孝文帝
孝文帝 拓跋宏 | |
---|---|
北魏 | |
第6代皇帝 | |
王朝 | 北魏 |
在位期間 | 471年9月20日 - 499年4月26日 |
都城 | 平城 洛陽 |
姓・諱 | 拓跋宏 元宏 |
諡号 | 孝文皇帝 |
廟号 | 高祖 |
生年 | 皇興元年8月29日 (467年10月13日) |
没年 | 太和23年4月1日 (499年4月26日) |
父 | 献文帝(長子) |
母 | 李夫人 |
后妃 | 廃皇后馮氏 幽皇后馮氏 |
陵墓 | 長陵 |
年号 | 延興 : 471年 - 476年 承明 : 476年 太和 : 477年 - 499年 |
孝文帝(こうぶんてい、467年10月13日 - 499年4月26日[1])は、北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月20日 - 499年4月26日)。諱は宏。孝文帝の時代に北魏宗室の姓は拓跋から元に改められた。
目次
1 経歴
1.1 生まれ
1.2 在位前半
1.3 親政
2 孝文帝の評価
3 宗室
3.1 后妃
3.2 男子
3.3 女子
4 脚注
経歴
生まれ
孝文帝は第5代皇帝・献文帝の長男に当たる。471年、父の献文帝がその養母に当たる馮太后(文明皇后)と対立し、これに敗れて馮太后から譲位を迫られたため、父に代わって即位することとなった。なお、北魏では外戚の専横を避けるために、皇太子をたてた場合、その生母が殺されることが常であったため(子貴母死)、孝文帝の生母である李氏も、469年に自殺させられており、太后と献文帝の対立の直接の原因となっている。なお、レビラト婚により、孝文帝の実母が馮太后であるという説が当時から存在している[2]。
在位前半
馮太后は献文帝の治世時から実権を掌握し、垂簾政治を布いていたが、献文帝を退けて孝文帝を即位させた時は、孝文帝はまだ5歳という幼児であり、引き続いて垂簾を布いた。これは太后の死まで続く。馮太后は政治的な手腕は一流であり、反乱を治め、班禄制や三長制や均田制などの諸改革を実施し、また中央財政(公調)と地方財政(調外)を分離[3]するなど、北魏の中央集権化に務めるなど数々の治績を挙げた。
馮太后は490年に死去した。その時の孝文帝の悲しみようは尋常のものではなく、5日は悲しみのあまり食事を取らず、4ヶ月の間、政務を取らなかったと言う。このことから、馮太后は、実は孝文帝の実母ではないかと疑う説も出た(文成文明皇后#母子説)。
親政
その後、孝文帝による親政が開始された。基本的に馮太后の路線を引き継ぎ、中央集権と漢化を目指すものである。
まず、493年には平城(現在の大同)から洛陽への遷都を強行した。この時に孝文帝は反対のあることを予期して、斉への遠征であるとして洛陽に至った。そこで諸将から南征を諌められるが、それに従う代わりの交換条件と言う名目を持って遷都を実行した。
鮮卑の姓を漢風に改めるように決め、国姓を拓跋から元に改姓して、臣下たちに対しても半ば強制的に漢風の姓を与えた。他にも鮮卑語などの鮮卑の習俗の禁止・鮮卑的な官名の排除、鮮卑の漢化政策を推し進めた。
さらに漢人の名族の格付けを行い、同様に鮮卑族の貴族の中でも格付けを行った。この中で通婚を行って鮮卑と漢人の融和、鮮卑族の漢人社会における名族としての位置づけを行った。さらに九品官人法の部分的な導入により、南朝を模した北朝貴族制を成立させた。
499年、33歳で崩御した。北魏は孝文帝の時代が全盛期と評される。
孝文帝の評価
孝文帝は馮太后が手がけた改革を継承し、より一層の漢化政策を推進した。その結果、北魏はそれまでの遊牧民を中心とした国家体制から、より普遍的な国家体制へと変貌を遂げ、後の隋による中国の再統一への大きな足がかりとなった。
だがその一方で、急激な漢化政策の推進が、支配者層であった鮮卑の不満を引き起こすことにもなった。496年には旧都・平城で反乱が勃発し、長男で皇太子であった元恂もこれに参加していた。反乱は短期間で鎮圧され、孝文帝は元恂を廃嫡した上で誅殺した。しかし、この後も不満は消えず、孝文帝の死後に六鎮の乱と北魏の分裂を招くことになる。
宗室
后妃
- 廃皇后馮氏
- 幽皇后馮氏
- 昭儀馮氏、左昭儀馮氏
林貴人 - 貞皇后と追号されたが、その後に庶人へ追廃された。
高照容(高貴人) - 文昭皇后と追号された。- 貴人袁氏、夫人羅氏
- 嬪盧氏、嬪崔氏、嬪王氏、嬪韋氏、充華嬪鄭氏、充華嬪趙氏
男子
- 廃太子 元恂(母は林皇后)
- 世宗宣武帝 元恪(母は高貴人)
- 京兆王 元愉‐西魏文帝の父、幼主の祖父
- 清河王 元懌‐東魏孝静帝の祖父
- 広平王 元懐‐孝武帝の父
- 汝南王 元悦
- 元恌
女子
- 済南長公主(盧道虔の妻)
- 義陽長公主(盧元聿の妻)
- 順陽長公主(馮穆の妻)
- 長楽長公主 元瑛(末女,高猛の妻)
- 蘭陵長公主 (次女)
- 淮陽長公主(四女,乙弗皇后の母)
脚注
^ 『魏書』高祖紀
^ 川本芳昭、講談社『中国の歴史』第5巻、P. 231
^ 前漢以来、地方で集められた租税は支配戸数に1戸あたりの定額を掛けることで定められた貢納額のみを中央政府に送り、残りは多少に関わらず地方の役所に蓄積・支出されていた。調外の設定は地方の州郡が使える制限を設けたもので、財政の中央集権という点では画期的な規定であった(渡邊信一郎『中國古代の財政と國家』(汲古書院、2010年)第9章「北魏の財政構造」(原論文発表2002年))
|