ルイ6世 (フランス王)
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ルイ6世 Louis VI | |
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フランス国王 | |
在位 | 1108年 - 1137年 |
戴冠 | 1108年8月3日 |
出生 | 1081年12月1日 フランス王国、パリ |
死去 | (1137-08-01) 1137年8月1日(55歳没) フランス王国、ベティシー=サン=ピエール |
埋葬 | フランス王国、サン=ドニ大聖堂 |
配偶者 | リュシエンヌ・ド・ロシュフォール |
アデル・ド・サヴォワ | |
子女 | 後述 |
王家 | カペー家 |
王朝 | カペー朝 |
父親 | フィリップ1世 |
母親 | ベルト・ド・オランド |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
ルイ6世(Louis VI, 1081年12月1日 - 1137年8月1日)は、フランス・カペー朝の第5代国王(在位:1108年 - 1137年)。第4代国王フィリップ1世と最初の王妃ベルト・ド・オランドの子。肥満王(le Gros)または戦争王(le Batailleur)と呼ばれた[1]。
強力なイングランド王ヘンリー1世、ローマ皇帝ハインリヒ5世に挟まれながらフランス王権の防衛に努めた。
目次
1 生涯
2 子女
3 脚注
4 参考文献
生涯
父フィリップ1世は1092年にルイの母ベルトと離婚し、有夫の身であったベルトラード・ド・モンフォールと再婚したが、これを巡ってローマ教皇ウルバヌス2世と対立し、破門を受けて権威を失った。そのため、ルイは王になる前から国の実権を握っていた。王太子時代の1104年、リュシエンヌ・ド・ロシュフォールと結婚したが子に恵まれず、1107年に離婚した。1108年、父の死により王位に即いた。ルイ6世はフランス諸侯の反乱に苦しめられたが、幼少時からの親友であるシュジェール(聖職者で、サン=ドニ大修道院院長)を政治顧問として重用し、宗教政策による諸侯の統率、父の代から対立するイングランドとの交渉などを行なって、国内の安定化に努めた。
しかし諸侯の統率は今ひとつまとまっていなかったため、時のローマ皇帝ハインリヒ5世の侵攻を受ける。フランスは危機に陥ったが、シュジェールは聖ドニの軍旗である「オリフラム」を掲げることで、信仰心ということからフランスの諸侯を参集させてまとめ上げ、これを撃退することに成功した。また、シュジェール主導のもと、修道院改革なども行なわれている。
1137年、2番目の妻アデル・ド・サヴォワとの間の次男で、早世した長男フィリップに代わって1131年から共同王位についていたルイ7世(若年王)と、南フランスに広大な領土を占めるアキテーヌ公領の相続人エレアノール(アリエノール)との婚姻を決めた後、死去した。
子女
王妃アデル・ド・サヴォワとの間に以下の子女がいる[2]。
フィリップ(1116年 - 1131年) - フランス共同王
ルイ7世(1120年 - 1180年) - フランス王- アンリ(1121年 - 1175年) - ランス大司教
ロベール1世(1123年 - 1188年) - ドルー伯、ブルターニュ公家の祖
コンスタンス(1124年 - 1176年) - ブローニュ伯ウスタシュ4世と結婚、のち、トゥールーズ伯レーモン5世と再婚- フィリップ(1125年 - 1161年)
ピエール1世(1126年 - 1180年) - クルトネー領主、ラテン皇帝家祖
脚注
^ 『ブルーガイドわがまま歩き フランス』 2015, p. 144.
^ Jiří Louda、Michael Maclagan、Lines of Succession、Little、Brown & Company、1981. p.125
参考文献
- ブルーガイド編集部編 『ブルーガイドわがまま歩き フランス』 実業之日本社、2015年。ISBN 978-4-408-06006-4。
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