ケニア
- ケニア共和国
Jamhuri ya Kenya(スワヒリ語)
Republic of Kenya (英語)(国旗) (国章) - 国の標語:Harambee
(スワヒリ語: "共に働こう")
国歌:おお、万物の神よ
Ee Mungu Nguvu Yetu
Oh God of All Creation
公用語
スワヒリ語 英語
首都
ナイロビ最大の都市 ナイロビ - 政府
大統領
ウフル・ケニヤッタ
首相なし 2013年廃止 - 面積
総計
580,367km2(49位)水面積率 1.9% - 人口
総計(2014年)
45,010,056人(31位)
人口密度77.6人/km2
GDP(自国通貨表示)合計(2013年) 4兆7,500億[1]ケニア・シリング - GDP (MER)
合計(2013年) 532億[1]ドル(???位) - GDP (PPP)
合計(2013年) 799億ドル(82位) 1人あたり 1,800ドル
独立
- 日付
イギリスから
1963年12月12日
通貨
ケニア・シリング (KES)
時間帯
UTC (+3)(DST:なし)
ISO 3166-1KE / KEN
ccTLD
.ke
国際電話番号254
ケニア共和国(ケニアきょうわこく)、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリアと国境を接し、南東はインド洋に面する。首都はナイロビ。
首都ナイロビには国際連合環境計画、国際連合人間居住計画の本部がある。旧イギリス植民地。
目次
1 国名
2 歴史
2.1 クシ語系の民族移動
2.2 バンツー系の民族移動
2.3 アラブの進出とスワヒリ文明の勃興
2.4 オマーン帝国
2.5 イギリスの進出
2.6 政治運動の始まり
2.7 マウマウ団の乱
2.8 独立・ケニヤッタ政権
2.9 モイ政権
2.10 キバキ政権
2.11 ケニア危機
2.12 東アフリカ大旱魃
2.13 ウフル・ケニヤッタ政権
3 政治
4 国際関係
4.1 日本との関係
5 地方行政区分
5.1 2013年以前の行政区分
5.2 主要都市
6 地理
6.1 国立公園・国立保護区
7 経済
7.1 鉱業
7.2 貿易
7.2.1 日本との貿易
8 国民
8.1 人口
8.2 民族
8.3 言語
8.3.1 公用語・国語
8.3.2 民族語
8.3.3 シェン
8.4 宗教
8.5 教育
9 文化
9.1 文学
9.2 世界遺産
9.3 祝祭日
9.4 スポーツ
10 ゆかりの人物
10.1 出身者
10.2 バラク・オバマ
11 注釈
12 出典
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク
国名
正式名称はスワヒリ語で Jamhuri ya Kenya(発音 [ʄɑmˈhuˑrijaˈkɛɲɑ] ジャムフリ・ヤ・ケニャ)、英語では Republic of Kenya(発音: [rɪˈpʌb·lɪk əv ˈken.jə] リパブリック・オヴ・ケンニャ)。
日本語での表記はケニア共和国。通称「ケニア」。「ケニヤ」とも表記する。
国名はケニア山に由来する。
歴史
クシ語系の民族移動
紀元前2000年ごろに北アフリカからケニア地域へクシ語系の民族移動が行われた。
バンツー系の民族移動
紀元前1000年までに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した(en:Bantu expansion)。
アラブの進出とスワヒリ文明の勃興
7、8世紀頃には、アラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。10世紀までにケニア沿岸部には、バンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え始めた。1418年頃に明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。
オマーン帝国
1828年にはオマーン帝国のスルタン・サイイド・サイードがモンバサを攻略した。
イギリスの進出
19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888年には沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社 (IBEA) により統治されるようになった。1895年にイギリス領東アフリカが成立。1895年‐1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1896年のアングロ=ザンジバル戦争で敗れたスルタンがザンジバル・スルタン国(en:Sultanate of Zanzibar、1856年 - 1964年)に根拠地を移した。1902年、ウガンダもイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。1920年には直轄のケニア植民地となる。
政治運動の始まり
1921年6月10日、ハリー・トゥクーによってキクユ青年協会(YKA)が設立され、政治運動が始まった。1924年にYKAの政治活動が禁止されると、en:James Beauttahらによってキクユ中央協会(KCA)が結成された。
1940年に第二次世界大戦のアフリカ戦線の戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。後にマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたからである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟(Kenya African Study Union、KASU)が設立され、1947年にジョモ・ケニヤッタが加わりケニア・アフリカ同盟(KAU)に改組された。
マウマウ団の乱
1952-56年ケニア土地自由軍(KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、グレンデールのホウィック男爵の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952-1959)であった。
独立・ケニヤッタ政権
反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にKADUが結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ二つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、James Gichuru、ジャラモギ・オギンガ・オディンガ、トム・ムボヤが率いるKANUが主導となる。
1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中にアフリカ社会主義を掲げて親ソの姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。後にKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタの下でケニアは経済的に成長を遂げた。
モイ政権
1978年のケニヤッタ死去後、ダニエル・アラップ・モイが第2代大統領に就任した。1982年8月、空軍クーデター未遂事件が起きた。
1991年に複数政党制を導入。ムワイ・キバキは、KANUを飛び出して民主党(DP)を結成。2000年、モイがケニヤッタの息子、ウフル・ケニヤッタをKANUの後継者とし、en:The National Allianceと改組された。
1998年8月7日には首都ナイロビの在ケニアアメリカ合衆国大使館がアルカーイダによって攻撃されるアメリカ大使館爆破事件が発生し、数千名の死傷者を出した。
キバキ政権
2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織「国民虹の連合」(NARC)が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。しかし、キバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族であるキクユ人優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(後にODMに発展)に分裂する。改革派の中心は、ライラ・オディンガであった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月に議会で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に国民投票を行ったが、改正案は国民投票により否決され、ムワイ・キバキ大統領は閣僚の交代をよぎなくされた。
ケニア危機
そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎討ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムやリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。
1月に行われた国連のアナンによる調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する(2007年-2008年のケニア危機)。
連合政権は、その後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日に国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化等、より制度的な民主化を促進するとみられる(ケニア共和国憲法 (2010年)、en:Constitution of Kenya、en:Kenyan constitutional referendum, 2010)。
東アフリカ大旱魃
ウフル・ケニヤッタ政権
2013年3月の大統領選挙でウフル・ケニヤッタが当選、4月に就任。2013年9月21日にケニアショッピングモール襲撃事件が発生し、ソマリアで活動していたアル・シャバブが犯行声明を出した。
2017年8月の大統領選挙でケニヤッタが再選されたが、最高裁はこれを無効とした。これはアフリカで選挙結果が法的に無効にされた初めてのケース[2]。同年10月にやり直しの大統領選挙が執行されたが、野党候補のライラ・オディンガがボイコットしたためケニヤッタが圧倒的多数で再選された。
政治
大統領制をとる。議会は224議席、任期5年、一院制の国民議会(en:National Assembly (Kenya))から成っていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。
初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟 (Kenya African National Union, KANU) が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より複数政党制が導入された。
国際関係
日本との関係
- 在日ケニア大使館汚職事件 - 2009年に大使館用地購入を巡る汚職疑惑事件が起こり、翌年、Moses Wetangula外務大臣が辞任した(のちに復職)。日本政府から好立地で無料の大使館用地の提示があったにも関わらず、目黒区の敷地を大使館用地として市井価格より高い金額で現金購入したことが問題となった[3][4]。
地方行政区分
2010年の国民投票により新憲法が制定され、独立以来続いてきた州を基本とする中央政府主導の国家体制から47のカウンティ(County:日本のイメージで「県」)を地方行政の単位とすることが決定された(地方分権化)。2013年3月に行われた総選挙[注釈 1]の後にカウンティ政府が設立された。カウンティ政府には中央から多くの権限が委譲され、必要な予算・職員も従来の地方行政区や中央から配置・配転された[5]。
カウンティ政府法[注釈 2]によって各カウンティの下にはサブ・カウンティ(sub-county)、区(ward)、村(village)などの下位行政区分が設置されている。サブ・カウンティは国会議員(290名)を選出するための選挙区(constituency)に対応している。
2013年以前の行政区分
新憲法施行以前の行政区分は州 (Mikoa, Province) が設置されていた。
主要都市
主要な都市はナイロビ(首都)、モンバサ、キスムがある。
地理
ケニアの首都、ナイロビはマサイ族の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビはカヤツリグサが茂る沼地に位置する。ケニアは赤道直下に位置しており、インド洋やヴィクトリア湖沿岸は年間平均気温が26℃の熱帯性気候である。しかし、国土の大部分は、標高1100m - 1800mの高原となっているため年間平均気温が19℃の乾燥した高原サバンナ地帯となっている。11月から3月にかけては北東モンスーン、5月から9月には南東モンスーンと呼ばれる季節風が吹く。最高地点は赤道が通るケニア山(標高5199m)。
エチオピアからタンザニアにかけて西部を走る大地溝帯は大地を切り裂いた壮大な地質形態でリフト・バレーと呼ばれる。北からトゥルカナ湖・ナクル湖・ナイバシャ湖・マガディ湖等が並ぶ。
国立公園・国立保護区
- アンボセリ国立公園
- アバデア国立公園
- 海洋国立公園
- ケニア山国立公園
- サンブル国立保護区
- ツァボ国立公園
トゥルカナ湖国立公園群(シビロイ国立公園、セントラル・アイランド国立公園、サウス・アイランド国立公園)- ナイロビ国立公園
- ナクル湖国立公園
- ヘルズ・ゲート国立公園
- マサイマラ国立保護区
- シンバヒルズ国立保護区
経済
ケニアの主要産業は農業であり、GDPの約30%を占めている[6]。また、農業部門はケニアの輸出総額の65%を占めている[7]。
農業部門は雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たしており、正規雇用に占める割合は約18%(2005年)ほどであるが[7]、労働力人口全体(1,891万人)で見ると70.6%(1,335万人)が農業に従事している(2010年)[8]。さらにケニアの人口の約8割の人々が農業によって生計を立てている。
工業化は他のアフリカ諸国と比べると比較的進んでおり、特に製造業の発展が著しい。紅茶、花卉の輸出増が近年著しい。自然条件(起伏にとんだ国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成により欧州連合(EU)向け花卉の最大の供給源である[9]。
独立以来資本主義体制を堅持し、東アフリカではもっとも経済の発達した国となった。しかし、政情不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱える。2007年の経済成長率は約7%、2008年は国内混乱の影響で成長率は低迷したが、2009-2010年は4-5%の成長に戻った。
ナイロビは東アフリカの通信・金融・交通の中心都市であり、モンバサは東アフリカ最大の港であり内陸部への重要な入り口である。1999年にタンザニア・ウガンダと共に地域経済の発展のため、関税、人の移動、インフラの向上を目指した東アフリカ共同体(EAC)を形成した(後にルワンダ、ブルンジが参加)。2004年には関税同盟を確立し、2010年にはEACの共同市場化が発足し、2012年までの自由化と共通通貨の達成を目標としていた。
LAPSSETはインド洋のラム港とエチオピア・南スーダンを結び北部開発を目的とするインフラ計画である。
鉱業
ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源はソーダ灰、塩、マグネシウム鉱物、蛍石、石灰岩、金である。経済産業調査会の鉱業便覧によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。塩9.2万トン、金16kg、蛍石10万トン、採掘後、工場で加工されたソーダ灰24万トンも記録されている。2004年時点では塩が1.9万トンに減少、その他の鉱物は記録されていない。唯一、金の産出量が1.6トンに拡大している。主な金鉱山は南西部のグリーンストーン帯に分布する。金の採掘は機械化されておらず手工業の段階に留まっている。
現在石油は100%輸入に頼っているが近年探査が進み発見されており、その生産開発が検討されている。また、大地溝帯が南北に貫くナイロビ西方では地下の地熱を開発中で日本企業も参加している。
貿易
2012年のケニアの貿易額は、輸出額が51億6900万ドル、輸入額が120億9300万ドルである(69億2400万ドルの貿易赤字)[10]。
- 主要な輸出品:紅茶(輸出額全体の21.1%)、園芸作物(16.9%)、コーヒー(4.6%)、衣料品・アクセサリー(4.3%)、たばこ・同製造品(3.5%)
- 輸入品:産業用機械、自動車、原油、鉄
- 主要な輸出先:ウガンダ(輸出額全体の13.0%)、タンザニア(8.9%)、英国(7.8%)、オランダ(6.0%)、アラブ首長国連邦(5.5%)
- 主要な輸入先:インド(14.2%)、中国(12.2%)、アラブ首長国連邦(10.9%)、サウジアラビア(4.9%)、米国(4.8%)
日本との貿易
対日輸出額は4600万ドル、対日輸入額は9億1100万ドルである[10]。
- 主要な輸出品:植物性原料(34.4%)、コーヒー・茶・香辛料(27.7%)、加工食品(19.3%)
- 主要な輸入品:輸送機器(59.5%)、鉄鋼(19.5%)、一般機械(9.8%)
国民
人口
2009年の国勢調査によると、ケニアの総人口は38,610,097人(男性:19,192,458人,女性:19,417,639人)である[11]。また、CIAワールドファクトブックによる推計では2014年7月時点の総人口は45,010,056人である[12]。
民族
ケニアの主要な民族の人口は、以下の表の通りである。
民族 | 人口 | 人口比(%) | |
---|---|---|---|
1 | キクユ | 6,622,576 | 17.2 |
2 | ルヒヤ | 5,338,666 | 13.8 |
3 | カレンジン | 4,967,328 | 12.9 |
4 | ルオ | 4,044,440 | 10.5 |
5 | カンバ | 3,893,157 | 10.1 |
6 | ソマリ | 2,385,572 | 6.2 |
7 | キシイ | 2,205,669 | 5.7 |
8 | ミジケンダ | 1,960,574 | 5.1 |
9 | メルー | 1,658,108 | 4.3 |
10 | トゥルカナ | 988,592 | 2.6 |
ケニアには全部で42の民族が存在していると言われるが、上表の通り上位5位までの民族でケニアの総人口の約3分の2を、上位10位まででその約9割を占めている。また、その他にアジア系、ヨーロッパ人、アラブ人などが少数存在する。
ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった[13]。
人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「インド系」(印僑)も、政治経済に大きな影響力を保っている。
言語
公用語・国語
2010年に制定された憲法では、ケニアの国語(National Language)はスワヒリ語、公用語(Official Language)はスワヒリ語および英語と定められている。司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある[14]。
民族語
ケニアには英語やスワヒリ語の他に60以上の言語が存在しており[15]、大きく分けてニジェール・コンゴ語族のバンツー諸語、ナイル・サハラ語族のナイル諸語、アフロ・アジア語族のクシ諸語がある。
ニジェール・コンゴ語族 バンツー諸語
キクユ語(話者数約660万人)、ルイヤ語[注釈 3](約510万人)、カンバ語(約390万人)、キシイ語(約220万人)、メルー語(約170万人)
ナイル・サハラ語族 ナイル諸語
カレンジン語[注釈 4](約480万人)、ルオ語(約400万人)、トゥルカナ語(約100万人)
アフロ・アジア語族 クシ諸語
ソマリ語(約240万人)
シェン
シェン(Sheng)とは、1970年代以降に生まれたスワヒリ語や英語、幾つかの民族語の混合言語・スラングであり、主に首都ナイロビで若者を中心として話されている。
宗教
宗教は、プロテスタントが47.7%、カトリック教徒が23.5%、その他のキリスト教徒が11.9%、ムスリムが11.2%、伝統宗教の信徒が1.7%、ヒンドゥー教徒が0.1%、その他が1.5%、無宗教が2.4%となっている[11]。
教育
2010年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性:90.6%、女性:84.2%)である[12]。
純就学率 (%) | 教師一人当たりの生徒数 | 生徒一人当たり教育支出(%) [注釈 5] | |||
---|---|---|---|---|---|
男子 | 女子 | 合計 | |||
初等教育 | 82.3 | 83.2 | 82.8 | 46.8 | 22.3 |
中等教育 | 51.6 | 48.4 | 50.0 | 29.7 | 21.1 |
高等教育 | 4.7 | 3.3 | 4.0 | - | 273.6 |
主な高等教育機関としてナイロビ大学(1956,1970)の名が挙げられる。
文化
文学
小説においては英語で書いた『夜が明けるまで』(1964)でケニア独立戦争を描いた後、キクユ語のみで創作することを新たに宣言したグギ・ワ・ジオンゴ、『猟犬のための死体』(1974)のメジャ・ムアンギ、『スラム』(1981)のトマス・アカレ、ケニア土地自由軍の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990)で知られるサムエル・カヒガなどが著名な作家の名として挙げられる。
世界遺産
ケニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が2件存在する。
ケニア山国立公園/自然林 - (1997年、自然遺産)
トゥルカナ湖国立公園群 - (1997年、自然遺産)
ラム旧市街 - (2001年、文化遺産)
ミジケンダのカヤの聖なる森林群 - (2008年、文化遺産)
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | New Year's Day | |
3月or4月 | 聖金曜日 | Good Friday | 移動祝日 |
3月or4月 | イースター・マンデー | Easter Monday | 移動祝日 |
5月1日 | メーデー | Labour Day | |
6月1日 | マダラカデー | Madaraka Day | 独立前の自治獲得記念(1963年) |
10月20日 | マシュジャアデー | Mashujaa Day | 旧称のケニヤッタ・デーから2010年に独立の英雄を祝う日へと名称・趣旨を変更 |
12月12日 | 独立記念日 | Jamuhuri Day | 1963年12月12日 |
12月25日 | クリスマス | Christmas Day | |
12月26日 | ボクシング・デー | Boxing Day |
10月10日に指定されていたモイデーは2010年に廃止された。
スポーツ
陸上競技、サッカー、クリケット、ラグビー、ラリー、バレーボール、ボクシングなどが人気のあるスポーツである。とりわけ陸上競技の長距離走の人気が高く、また隣国エチオピアと並んで世界の強豪として有名である。北京オリンピック男子マラソン金メダリストサムエル・ワンジルをはじめ、世界大会における優勝者を輩出した。
ゆかりの人物
出身者
トマス・アカレ - 作家
ピーター・オルワ - ボクサー
ムワイ・キバキ - ケニア第3代大統領
ウィルソン・キプケテル - 陸上選手
ピーター・コエチ - 陸上選手
ダニエル・ジェンガ - マラソン選手
ウィリアム・シゲイ - 陸上選手
ウィリアム・タヌイ - 陸上選手
ケンタ・ミゾグチ - 陸上選手
リチャード・チェリモ - 陸上選手
グリンダ・チャーダ - 映画監督
ポール・テルガト - マラソン選手
ワルインゲ中山 - ボクサー
モデスト・ナプニ - ボクサー
キャサリン・ヌデレバ - マラソン選手
ポール・ビトク - 陸上選手
ワンガリ・マータイ - 環境保護活動家
エリック・ワイナイナ - マラソン選手
ダグラス・ワキウリ - マラソン選手
ロバート・ワンギラ - ボクサー
サムエル・ワンジル - マラソン選手
バラク・オバマ・シニア - エコノミスト
バラク・オバマ
ケニア人のバラク・オバマ・シニアとアン・ダナムの間に生まれたバラク・オバマが、アメリカ合衆国初の黒人大統領に就任した。
オバマはケニア国内では育てられていないが、過去にケニアを数回訪問している。両親は既に故人であるが生存している祖母サラ・オバマの元には大統領就任の際、国外を含む10以上のメディアが押し寄せたと伝えられている。ムワイ・キバキ大統領は、ジョン・マケイン候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。さらに、祝意を表するため6日を国民の祝日にすると宣言した[17]。オバマという姓はルオ族の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカの独自の姓が現れたのである。またオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母はイギリス人の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人でもある。
注釈
^ 大統領、上院議員(Senator)、カウンティの知事、国会議員などを選出
^ County Governments Act No.17 of 2012
^ ルイヤ語はさらに14の言語に分類することができ、主なものとしてブクス語(約140万人)、ロゴーリ語(約62万人)、イダホ=イスハ=ティリキ語などがある。
^ カレンジン語は幾つかの言語をまとめた方言群であり、キプシギス語(約190万人)、ナンディ語(約95万人)などを含む。
^ 一人当たりGDPに対する生徒一人当たり公共教育支出額の割合。初等・中等教育は2006年、高等教育は2004年の数値。
出典
- ^ abEconomy expands by 25pc placing Kenya in Africa’s top 102014年10月11日閲覧。
^ “ケニア選挙やり直しの英断、司法独立への期待に火 アフリカ初の無効判決、一躍国民のヒーローになった最高裁判事” (2017年9月7日). 2017年9月18日閲覧。
^ Expensive Tokyo embassy leads to Kenyan resignationsRFI, 27/10/2010
^ 在日ケニア大使館、不当に高い? 反汚職委が経緯調査 共同通信, 2010/10/20
^ “ケニアで地方分権が始まる。日本が支援する、分権実施に向けた人材育成もスタート”. 国際協力機構. 2014年10月24日閲覧。
^ “World Development Indicators”. World Bank. 2014年10月11日閲覧。- ^ ab“Kenya Vision 2030”. Republic of Kenya. 2014年10月11日閲覧。
^ “FAOSTAT”. Food and Agriculture Organization. 2014年10月11日閲覧。
^ 日本経済新聞,2013年12月19日,初歩からのアフリカ ケニアの園芸産業に続け- ^ ab“海外ビジネス情報:ケニア”. 日本貿易振興機構. 2014年10月11日閲覧。
- ^ abc“2009 POPULATION & HOUSING CENSUS RESULTS”. Minister of State for Planning, National Development and Vision 2030. 2014年10月11日閲覧。
- ^ abThe World Factbook2014年10月11日閲覧
^ 松田素二「民族対立の社会理論」『現代アフリカの紛争を理解するために』アジア経済研究所 1998年
^ 宮本正興「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店、2002/12
^ Lewis, M. Paul, Gary F. Simons, and Charles D. Fennig (eds.). 2015. Ethnologue: Languages of the World, Eighteenth edition. Dallas, Texas: SIL International. Online version: http://www.ethnologue.com.
^ The World Bank (2013), Africa Development Indicators 2012/13, http://data.worldbank.org/data-catalog/africa-development-indicators
^ [1]
参考文献
- 砂野幸稔 「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』 岡倉登志編、明石書店、東京、2002年12月。
- 宮本正興 「アフリカの言語――その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』 岡倉登志編、明石書店、東京、2002年12月。
関連項目
- ケニア関係記事の一覧
- マウマウ団の乱
- イレミ・トライアングル
- ケニア海軍艦艇一覧
- 少年ケニヤ
愛と哀しみの果て(原作:カレン・ブリクセン『アフリカの日々』)- ケニア危機 (2007年-2008年)
- ナイロビの蜂
- 名もなきアフリカの地で
- 大草原の小さな天使 ブッシュベイビー
- 佐藤芳之
外部リンク
- 政府
ケニア共和国政府 (英語)
ケニア大統領府 (英語)- 在日ケニア大使館
- 日本政府
- 日本外務省 - ケニア
- 在ケニア日本国大使館
- 観光
MAGICAL Kenya(ケニア観光局)
ウィキボヤージュには、ケニア(英語)に関する旅行情報があります。
ウィキトラベル旅行ガイド - ケニア
- その他
- JETRO - ケニア
ケニアのウィキメディア地図 (英語)
地図 - Google マップ
オープンストリートマップには、ケニアに関連する地理データがあります。
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座標: 北緯1度 東経38度 / 北緯1度 東経38度 / 1; 38