝
孫堅・孫策
巻47呉主伝
孫権
巻48三嗣主伝
孫亮・孫休・孫皓
巻49劉繇太史慈士燮伝
劉繇・太史慈・士燮
巻50妃嬪伝
呉夫人、謝夫人、徐夫人、歩夫人(歩皇后)、王夫人(大懿王皇后)、王夫人(敬懷王皇后)、潘夫人(潘皇后)、全夫人(全皇后)、朱夫人(朱皇后)、何姫(昭献何皇后)、滕夫人(滕皇后)
巻51宗室伝
孫静・孫賁・孫輔・孫翊・孫匡・孫韶・孫桓
巻52張顧諸葛步伝
張昭・張承・張休・顧雍・顧譚・諸葛瑾・歩騭
巻53張厳程闞薛伝
張紘・張玄・厳畯・程秉・闞沢・薛綜
巻54周瑜魯粛呂蒙伝
周瑜・魯粛・呂蒙
巻55程黄韓蒋周陳董甘淩徐潘丁伝
程普・黄蓋・韓当・蒋欽・周泰・陳武・董襲・甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉
巻56朱治朱然呂範朱桓伝
朱治・朱然・朱績・呂範・呂拠・朱桓・朱異
巻57虞陸張駱陸吾朱伝
虞翻・陸績・張温・駱統・陸瑁・吾粲・朱拠
巻58陸遜伝
陸遜・陸抗
巻59呉主五子伝
孫登・孫慮・孫和・孫覇・孫奮
巻60賀全呂周鍾離伝
賀斉・全琮・呂岱・周魴・鍾離牧
巻61潘濬陸凱伝
潘濬・陸凱
巻62是儀胡綜伝
是儀・胡綜
巻63呉範劉惇趙達伝
呉範・劉惇・趙達
巻64諸葛滕二孫濮陽伝
諸葛恪・滕胤・孫峻・留賛・孫綝・濮陽興
巻65王楼賀韋華伝
王蕃・楼玄・賀邵・韋昭・華覈


裴松之の注に引用された主要文献


以下は、裴松之が注釈で引用する文献である。引用文献の数については、趙翼は「およそ50余種」、銭大昕は「およそ140余種」、趙紹祖は「およそ180余種」、沈家本は「およそ210家」で、張子侠は227種とする。


  • 『異同雑語』 - 孫盛著。孫盛は東晋の人。異説集らしい。裴松之は「孫盛や習鑿歯(『漢晋春秋』・『襄陽記』の著者)は異同を捜し求めて漏洩なし」と評している。孫盛は人物評でもたびたび引用されている。話を盛り上げるために勝手に台詞を創作したと言われている。たとえば、曹操が呂伯奢の子供たちを誤って殺したあと、「寧ろ我れ人に負くも、人をして我れに負くこと毋からしめん(たとえ自分が他人を裏切ろうとも、他人が自分を裏切ることは許さない)」と言ったとあるのだが、この台詞は同じ事件を記録した先行文献(王沈らの『魏書』、郭頒の『世語』)には無く、本書で初めて現れている。高島俊男によると、台詞の創作や他の文献からの転用は、陳寿も含め多かれ少なかれ行っているという[6]が、孫盛は他の歴史家と比べてもそれが露骨であり、陳泰の発言では裴松之にも指摘されている。

  • 『英雄記』 - 王粲他編『漢末英雄記』のことらしい。後漢末の群雄について書かれている。

  • 『袁子』 - 袁準著。袁準は曹操らに仕えた袁渙の子。

  • 『益部耆旧伝』 - 陳寿著。益州の人物伝。陳寿によれば、陳術という人物も同名の著書を残しているが、陳術の著が使われているかは不明。

  • 『益部耆旧雑記』 - 陳寿著。益州の人物伝。『益部耆旧伝』 の付録らしい。

  • 『華陽国志』 - 常璩著。漢代から晋代までの巴・蜀の歴史。孟獲の「七縦七擒」の逸話など。現存する。

  • 『漢紀』 - 『後漢紀』とも。張璠著。張璠は東晋の人。

  • 『漢書』 - 華嶠著。華嶠は華歆の孫。後漢の歴史。皇后を本紀として扱ったのが特徴。

  • 『漢晋春秋』 - 習鑿歯著。習鑿歯は東晋の人。蜀漢正統論を説き、蜀漢から晋へ正統を続けている。後世に大きな影響を与えたが、手放しで蜀漢を絶賛しているわけではない。これは、統一政権を正統の第一条件としたためで、習鑿歯は孝武帝への上表で「蜀は正統だが弱かった」と評している。裴松之は「董允伝」の注で、後述の『襄陽記』と同じ記事でもニ書の内容に違いが有ったり、高官にあった人物をわざと官位を低く書いたりする内容があり、習鑿歯の記事にはいいかげんな部分があると評している。

  • 『魏氏春秋』 - 孫盛著。編年体の魏の歴史書。

  • 『魏書』 - 王沈・荀顗・阮籍編。魏の末期に成立したが、晋を建てることになる司馬一族におもねっているため、陳寿に劣ると言われている[7]。甄皇后の項目では、甄皇后は自殺を命じられたのではなく、文帝が甄皇后を皇后にしようとしたが病気を理由に辞退するうちに病死、皇后を追贈したと、明らかに事実と異なった記述をしているので裴松之から叩かれている。

  • 『記諸葛五事』 - 郭沖著。郭沖は魏・西晋の人。西晋の扶風王司馬駿の配下達が諸葛亮について討論した際、郭沖は五つの逸話を紹介して諸葛亮の美点を評価した。しかし、裴松之は郭沖の挙げた逸話について、ことごとく与太話としてこれを退けている。

  • 『魏都賦』 - 左思著。『三都賦』の一部。

  • 『魏武故事』 - 作者不明。魏の武帝(曹操)時代の政府の慣例・布告などを集めたものといわれている[7]

  • 『魏末伝』 - 作者不明。魏末期の事件を記す。曹氏に同情的。裴松之は「諸葛誕伝」の注で、同書の記述は「鄙陋(下品)」であり、歪曲があると批判している。

  • 『魏略』 - 魚豢著。『典略』の一部で、『魏略』は魏とその周囲の異民族を書き、『典略』は通史となっていて、魏以外の中国のできごとも扱っているらしい。中国の文献で大秦国(ローマ帝国)に言及した現存最古の文献でもある。劉知幾は内容の信憑性をあまり考慮せず何もかも記載しようとしていると批判しているが、高似孫は筆力があると評価している。

  • 『虞翻別伝』 - 作者不明。虞翻の伝記。引用の文に孫策・孫権と実名で記されているため、呉で著されたものではないとされるが[注釈 12]、三国時代に作られたものらしい。

  • 『献帝紀』 - 『隋書』に劉芳著とあるが、おそらく劉艾著。劉艾は後漢の人。ただし、献帝については途中までしか書かれていないらしい[7]

  • 『献帝伝』 - 作者不明。『献帝紀』を増補したものらしい。曹丕が献帝から禅譲を受けた際の家臣の上奏文と曹丕の返答が収録されている。禅譲の受諾を勧める上奏を何度も固辞して見せ、謙譲の徳を強調した上で初めて禅譲を実行した様子が分かる。

  • 『献帝春秋』 - 袁暐著。袁暐は張紘と共に呉に逃れた袁迪の孫、裴松之は厳しく批判している。

  • 『高貴郷公集』 - 曹髦著。詔勅、詩賦、自伝などの著作、発給文書集。

  • 『江表伝』 - 虞溥著。虞溥は西晋の人。江南の士人の伝記集。裴松之は「粗いが筋道は通っている」と評する。孫盛は赤壁の戦いでの劉備軍が(孫権軍を賛美するために)過小評価されていると批判している。

  • 『呉書』 - 韋昭著。呉朝廷公認の歴史書。韋昭は呉の太史令であった。完成しなかったようで、本書に依拠して書かれた陳寿の「呉書」にまでその影響が及んでいる。

  • 『呉歴』 - 胡沖著。呉の歴史書であり、全6巻で構成。胡沖は呉の胡綜の子で晋の人。

  • 『呉録』 - 張勃著。紀伝体で書かれた呉の歴史書であり、全30巻で構成。張勃は呉の張儼の子で晋の人。

  • 『後漢紀』 - 『漢紀』とも。袁宏著。袁宏は東晋の人。禅譲を批判し、間接的に蜀漢正統論を採る。現存する。

  • 『後漢書』 - 謝承著。謝承は呉の孫権の夫人謝氏の弟。紀伝体の後漢を扱った歴史書では、最も早く作られたという[7]

  • 『山陽公載記』 - 楽資著。山陽公とは献帝のこと。楽資は西晋の著作郎、裴松之は厳しく批判する一方で蜀書と魏書の正誤を判断するのに用いている。

  • 『荀氏家伝』 - 荀伯子著。荀伯子は南朝宋の人で、荀彧の7世の孫。潁川荀氏の家伝。家伝とは祖先を顕彰する目的で書かれた伝記で、当時盛んに作られた。

  • 『襄陽記』 - 習鑿歯著。襄陽(湖北省襄陽市)の人物伝。張悌が魏の蜀漢出兵と、司馬氏の簒奪の成功を予測した話など。

  • 『諸葛亮集』 - 陳寿編。『諸葛氏集』とも。諸葛亮の書簡・発給文書集。

  • 『蜀記』 - 王隠著。王隠は東晋の人。蜀漢の歴史。裴松之は『蜀記』の引く話は作り話が多いと厳しく非難している。

  • 『続漢書』 - 司馬彪著。司馬彪は、司馬懿の弟である司馬進の孫。後漢の歴史。志のみ、正史『後漢書』に付されて現存。

  • 『志林』 - 虞喜著。虞喜は東晋の人。呉の歴史や民話が記されている。

  • 『晋紀』 - 干宝著。干宝は東晋の人。紀伝体で書かれた西晋の歴史。『晋記』とも。

  • 『晋書』 - 王隠著。父の王銓から親子2代にわたる著作。王隠は東晋の著作郎。西晋の歴史。正史『晋書』とは別。同じく西晋の歴史を書こうとした虞預は、王隠の原稿を借り受け、勝手に写し取った上、王隠を陥れ免職にさせた。王隠は庾亮から紙筆の提供を受け、やっと完成させたという。正史『晋書』では「見るべき内容は全て父の編纂したところで、文体が乱雑で意味不明なところは隠の作である」と評されている。

  • 『晋書』 - 虞預著。虞預は東晋の人。前出の通り、王隠の著書の盗作疑惑がある[7]

  • 『捜神記』 - 干宝著。志怪小説集。現在の小説とは違い、本当にあった不思議な話という姿勢で書かれている。于吉が孫策をたたり殺した話など。現存のものは後世の話が混じっている。

  • 『世語』 - 郭頒撰の『魏晋世語』のこと。裴松之によれば、内容に多少問題があるが、たまに変わった記事があるので、よく世間で読まれており、孫盛・干宝らもこの書から多く採録している。

  • 『曹瞞伝』 - 作者不明だが、呉の人という。曹操の悪行集といえる内容だが、後世の人にはむしろ痛快といえる逸話もある。信憑性はともかく、『演義』にも大いに取り入れられている。

  • 『趙雲別伝』 - 作者不明。趙雲の伝記。陳寿の本文と区別するため「別」伝と表記している。演義で描かれる趙雲の活躍は、多くを本書に拠っている。後漢末から東晋にかけて、子孫や弟子などによる編纂の個人の伝記が流行した。

  • 『典論』 - 曹丕著。文学論、自伝、人物評論など。中国における文芸評論のさきがけで、文学の地位を高めた「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」の一文で知られる。

  • 『傅子』 - 傅玄著。傅玄は魏・西晋の人。思想・歴史評論。魏の記事が多く、親司馬氏の立場から、司馬氏と対立した人士を批判している。

  • 『弁亡論』 - 陸機著。陸機は呉・西晋の人で、陸遜の孫。父祖と故国である呉の功績を顕彰しつつ、呉が滅んだ理由を論じている。

  • 『黙記』 - 張儼著。張儼は呉の人。諸葛亮を高く評価した評論など。諸葛亮が2度目に上表した「後出師表」(後人の偽作説が有力)の出典とされる[要出典]

  • 『零陵先賢伝』 - 作者不明。零陵(湖南省零陵県)の人物伝。劉巴が張飛を完全に無視した話など。蜀漢に厳しく、漢室復興の立場から、劉備の皇帝即位を批判している。


日本語訳


  • 『正史 三国志』 陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子・小南一郎訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉全8巻、1992年 - 1993年

    • ISBN 4-480-08041-4 (1巻)魏書I


    • ISBN 4-480-08042-2 (2巻)魏書II


    • ISBN 4-480-08043-0 (3巻)魏書III


    • ISBN 4-480-08044-9 (4巻)魏書IV


    • ISBN 4-480-08045-7 (5巻)蜀書


    • ISBN 4-480-08046-5 (6巻)呉書I


    • ISBN 4-480-08088-0 (7巻)呉書II


    • ISBN 4-480-08089-9 (8巻)呉書III


  • 元版は、『世界古典文学全集 24 三国志』(筑摩書房)。A1977年、B1982年、C1989年、復刊2005年


『三国志』と『三国志演義』



後に講談などから発展して成立した通俗小説が『三国志演義』である。この『三国志演義』が日本では「三国志」という名称で流布し、また作家吉川英治が演義を元にして著した小説『三国志』があまりにも有名になったため、日本の三国志愛好家の間では、


  • 歴史書の方を『正史』

  • 『三国志演義』やそれにもとづいた文学作品を『演義』

と呼び分けることが通例である。


中国においては、


  • 歴史書の方を『三国志』

  • 『三国志演義』やそれにもとづいた文学作品を『三国演義』

と、新中国成立後に呼び名を統一されており、日本におけるような呼び名の混乱のケースはほぼ無い。



注釈




  1. ^ 『魏書』「匈奴劉聡伝」などで三国時代に触れた記述では魏を正統としており、孫権を「偽孫」、劉備を「僭劉」と呼び罵倒している。これは北魏が魏・西晋(東晋は「僭晋」と呼び否定している)を継承した国家であることのアピールである。


  2. ^ 筑摩書房版の解説によれば、それぞれの君主の死を表現する言葉でも魏の武帝、文帝、明帝の場合には実名を書かず、亡くなった場所を書いた上で「崩ず」と書いているのに対し、呉の場合は「(孫)権薨ず」「(孫)休薨ず」といった具合に実名表記・場所不表記・臣下でも使われる表現を用いることによって差をつけている。その一方で劉備の場合は「先主は永安宮に殂す」という崩よりは劣るものの、呉よりは敬意を尽くした表現をする事によって制限の中で敬意を表している。


  3. ^ たとえば、192年に南方で区連が後漢に反旗を翻し、林邑を建国した。子孫は呉に朝貢したが、『三国志』では呂岱伝で朝貢があったとさらりと触れられているだけである。一方、『晋書』では「四夷伝」に林邑の項目があり、そこで触れられている。


  4. ^ 呉の朝貢について本紀にあたる孫権伝に記載がなく、列伝で表記されているので陳寿が配慮した可能性がある。


  5. ^ 陳澧『東塾読書記』「論三国」では、史料の少ない蜀(蜀漢)が見劣りするので全体の量を削ったと推測している。


  6. ^ たとえば、曹奐の伝記である「陳留王紀」は、執筆時に曹奐が存命中だったので晋に禅譲したところで記事が終わっている。裴松之の注では、曹奐の没年と諡(元皇帝)が補われている。


  7. ^ 陳寿の『呉志』の部分に関しては、韋昭の『呉書』を参照して書かれたとの指摘がある。


  8. ^ 丁儀・丁の子については、丁一族の男子が曹丕に族誅させられてしまっているため、存在が疑わしい。


  9. ^ ただし丁儀は曹操から高く評価され、またその死を世が惜しんだとされる。また『魏略』には彼の伝が立てられていたという。


  10. ^ ただし陳寿が『諸葛亮集』を撰したのは張華、荀勗らの命令によるものであり尊敬の傍証になるのか疑問があるとする説もある。


  11. ^ 陳寿の『三国志』によれば、諸葛亮が祁山に出たのは2度であり、北伐自体も5度である。また諸葛亮は王双・張郃を討ち取ったり、陳式とともに武都・陰平の2郡を平定するなど、魏に対してある程度の勝利を収めたことはある。ただし王双・張郃を討ち取ったのはいずれも撤退戦においてである。また『漢晋春秋』には局地的に司馬懿に勝利したと書かれている。


  12. ^ ただし、裴松之注では蜀漢・呉側の文献も魏晋正統の前提で表記を改変したものがある(呉の文献である『曹瞞伝』の引用にもかかわらず、曹操を「太祖」と表記しているなど)。



出典




  1. ^ 東晋の常璩『華陽国志』巻11・後賢志の陳寿伝に、「呉平後、(陳)寿乃鳩合三国史、著魏・呉・蜀三書六十五篇、号『三国志』」とある。


  2. ^ 高田時雄「李滂と白堅」(敦煌写本研究年報 2007)は日本国内の某財団図書館に秘匿されていると主張している。


  3. ^ 郭沫若「新疆新出土的晋人写本《三国志》残巻」(文物 1972-2)


  4. ^ 『旧唐書』経籍志および『新唐書』芸文志より。


  5. ^ 陳寿の処世と『三国志』 - 『駒沢史学』2011年3月号 田中靖彦


  6. ^ 高島『三国志 きらめく群像』 pp.394-398

  7. ^ abcde筑摩書房刊・正史三国志8



関連項目





  • 三国志 - 正史、演義の派生を含めた概説

  • 季漢輔臣賛

  • 三国志 (曖昧さ回避)

  • 三国志演義


外部リンク



  • 《三国志》目録(二校)(原文、簡体字版)


  • ちくま訂正表(ちくま学芸文庫版の訳文の誤りを指摘)

  • 三国志、全文検索(キーワードカウントも可能/日本語)


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