前田利嗣
前田利嗣 | |
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前田利嗣 | |
生年月日 | (1858-05-31) 1858年5月31日 |
没年月日 | (1900-06-14) 1900年6月14日(42歳没) |
称号 | 従二位勲二等侯爵 |
配偶者 | 前田宣 前田朗子 |
親族 | 前田利為(養嗣子) |
貴族院議員 | |
選挙区 | 侯爵議員 |
在任期間 | 1890年2月 - 1900年6月14日 |
前田 利嗣(まえだ としつぐ、安政5年4月19日(1858年5月31日) - 1900年(明治33年)6月14日)は、加賀前田家第15代当主。字は推永、号は育峰。
目次
1 生涯
2 栄典
3 親族
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
生涯
当時加賀藩世子だった前田慶寧(第14代藩主)の長男として生まれる。幼名は多慶丸。明治2年(1869年)に父慶寧に代わって上洛し、参内して従四位下左近衛権少将兼筑前守に叙せられた[1]。明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員としてイギリスに留学した。1884年(明治17年)、授産のために石川県士族を札幌県岩内郡に入植させた(後の前田村)。1890年(明治23年)の貴族院設立に伴って同院の侯爵議員となり、主猟官、麝香間祗候を歴任した。1891年(明治24年)10月に尾山神社で行われた金沢城修築三百年祭の祭典に出席している。1895年(明治28年)、石狩平野の西部に農場を作り、これが札幌市前田の起こりとなった。1900年(明治33年)に42歳で死去。家督は婿養子となる前田利為が嗣いだ。
明治12年(1879年)には、石川・富山両県の子弟の学費を援助する育英事業団体「加越能育英社」の設立にあたり、2000円(現在の3300万円余)を寄付した[2]。
栄典
1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[3]
1887年(明治20年)
12月24日 - 従三位[4]
12月27日 - 金製黄綬褒章[5]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
1897年(明治30年)7月2日 - 正三位[7]
親族
- 父:前田慶寧(加賀藩第14代藩主)
- 母:扶伝(梃秀院)
- 先妻:前田宣 - 松浦詮の長女
- 後妻:前田朗子(さえこ) - 鍋島直大の長女
- 長女:前田渼子(なみこ) - 前田利為夫人
- 婿養子:前田利為 - 前田利昭の五男
脚注
^ 石川県史 第二編 第五章 加賀藩治終末期 第九節 版籍奉還 慶寧の入朝と利嗣の任官
^ 加越能育英社と石川富山明倫学館の功労者石川富山明倫学館
^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
^ 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
^ 『官報』第4200号「叙任及辞令」1897年7月3日。
関連項目
鎌倉文学館 - 当初は利嗣の別邸として建設された。
汽車製造 - 出資者の一人。
外部リンク
- 2.前田の基礎をつくった大農場/札幌市手稲区
- 育峰前田利嗣、行書十四字
日本の爵位 | ||
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先代: 叙爵 | 侯爵 (加賀)前田家初代 1884年 - 1900年 | 次代: 前田利為 |
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