歩兵連隊








歩兵連隊を表すNATO軍の兵科記号


歩兵連隊(ほへいれんたい)とは、歩兵を主とする連隊。




目次





  • 1 概要


  • 2 大日本帝国陸軍

    • 2.1 歩兵連隊


    • 2.2 近衛歩兵連隊


    • 2.3 台湾歩兵連隊


    • 2.4 支那駐屯歩兵連隊


    • 2.5 独立歩兵連隊


    • 2.6 その他の歩兵連隊


    • 2.7 歩兵連隊の定員(明治23年平時編制)


    • 2.8 行事



  • 3 陸上自衛隊


  • 4 アメリカ陸軍

    • 4.1 第二次世界大戦時


    • 4.2 朝鮮戦争時


    • 4.3 1950年代中盤以降



  • 5 脚注


  • 6 関連項目




概要


古今東西の陸軍では最も数が多く、戦力の基幹となるのが歩兵連隊であり、一般的に歩兵大隊を基幹として連隊本部、火力支援や雑務を行う特科中隊を組み合わせて編成される。
国や時代によって歩兵1個大隊編制と3個大隊編制があり、編制によって人数は大幅に異なり、おおむね1,000人から3,000人程度の兵力を指す。



大日本帝国陸軍




各歩兵連隊に下賜された帝国陸軍の軍旗(連隊旗)


大日本帝国陸軍には以下のような歩兵連隊があった。



歩兵連隊



冠称無しの「歩兵連隊(歩兵聯隊)」は第1から第524連隊(間に欠番多数を有す)まで置かれた。帝国陸軍における歩兵連隊(歩兵)の軍隊符号(部隊符号)はi。隊号(連隊番号)などは符号に冠し321i(歩兵第321連隊)などと表記し、近衛歩兵連隊は近衛のGと合わせ1Gi(近衛歩兵第1連隊)、歩兵旅団・歩兵団は旅団・団のBと合わせiBとした。


明治4年(1871年)に設置された鎮台が明治6年(1873年)に6個鎮台になり、隷下に第1から第14までの14個歩兵連隊が置かれ、その後明治19年(1886年)までに24個の歩兵連隊が置かれた。これら24個歩兵連隊は明治21年(1888年)5月、鎮台が師団に改編されると師団隷下となった。各歩兵連隊には衛戍地が定められており、基本的に永久にその土地に駐屯するものとされた(改編・移動・廃止・復古はままあった)。鎮台が師団に改編される時点の陸軍常備団隊配備表(明治21年5月12日勅令第31号)では下表のように衛戍地が定められていた。































































歩兵第1連隊〜14連隊
歩兵連隊軍旗授与衛戍地鎮台
歩兵第1連隊明治7年12月19日東京東京鎮台
歩兵第2連隊明治7年12月19日佐倉東京鎮台
歩兵第3連隊明治7年12月19日東京東京鎮台
歩兵第4連隊明治8年9月9日仙台仙台鎮台
歩兵第5連隊明治11年12月29日青森仙台鎮台
歩兵第6連隊明治7年12月18日名古屋名古屋鎮台
歩兵第7連隊明治8年9月9日金沢名古屋鎮台
歩兵第8連隊明治7年12月18日大阪大阪鎮台
歩兵第9連隊明治7年12月18日大津大阪鎮台
歩兵第10連隊明治7年12月18日姫路大阪鎮台
歩兵第11連隊明治8年9月9日広島広島鎮台
歩兵第12連隊明治8年9月9日丸亀広島鎮台
歩兵第13連隊明治8年9月9日熊本熊本鎮台
歩兵第14連隊明治8年9月9日小倉熊本鎮台













































歩兵第15連隊〜24連隊
歩兵連隊軍旗授与衛戍地鎮台
歩兵第15連隊明治18年7月27日高崎東京鎮台
歩兵第16連隊明治17年8月15日新発田仙台鎮台
歩兵第17連隊明治19年8月17日仙台仙台鎮台
歩兵第18連隊明治17年8月15日豊橋名古屋鎮台
歩兵第19連隊明治19年8月23日名古屋名古屋鎮台
歩兵第20連隊明治18年7月21日大阪大阪鎮台
歩兵第21連隊明治19年8月17日広島広島鎮台
歩兵第22連隊明治19年8月17日松山広島鎮台
歩兵第23連隊明治19年8月17日熊本熊本鎮台
歩兵第24連隊明治19年8月17日福岡熊本鎮台




浮世絵『第二軍威海衛背面大攻撃』 中央の房付きの旭日旗は歩兵連隊の軍旗



  • 歩兵第1連隊(東京)
    東京鎮台→第1師団


  • 歩兵第2連隊(佐倉→水戸)
    当初は東京鎮台に所属し(その後、第1師団)、編成地は千葉県佐倉であったが、明治41年(1908年)9月に第14師団に移管され、茨城県水戸市に移駐する。シベリア出兵では沿海州方面警備のためハバロフスクに出動するが、第3大隊は尼港事件でパルチザンの襲撃によって全滅する。昭和19年(1944年)にパラオ諸島のペリリュー島の守備に就くこととなる。同年9月15日に同島に上陸した米第1海兵師団などを相手に長期の持久戦を展開するが、11月24日に連隊長中川州男大佐は軍旗を奉焼し、訣別電報を送り自決し、連隊は玉砕した(ペリリューの戦い)。太平洋戦争時の通称号は「照7746」。


  • 歩兵第3連隊(東京)
    東京鎮台→第1師団→第28師団


  • 歩兵第4連隊(仙台)
    明治8年(1875年)に仙台鎮台第1大隊と第3大隊とを以て編成された。明治8年(1875年)9月に軍旗を親授され明治21年(1888年)第2師団に所属。西南戦争・甲申政変での朝鮮派兵・日清戦争・台湾平定・日露戦争・満州事変・支那事変・ガダルカナル戦に参加する。昭和20年(1945年)8月31日にサイゴン近辺で軍旗を奉焼する。太平洋戦争時の通称号は「勇1301」。


  • 歩兵第5連隊(青森)
    明治4年(1871年)に東北鎮台第20番大隊(弘前町)が置かれる。明治11年(1878年)5月1日に連隊が編成され、明治12年(1879年)1月16日に軍旗が授与される。当初仙台鎮台、第2師団に所属したが、明治31年(1898年)に新設された第8師団に所属、明治35年(1902年)に連隊の一部が八甲田山中で遭難する(八甲田雪中行軍遭難事件)。日清戦争・日露戦争・満州事変(連隊を基幹とする第14混成旅団)に参加する。太平洋戦争時の通称号は「杉4715」。


  • 歩兵第6連隊(名古屋)
    明治7年(1874年)に編成され、名古屋鎮台、その後第3師団に所属し、日清戦争では平壌攻略に参加。日露戦争では南山、遼陽、沙河、奉天の会戦で活躍。シベリア出兵ではザバイカル方面に進出。第二次上海事変では昭和12年(1937年)8月に呉淞に上陸し、大場鎮攻略、南京攻略戦、徐州会戦、武漢攻略戦、宜昌作戦、漢水作戦、第二次長沙作戦、浙贛作戦、大陸打通作戦に参加。安徽省蕪湖で終戦。事変勃発以来8年間大陸に在り、この間無敗であった。太平洋戦争時の通称号は「幸3702」。


  • 歩兵第7連隊(金沢)
    当初は名古屋鎮台から第3師団に所属し、その後第9師団に所属、初代旗手は千田登文少尉。明治10年(1877年)2月22日に西南戦争への出兵が命ぜられ、第2大隊が西郷軍を追い詰める。明治27年(1894年)8月4日に日清戦争への動員令が下り、9月7日に広島を出航、同月13日仁川港に上陸する。日清戦争では赫々たる戦果を挙げ戦死者は36名である。日露戦争中の旅順攻略戦にて盤龍山東堡塁に突入し殆ど全滅、大内連隊長以下大隊長3名戦死。連隊旗が一時敵の手に渡るものの、荒島上等兵が自ら負傷しながらも奪還し第3軍司令官乃木希典大将から個人感状を受ける。第一次上海事変中の昭和7年(1932年)7月31日には林大八連隊長が戦死する。日中戦争では南京入城に参加する。連隊(長伊佐一男大佐)は、国際委員会の管理する安全区を厳重に守衛し、許可のない者は安全区内に立ち入らせなかった。太平洋戦争時の通称号は「武1524」、終戦時は台中にある。


  • 歩兵第8連隊(大阪)
    明治7年(1874年)に編成され、大阪鎮台その後第4師団に所属、第4師団の当初からの中核部隊であった。「またも負けたか8連隊・・・」という俗謡が当時から歌われていた連隊であるが、実際の8連隊は決して弱い連隊などではなく、その様な俗謡は確かな理由無しの極めて根拠薄弱な俗謡とされている。古くは佐賀の乱に従軍しており、西南戦争ではその勇戦奮戦により明治天皇から大変名誉ある「戦功ご嘉賞」の詔勅を賜っている。後は主要な戦争、事変の多くに従軍。太平洋戦争時の通称号は「淀4072」、終戦は玉砕全滅せずにタイのランパンで迎えている。


  • 歩兵第9連隊(大津→京都)
    当初は大阪鎮台から第4師団に所属し、その後第16師団に所属、「またも負けたか8連隊、それでは勲章9連隊」の9連隊として歌われていた歩兵連隊。昭和19年(1944年)レイテ島で玉砕。


  • 歩兵第10連隊(大阪→姫路→岡山)
    明治7年(1874年)12月18日に大阪鎮台姫路営所に編成された。明治7年(1874年)10月に歩兵第10連隊第1大隊第1中隊が大阪から移駐し、その後、明治17年(1884年)6月に歩兵第10連隊本体が姫路に移駐した。明治21年(1888年)に第4師団に編入された。明治31年(1898年)10月に第10師団に編入された。大正14年(1925年)に姫路から岡山へ転営する。西南戦争・日清戦争・日露戦争・支那事変の漢口作戦に参加する。復元された同連隊の軍旗が岡山県護国神社に展示されている。


  • 歩兵第11連隊(広島)
    明治8年(1875年)に編成され、広島鎮台、その後第5師団に所属。壬午事変に参加する。

    昭和16年(1941年)軍政改革で歩兵第一補充隊と改称・再編される。

    同年12月8日マレー作戦に参加すると共に南太平洋諸島に展開。太平洋戦争時の通称号は「鯉5173」。



  • 歩兵第12連隊(丸亀)
    広島鎮台→第5師団→第11師団


  • 歩兵第13連隊(熊本)
    熊本鎮台→第6師団


  • 歩兵第14連隊(小倉)
    熊本鎮台→第6師団→第12師団→第25師団。太平洋戦争時の通称号は「国4903」。

    西南の役中の明治10年(1877年)2月22日に西郷軍によって、軍旗を奪われる。連隊長心得であった乃木希典少佐は、大正元年(1912年)9月30日に殉死するがその遺言中に「明治十年の役に於いて軍旗を失ひ、その後死所を得度心掛侯も其の機を得ず」と述べる。



  • 歩兵第15連隊(高崎)
    東京鎮台→第1師団→第14師団。太平洋戦争時の通称号は「照7757」。


  • 歩兵第16連隊(新発田)
    明治17年(1884年)6月に編成され、仙台鎮台から第2師団に所属し、その後第13師団所属を経て、再度第2師団に所属。日清戦争・日露戦争・シベリア出兵、満州事変、支那事変、ノモンハン事件、太平洋戦争に参加する 。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」。


  • 歩兵第17連隊(仙台→秋田)
    明治19年(1886年)8月仙台に創設。当初仙台鎮台に所属し第2師団所属から、日清戦争後の第8師団新設により編入され、秋田に移駐。シベリア出兵に参加。満州事変による第8師団の満州移駐に伴い、牡丹江省の守備にあたる。太平洋戦争時の通称号は「杉4717」。昭和19年(1944年)8月にフィリピン戦線に投入され、ルソン島に上陸。上陸時、約3千人だった人員は、終戦時には900名余りであった。軍旗は終戦後、奉焼されるが、一部は持ち帰られ、現在秋田駐屯地に展示されている。


  • 歩兵第18連隊(名古屋→豊橋)
    明治17年(1884年)に名古屋にて編成される。明治18年(1885年)5月10日に豊橋に移営する。名古屋鎮台→第3師団→第15師団→第3師団→第29師団。太平洋戦争時の通称号は「雷3219」。


  • 歩兵第19連隊(名古屋→敦賀)
    名古屋鎮台→第3師団→第9師団→第16師団→第9師団


  • 歩兵第20連隊(大阪→福知山)
    大阪鎮台→第4師団→第10師団→第16師団


  • 歩兵第21連隊(広島→浜田)
    広島鎮台→第5師団→第17師団→第5師団。太平洋戦争時の通称号は「鯉5714」。

    跡地は浜田第一中学校、島根県立浜田高等学校



  • 歩兵第22連隊(松山)
    通称「伊予の肉弾連隊」広島鎮台→第5師団→第11師団→第5師団→第11師団→第24師団

    日露戦争の旅順攻略、上海事変で活躍した。昭和20年(1945年)6月沖縄戦で玉砕。



  • 歩兵第23連隊(熊本→都城)
    熊本鎮台→第6師団


  • 歩兵第24連隊(福岡)
    熊本鎮台→第6師団→第12師団


  • 歩兵第25連隊(豊平町月寒)
    明治33年(1900年)12月22日軍旗授与。当初は第7師団、昭和14年(1939年)から樺太混成旅団に属していた。旅団が第88師団に改編になった後も所属し樺太南部の防衛に当った。


  • 歩兵第26連隊(旭川)
    明治33年(1900年)12月22日軍旗授与。所属師団は第7師団。奉天会戦で連隊長戦死。


  • 歩兵第27連隊(旭川)
    明治33年(1900年)12月22日軍旗授与。所属師団は第7師団。釧路で終戦。


  • 歩兵第28連隊(旭川)
    明治33年(1900年)12月22日軍旗授与、昭和19年(1944年)3月1日に再授与。所属師団は第7師団。ガダルカナル戦で一木清直大佐は自決し連隊主力の一木支隊は全滅する。


  • 歩兵第29連隊(仙台→若松)
    明治31年3月24日軍旗授与。所属師団は第2師団。


  • 歩兵第30連隊(新津→村松→高田)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第2師団→第13師団→第2師団→第28師団。


  • 歩兵第31連隊(弘前)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第8師団。


  • 歩兵第32連隊(秋田→山形)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。創設時の第8師団に所属、その後第2師団所属から再度第8師団所属を経て、太平洋戦争時は第24師団に所属し通称号は「山3475」、昭和20年(1945年)沖縄で玉砕。跡地は旧山形城跡の霞城(かじょう)公園。


  • 歩兵第33連隊(守山)→久居)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。創設時は第3師団隷下で日露戦争に参加。奉天会戦での三軒家の死闘(連隊長戦死)により奥軍司令官から全軍布告。宇垣軍縮により第16師団隷下へ。満州での警備、シナ事変での南京攻略戦、武漢攻略戦等に参戦。日米開戦後はフィリピン攻略戦に参加。バターン作戦後にはルソン島の警備に就くが、昭和19年(1944年)9月レイテ島に派遣、同年10月の米軍レイテ侵攻に際しては、米第10軍団の2個師団の上陸(正面約12キロ)を実質5個中隊で迎撃せざるを得ず数日で連隊主力は壊滅、連隊長戦死。なお、歩兵第33連隊が置かれていた久居に同じ番号を冠する陸上自衛隊第33普通科連隊が所在している。


  • 歩兵第34連隊(静岡)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。第3師団所属から第15師団所属を経て再度第3師団に所属。日露戦争の遼陽会戦の首山堡争奪では連隊長が戦死したほか、第1大隊長の橘周太少佐(戦死後陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級)が壮烈な戦死を遂げて首山堡確保の殊勲を挙げた。なお、歩兵第34連隊が置かれていた静岡に同じ番号を冠する陸上自衛隊第34普通科連隊が所在している。


  • 歩兵第35連隊(金沢→富山)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第9師団。日露戦争では乃木第3軍に属し旅順攻囲戦、奉天会戦に参加し満身創痍となる。その後シベリア出兵、山東出兵、第一次上海事変、第二次上海事変、南京攻略戦などに歴戦。太平洋戦争時は満州の守備についていたが、昭和19年(1944年)第32軍に編入され沖縄の守備につく。しかし沖縄戦直前に台湾に配置替えとなり、ほとんど無傷のまま終戦を迎えた。


  • 歩兵第39連隊(姫路)

    血染めの軍旗(血染めの連隊旗)と謳われ尊崇されていた。フィリピン防衛戦では建武集団として奮戦した。沙河会戦、フィリピン防衛戦などでの戦歴を見る限り白兵戦、ゲリラ戦が得意な連隊だと思われる。                 


  • 歩兵第41連隊(広島→福山)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第5師団→第17師団→第5師団→河村支隊・南海支隊、再建後第30師団。


  • 歩兵第42連隊(山口)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第5師団。


  • 歩兵第43連隊(徳島)
    明治31年軍旗(1898年)授与。


  • 歩兵第47連隊(小倉→大分)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第12師団→第6師団→第48師団。


  • 歩兵第48連隊(久留米)
    明治31年(1898年)3月24日軍旗授与。所属師団は第12師団→第18師団→第12師団。


  • 歩兵第49連隊(東京→甲府)
    明治38年(1905年)4月15日軍旗授与、明治39年(1906年)10月2日に再授与。当初は第13師団に所属しその後第1師団に所属。昭和19年(1944年)11月、レイテ島で大部分が壊滅。残存兵力はセブ島に移駐しそこで終戦を迎える。


  • 歩兵第51連隊(名古屋→久居)
    第3師団隷下でシベリア出兵に参加。大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。廃止時の連隊長は小磯国昭。昭和13年(1938年)再編され第15師団隷下となる。昭和19年(1944年)インパール作戦に参加。師団の左突進隊として部署された。終戦時はタイで連合国軍の管理下へ。


  • 歩兵第53連隊(大阪→奈良)
    大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。


  • 歩兵第54連隊(善通寺→岡山)
    大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。


  • 歩兵第55連隊(広島→佐賀)
    大正14年(1925年)、宇垣軍縮により廃止。


  • 歩兵第65連隊(若松)

    石原莞爾によれば東北の各連隊の嫌われ者を集めて新設したが、それが一致団結して日本の軍隊中に於いても最も緊張した活気に満ちた連隊であったという。


  • 歩兵第68連隊(岐阜)
    明治41年(1908年)5月8日軍旗授与。所属師団は第3師団。


  • 歩兵第70連隊(篠山)
    「丹波の鬼」と称された勇猛な歩兵連隊。

  • 歩兵第124連隊(福岡)
    「菊兵団」と称した第18師団に属し、南支の敵前上陸、ボルネオ島戦参加。その後、川口支隊の基幹部隊となって師団から分離され、ガダルカナル戦に参加。インパールでも活躍する。


近衛歩兵連隊


近衛歩兵連隊が第1から第10連隊まで置かれた。近衛歩兵連隊は、近衛師団創設後は同師団(後に近衛第1から第3師団に分かれた)に属した。


























































































軍旗授与衛戍地創設時師団創設後第二次世界大戦中大戦末期最終位置
近衛歩兵第1連隊明治7年1月23日東京近衛局近衛師団近衛混成旅団近衛第1師団東京・皇居
近衛歩兵第2連隊明治7年1月23日東京近衛局近衛師団近衛混成旅団近衛第1師団東京・皇居
近衛歩兵第3連隊明治18年10月25日東京近衛近衛師団近衛師団近衛第2師団
スマトラ島メダン
近衛歩兵第4連隊明治20年5月24日甲府近衛近衛師団近衛師団近衛第2師団スマトラ島メダン
近衛歩兵第5連隊昭和14年10月25日佐倉近衛師団近衛第2師団スマトラ島メダン
近衛歩兵第6連隊昭和18年9月7日東京近衛第1師団東京・皇居
近衛歩兵第7連隊昭和18年9月7日東京近衛第1師団東京・皇居
近衛歩兵第8連隊昭和19年4月26日東京近衛第3師団
千葉県成東
近衛歩兵第9連隊昭和19年4月26日甲府近衛第3師団千葉県成東
近衛歩兵第10連隊昭和19年4月26日佐倉近衛第3師団千葉県成東
  • 近衛歩兵第1連隊(東京)
    明治7年(1874年)1月20日に編成され、同年同月23日に軍旗を親授される。編成に際して明治天皇より「近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク依テ今軍旗一旒ヲ授ク汝軍人等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」との勅語を賜りそれに対して連隊長が「敬テ明勅ヲ奉ス臣等死力ヲ渇シ誓テ国家ヲ保護セン」と奉答する。東宮は本連隊付となる通例で、嘉仁親王(後の大正天皇)・大正元年(1912年)9月以降は裕仁親王(後の昭和天皇)も近衛歩兵第1連隊付となっていた。西南の役に出征したほか、日清戦争では台湾の蕃族征討に当たる。日露戦争では第1軍隷下として奉天会戦等に参加する。日中戦争では昭和14年(1939年)11月2日に動員が下令される。大東亜戦争中には宮城の守護に当たる。昭和20年(1945年)5月25日に米軍機によって皇居が爆撃された際には消火に当たる。昭和20年(1945年)8月25日に軍旗奉焼。

    日露戦争中の明治37年(1904年)6月15日には、後備近衛歩兵第1連隊長須知源次郎陸軍歩兵中佐指揮の1100名以上の兵員を乗せた輸送船の常陸丸がロシア艦隊に遭遇し撃沈される(常陸丸事件)。


  • 近衛歩兵第2連隊(東京)
    明治7年(1874年)1月23日に近衛歩兵第1連隊と同日に軍旗を親授される。佐賀の乱に出征するも会戦の機会なく帰還する。西南戦争では田原坂の戦い等に参加する。日清戦争では台湾平定に当たる。日露戦争では明治37年(1904年)2月4日に動員下令され、奉天会戦等に参加する。昭和15年(1940年)9月26日に北部仏印進駐の印度支那派遣軍の基幹部隊としてハイフォン港に進駐する。昭和16年(1941年)8月に東京に帰還する。大東亜戦争中は宮城の守護に当たる。昭和20年(1945年)8月25日に軍旗奉焼。


台湾歩兵連隊


台湾歩兵連隊は2個置かれ、日中戦争開戦以前は台湾守備隊に属していた。太平洋戦争では第48師団に属しフィリピン攻略と蘭印作戦の主力を努めた。



  • 台湾歩兵第1連隊
    明治40年(1907年)11月7日軍旗授与。
台湾歩兵第1連隊(本隊)- 台北

台湾歩兵第1連隊(第3大隊)- 台中

連隊長
岩田正吉 大佐:1907年9月16日 - 1910年5月14日

奥村信猛 大佐:1910年5月14日 - 1912年11月30日

鈴木秀五郎 大佐:1912年11月30日 - 1916年1月21日

藤田直太郎 大佐:1916年1月21日 -

浜島高義 大佐:1923年8月6日[1] -

恒岡小文吾 大佐



  • 台湾歩兵第2連隊
    明治40年(1907年)11月7日軍旗授与。
台湾歩兵第2連隊(本隊)- 台南

台湾歩兵第2連隊(第3大隊)- 高雄

連隊長
杉村愿簡 大佐:1907年9月16日 -


竹下平作 大佐:1908年12月21日 - 1911年10月24日

吉野文四郎 大佐:1911年10月24日 - 1913年8月22日

阿久津秀夫 大佐:1913年8月22日 - 1915年8月10日

松山良朔 大佐:1915年8月10日 - 1917年8月6日

森永弥惣次 大佐:1917年8月6日 -

松野亀雄 大佐:1921年6月28日[2] -

篠原四郎 大佐:1923年8月6日[3] -

田中透 少将



支那駐屯歩兵連隊


北清事変(義和団の乱)に際して、清朝による外国公館保護が十分でなかったことから、列強は自国の公館を防衛するため軍隊を駐屯させる権利を得た。これに基いて、日本も天津に清国駐屯軍(後に支那駐屯軍に改称)を駐屯させ、その隷下に北平駐屯歩兵隊と天津駐屯歩兵隊を置いた。その後、昭和11年(1936年)4月18日に支那駐屯軍を強化したのにともない、北平駐屯歩兵隊を支那駐屯歩兵第1連隊に、天津駐屯歩兵隊を支那駐屯歩兵第2連隊に改編した。


昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発、同年8月31日に支那駐屯軍を第1軍に改編し廃止した際直轄部隊は支那駐屯混成旅団に改編され、翌昭和13年(1938年)3月12日に支那駐屯兵団と改称した際に支那駐屯歩兵第3連隊が設けられた。
支那駐屯軍廃止以前は支那駐屯歩兵旅団、廃止後は支那駐屯混成旅団、昭和13年(1938年)3月12日から支那駐屯兵団に、同年6月21日からは第27師団に属した。



独立歩兵連隊


独立歩兵連隊は関東軍の独立混成第11旅団に属していたが、後に第26師団に属することとなった。各独立歩兵連隊は第26師団に属して以降も「独立歩兵第○○連隊」を称し続けた。



その他の歩兵連隊


以上のほか、部隊名に「歩兵連隊」が含まれるが、特殊な性格のものとして以下がある。


  • 機動歩兵連隊:戦車師団に所属する機械化歩兵部隊。3個連隊が存在。


  • 滑空歩兵連隊:空挺部隊の一種でグライダーによる侵攻を行う。挺進団に属し大隊結節を持たず、実質は歩兵大隊規模。2個連隊が存在。


歩兵連隊の定員(明治23年平時編制)


明治23年(1890年)11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の歩兵連隊の平時定員は次の通りであった。1個連隊は3個大隊12個中隊から構成されていた。なお、本章において単に「軍曹」としたものは1等軍曹(判任官3等)又は2等軍曹(判任官4等)の意味である。また、諸工長は1等軍曹相当官であり、諸工下長は2等軍曹相当官である。


  • 連隊本部(連隊長以下41名、乗馬5匹)
連隊長:大佐又は中佐

連隊附:少佐


副官:大尉


連隊旗手:少尉

武器掛:軍曹


喇叭長:軍曹

書記2名:軍曹

2等軍医正(少佐相当官、3個大隊のうち1つの軍医を兼ねる)

縫工長又は縫工下長1名

縫工20名

靴工長又は靴工下長1名

靴工10名

  • 大隊本部(大隊長以下16名、乗馬3匹)

  • 中隊(中隊長以下136名)

この内、連隊長、連隊附少佐、連隊副官、2等軍医正、大隊長及び大隊副官が乗馬本分者であり、連隊長及び大隊長には乗馬2匹が用意される。


よって、連隊全体では、将校70名、准士官下士145名、兵卒1,440名、各部66名の総計1,721名、軍馬14匹が定員となっていた。



行事


軍旗祭等の行事も行われた。



陸上自衛隊




アメリカ陸軍



第二次世界大戦時


第二次世界大戦当時のアメリカ陸軍の歩兵連隊は総員3,068名で、編制は以下の通り。


  • 連隊本部および本部中隊(HHC: Headquarters and Headquarters Company)

  • 3個歩兵大隊
    • 本部中隊
      • 対戦車砲小隊(M1 57mm対戦車砲×3門)

    • 3個小銃中隊
      • 中隊本部

      • 3個小銃小隊

      • 火器小隊
        • 小隊本部(ブローニングM2重機関銃×1丁、バズーカ×5門)

        • 迫撃砲分隊(M2 60mm 迫撃砲×3門)

        • 機関銃分隊(ブローニングM1919中機関銃×2丁)



    • 重火器中隊
      • 1個迫撃砲小隊(M1 81mm 迫撃砲×6門)

      • 1個機関銃小隊(ブローニングM2重機関銃×4丁)



  • 対戦車砲中隊(M1 57mm対戦車砲×9門)

  • 火砲中隊(M3 105mm榴弾砲×6門)


  • 後方支援中隊

  • 衛生分隊

歩兵装備



  • ブローニング自動小銃M1918×135丁


  • ブローニングM1919重機関銃×60丁


  • ブローニングM2重機関銃×35丁


歩兵中隊は小銃3個小隊と火器小隊1個から編成され、火器小隊はM2 60mm 迫撃砲班3個と機関銃分隊2個からなっており、歩兵3個小隊を3門のM2 60mm 迫撃砲が支援するようになっていた。
M1 81mm 迫撃砲は重火器中隊の迫撃砲小隊に6門が配備され、3個歩兵大隊で1個連隊を構成していたので、合計で18門となった。



朝鮮戦争時


  • 3個歩兵大隊(823名)
    • 3個小銃中隊
      • 3個小銃小隊

      • 武器小隊
        • 迫撃砲分隊(M2 60mm 迫撃砲×3門)

        • 無反動砲分隊(M18 57mm無反動砲×2門)



    • 重火器中隊
      • 1個迫撃砲小隊(M1 81mm 迫撃砲×4門)

      • 1個無反動砲小隊(M20 75mm無反動砲×4門)

      • 1個機関銃小隊(ブローニングM2重機関銃×4丁)



  • 1個重迫撃砲小隊(M2 107mm迫撃砲×12門)

  • 1個戦車小隊(戦車×22両)

  • 1個後方支援小隊


1950年代中盤以降


1957年、アメリカ陸軍は、ペントミックとして知られる新しい編制を採用した。この編制では、従来の歩兵連隊の枠組みは解体され、かわりに、5個の連隊戦闘群が編制された。この連隊戦闘群は5個小銃中隊と戦闘支援中隊から編成されており、従来の歩兵連隊と歩兵大隊の中間的な規模であった。


ペントミック編制は1960年代初頭には見直され、ROAD再編成計画が発動された。これによってペントミック式の連隊戦闘群は解体されたが、歩兵連隊が再編されることはなく、大隊を基幹とする編制法に移行した。ただし、連隊の戦歴を継承するため、それぞれの歩兵大隊は、かつての所属連隊の名前を冠することとされた。ROAD計画以後も数度にわたって編制の見直しが行なわれたが、大隊を基幹とするという点は変化しておらず、現在、アメリカ陸軍には、常時編成される戦闘単位としての歩兵連隊は、第75レンジャー連隊(アメリカ特殊作戦軍指揮下)が存在するのみとなっている。また、第503歩兵連隊は、その名前を冠する大隊がいずれも第173空挺旅団戦闘団に所属していることから、事実上、連隊の編制が存続していると見なされることもある。



脚注




  1. ^ 『官報』第3306号、大正12年8月7日。


  2. ^ 『官報』第2673号、大正10年6月29日。


  3. ^ 『官報』第3306号、大正12年8月7日。



関連項目


  • 騎兵連隊

  • 砲兵連隊




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