サハラ交易






重要な交易基地の一つであったマリ共和国ジェンネ(Djenné)のモスクは世界遺産(文化遺産)にも登録されており、その原型は13世紀末にまで遡る。


サハラ交易(サハラこうえき)または サハラ縦断交易(サハラじゅうだんこうえき、英: Trans-Saharan trade)は、地中海沿岸諸国と西アフリカのあいだの交易で、先史時代から存在したが、最盛期は8世紀より16世紀後期に亘る。キャラヴァン・ルート (隊商路) の位置と交易量の盛衰を問う前に、このような交易がそもそもどのような形で存在したのかを考えることが重要である。サハラ砂漠(Saharaは砂漠の意)は地中海経済とニジェール盆地経済を隔てる、人間に適さない空間である。フェルナン・ブローデルは、『世界の大局観』において、このような区域は、大西洋と同様に、利得が損失を遥かに上回るというような例外的な状況に限って、縦断の価値があることを指摘している。しかし、大西洋と異なり、サハラ砂漠は、地域的な交易を行う人々にとって、自分たちの国であった。


イスラーム時代の交易は、ヒトコブラクダのキャラヴァンによって行われた。これらのラクダは、キャラヴァンへと集められる前に、マグリブまたはサヘルの草原において、何ヶ月間も肥育された。14世紀の探検家で、キャラヴァンに同行したイブン・バットゥータによれば、キャラヴァンの平均的な規模は、一隊当たり千頭のラクダから成るが、1万2千頭に及ぶものもあったという。キャラヴァンには、砂漠に詳しく、仲間の遊牧の民に通行の安全を保証させるベルベル人のガイドが高い報酬を得て付添った。キャラヴァンの成功は不確実であり、細心の手配が必要だった。キャラヴァンは旅程すべてに必要な水を運んで旅することが出来ないため、オアシスがなお何日も先のうちに使い走りがオアシスに先回りし、水を確保するようにした。




目次





  • 1 初期のサハラ交易


  • 2 中世のサハラ交易


  • 3 サハラ交易の衰退


  • 4 参考資料


  • 5 注記


  • 6 外部リンク




初期のサハラ交易


ナイル川の渓谷に沿う小さな交易ルートが何千年にもわたって利用されて来たが、ラクダの家畜化以前には、サハラ砂漠を縦断する旅行は困難であった。原産地から遠く離れて見出される物品や材料は、何らかの交易が存在した考古学的記録であり、とりわけ、砂漠がもっとも細くなる遥かな西アフリカとの交易の記録であった。古典文学のなかには、また、幾つかの交渉の報告がある。アウダゴスト(英語版)の都市の発展は、この限定された交易の頃であったと思えるが、この領域の都市化のすべてが交易の結果であったという指摘は、今日では認められていない。


サハラ南部の同時代の洞窟絵画に見られる、戦車を引く馬の描写から、ある人々は、馬が利用されていたと想定している。とはいえ、この地域にあって、初期の時代に属すると確認される馬の骨は見出されていない。また戦車は、積載容量が少ないため、交易目的の運搬車として似つかわしくない。


この地域でのラクダの家畜化に関する最初期の証拠は、3世紀のものである。ベルベル人が使用して、ラクダは、サハラ砂漠全体を縦断するより定期的な往来を可能にしたが、一定の交易路が出来るのは、7世紀から8世紀に西アフリカがイスラム教に改宗してからである。二つの主要な交易路が発展した。一つは、西部砂漠を通り現在のモロッコからニジェール川湾曲部 (英: Niger Bend, ニジェール川北部) まで通じるもの、第二は、現在のチュニジアからチャド湖地域へと通じていた。これらの長さは比較的短く、点在するオアシスを繋いだものである。この地域の東の果て、リビアの南部は、オアシスが存在しないためと烈しい砂嵐のため通行不可能であった。ニジェール川湾曲部からエジプトへのルートは、10世紀には、危険さの故に放棄された。




11世紀頃のガーナ王国とサハラ越えの交易路



中世のサハラ交易


地中海経済は金が欠乏していたが、塩は供給することができた。他方、西アフリカの内陸部は豊富な金資源 (おそらくセネガル川上流の砂金) を持っていたが、塩を必要とした。地中海沿岸の諸都市では、サハラ以南のアフリカ人の家内奴隷や兵士としての需要があったため、奴隷売買もまた重要であった。サハラ以南の黒人国(ビラード・スーダーン)は、高度な訓練を積ませた奴隷兵士(英: slave soldiers)の供給源であった。


8世紀には幾つかの交易ルートが確立され、おそらくもっとも重要なものは、シジルマサやガダメスなどを終点として、北方へと通じていた。これらの都市で、またその他の北アフリカの諸都市で、イスラームを受容したベルベル人の交易商がサハラ以南のアフリカ人との交渉を増大させて行き、彼らの改宗を促進した。ベルベル人はまた、自らサヘルへと出向いた。アウダゴストなど現在のモーリタニア南部を中心とするガーナ王国の興隆は、サハラ交易の増大と並行して進んだ。バクリーによると、1050年頃のガーナの首都は住人の半数がムスリムであった。しかしブレ(フランス語版)における新しい金鉱は、アウダゴストやクンビー・サーリフを通過する交易量を減らし、代わりにマンデ人に利益をもたらした。マンデ人は一時、ソソ人(英語版)王国(英語版)に併呑されるが、13世紀前半に伝説的な英雄スンジャタ・ケイタのカリスマの下に統合され、サヘル地域に広域的な支配(マリ帝国)を打ち立てた。




13世紀~15世紀初頭のマリ帝国とサハラ交易路


イブン・バットゥータなどのアラビア語文献には、マリによるサハラ交易の支配と運営の実相が生き生きと描写されている。マリがサハラ交易の主導権を握った13世紀から15世紀においても金-塩交易(英: gold - salt trade)は継続された。塩と金よりも重要性が低い交易商品は奴隷であり、南からはコーラの実が、そして北からは奴隷交易用ビーズ (slave beads) やタカラガイの貝殻 (貨幣として使用された) が商品であった。ガオ 及びジェンネ を含む、ニジェール川湾曲部の都市が繁栄したのはマリ帝国のもとであった。またとりわけ、トンブクトゥが、その大いなる富でヨーロッパ全体で知られるようになった。西アフリカ南部の重要な交易中心部は、森林とサバンナの移行地帯に発展した。その例は、ベゴー、ボノ・マンソ (今日のガーナに位置する)、そしてボンドゥク(英語版)(今日のコート・ジボワールに位置する) を含む。西部の交易ルートは、現在のモーリタニアに位置する、ウワダン、ウワラタ、シンゲッティを主要な交易中心部として、重要であり続けた。その他方、アソデ(英語版)のトゥアレグ族の町、そして後にはアガデズが、現在のニジェールに位置する、より東寄りのルートの周辺に成長した。


東部のサハラ交易ルートは、チャド湖地域を中心として、長く存続したカネム・ボルヌ帝国の発展を導いた。この交易ルートは、幾分効率が悪く、ムワッヒド朝による征服の期間のような、西部において騒擾が存在したときに、著しい興隆を示したに過ぎなかった。サヘル地域と熱帯雨林地帯とを結ぶ交易ルートには11世紀からワンガラ族が参加した。



サハラ交易の衰退


西アフリカ沿岸をポルトガル人が往来するようになり、ヨーロッパと西アフリカの間に新たな交易路が開かれた。16世紀初頭までに、ヨーロッパ人の拠点が沿岸に設けられ、西アフリカにとって富裕なヨーロッパ人は最も重要になっていた。サハラ縦断はなお長期の不確実なものであったが、北アフリカが政治的にも経済的にも衰退していた。しかしサハラ縦断交易に対する重大な打撃は、1591年-1592年の「モロッコ戦争」(トンディビの戦い(英語版))であった。モロッコを支配していたサアド朝はサハラ砂漠を越えて軍隊を送り込み、トンブクトゥ、ガオ、そしてその他幾つかの重要な交易中心部を攻撃し、建物と財産を破壊し著名な市民を追放した。この交易に対する破壊行為が、これらの都市の重要性を劇的に衰退へと導き、その結果生じた敵意が交易を大きく減少させた。


大きく減少したとはいえ、サハラ交易は継続した。しかし、西アフリカ海岸への交易ルートは、特に1890年代のサヘルへのフランスの侵略と、その後の内陸部への鉄道の敷設以降ますます使いやすくなっていった。砂漠の狐の二つ名を持つエルヴィン・ロンメルはベドウィンのガイドから教わった交易路を北アフリカ戦線にて装甲部隊で砂漠を渡るために活用した。ニジェール川湾曲部を経由するダカールからアルジェへの鉄道線は計画はされたが、建設されなかった。1960年代における、この地域の国々の独立と共に、北と南を結ぶ複数のルートが国境の存在により厳しい状況となった。各国政府は、トゥアレグ族の民族主義に対し敵意を抱き、サハラ交易を維持し支えるための努力をほとんど行わなかった。また1990年代のトゥアレグの叛乱、そしてアルジェリア内戦により多数の道路が閉鎖され、ルートを一層荒廃させた。


今日では、少数のタール舗装(英語版)道路がサハラ砂漠を横断しており、限られた数のトラックがサハラ交易、特に塩の運搬を担っている。伝統的なキャラヴァン・ルートは、ほとんどがラクダを使っていない。しかしアガデズからビルマや、トンブクトゥからタウデニ (Taoudenni) への距離の短いルート(en:Azalai)は、軽量な場合は、なお定期的に利用されている。トゥアレグ族の一部は伝統的な交易ルートをまだ使っており、ラクダによってサハラ砂漠を縦断する毎年六ヵ月間に亘る1,500マイルの旅を行い、内陸砂漠から砂漠縁辺の集落へ塩を運んでいる。(* 注)



参考資料


  • ムハンマド・サブール及びクヌート・S・ヴィクール(編集): 『伝統文化の出会いと文化の変化 (Ethnic Encounter and Culture Change)』, Bergen, 1997年, Google キャッシュ 最新版 2005年1月

  • 『サハラ縦断黄金交易 7世紀-14世紀 (The Trans-Saharan Gold Trade 7th-14th Century)』, Museum of Modern Art 提供

  • ケヴィン・シリントン(編集): 『トゥアレグ:タケッダとサハラ交易 (Tuareg: Takedda and trans-Saharan trade)』, 『アフリカ史百科事典 (Encyclopaedia of African History)』 Fitzroy Dearborn, 2004年, ISBN 1579582451

  • T・レウィッキ:『南北関係におけるサハラとサハラ住民の役割 (The Role of the Sahara and Saharians in Relationships between North and South) 』 「UNESCO アフリカ史概説:第3巻 (UNESCO General History of Africa: Volume 3), カリフォルニア大学出版 (University of California Press), 1994年, ISBN 9236017096

  • フェルナン・ブローデル:『世界の大局観 (The Perspective of the World)』 : 『文明と資本主義, 第3巻 (Civilization and Capitalism, vol. III)』 1979年 (仏語:1979年)

  • イブン・バットゥータ 『大旅行記』全8巻 イブン・ジュザイイ編、家島彦一訳、平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1996-2002年。


注記


(* 注) 『ナショナル・ジオグラフィック (National Geographic)』シリーズ:「アフリカ」(2001年), 「エピソード2:砂漠のオデュッセイ (Desert Odyssey)」 (Tuareg tribe across the Sahara for six months by camel)


Trans-Saharan trade 09:26, 11 July 2005 より翻訳



外部リンク



  • サード朝モロッコの戦いソンガイ帝国攻撃ルートを示す。






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