水雷艇




水雷艇(すいらいてい、英語: torpedo boat)とは、各国海軍で使用されていた水雷装備で敵を攻撃する小型艦艇である。日本では通常、魚雷を主兵装とする魚雷艇とは区別されるが、水雷艇を魚雷艇ということもある。




目次





  • 1 歴史

    • 1.1 黎明期


    • 1.2 軍縮条約以後



  • 2 注釈・出典


  • 3 関連項目




歴史



黎明期





ルーマニア海軍 水雷艇 ナルカ


初期の水雷艇が装備していた水雷装備は魚雷ではなく、現在の機雷に近い外装水雷と連鎖水雷であった。南北戦争では、両軍により水雷艇が運用され、アメリカ連合国海軍が建造した半没式水雷艇のCSS デイヴィッド(英語版)は、装甲艦USS ニューアイアンサイズ(英語版)に大きな損害を与え、アメリカ合衆国海軍は汽船に外装水雷を取り付けて使用し、装甲艦アルバマールを撃沈している。


世界初の近代的な水雷艇は1873年にイギリスのソーニクロフト社がノルウェー海軍の注文により建造したラップ (Rap) であったが、当初は魚雷は搭載されず、外装水雷を装備していた。1876年にはイギリス海軍初の水雷艇であるHMS ライトニング(英語版) (HMS Lightning) が建造されている。


その後、自走式の水雷兵器である魚雷が開発されると水雷艇は安価で強力な兵器とされ、高価な大型戦闘艦を購入できない経済力に乏しい国の海軍に導入された。


水雷艇による最初の実戦は、当時水雷艇母艦の艦長であったステパン・マカロフによって、1878年1月14日に行われた。


初期の水雷艇は小型のため大型艦に搭載して運用することもでき(艦載水雷艇)、またフランスのフードルなど多数を搭載する専用の水雷艇母艦も建造された。


大日本帝国海軍では1880年にイギリスのヤーロー社に4隻の水雷艇を発注したのが最初の導入である。完成した形での水雷艇には外洋航海能力がないため、1881年に分解された状態で日本に運ばれ、横須賀造船所で組み立てられた。外装水雷の船で排水量40トン、全長29.4mの小型艦であったが、430馬力エンジンで17ノットの高速を発揮した。


日本では1894年の日清戦争までに24隻の水雷艇が配備され、威海衛攻撃に投入された。1904年までにさらに65隻が配備され、日露戦争のころまでにわずか24年ほどで89隻もの水雷艇を配備するまでに成長した。そして日本海海戦などでも積極的に水雷艇を作戦に投入し戦果を上げた。











































































明治時代の日本の水雷艇
タイプ初竣工年メーカー排水量(トン)速力(ノット)建造数
第一号型水雷艇1881年ヤーロー40174
小鷹1888年ヤーロー203181
第五号型水雷艇1892年シュナイダー542016
第二一号型水雷艇1894年ノルマン78202
第二二号型水雷艇1893年シーハウ832319
第二九号型水雷艇1900年ノルマン8922.52
隼型水雷艇1900年ノルマン15228.515
白鷹型1900年シーハウ123251
第三九号型水雷艇1901年ヤーロー1102710
第五〇号型水雷艇1900年ノルマン532010
第六七号型水雷艇1903年シーハウ8823.59

水雷艇の活躍に対して、水雷艇から戦艦などの主力艦を守るために水雷艇駆逐艦(後の駆逐艦)が開発されたため、水雷艇の有効性はほとんど失われてしまった。そして駆逐艦が攻撃のために魚雷を積んで水雷艇の役割を兼ねるようになった。
日本では1937年に竣工した鴻型水雷艇の5隻が最後となり、以降に建造されたものは駆逐艦となっていく。





暁型駆逐艦「霞」1902年
排水量400t



軍縮条約以後


1930年にロンドン海軍条約が締結され駆逐艦等の補助艦の保有が制限されると、日本は条約の制限外である基準排水量600t以下の補助艦艇として水雷艇の建造を開始し、条約を締結しなかったフランス、ドイツ、イタリアでも同種の艦艇が建造されはじめた。また、ノルウェー海軍のスレイプニル級駆逐艦は、駆逐艦の名を冠するもののその大きさは水雷艇に近似した物であった。これらは、小型の駆逐艦と呼べるほどのサイズになっていたが、日本を除いては北海や地中海の沿岸での運用を想定したものだった。


日本では、駆逐艦の代役を担わせる為に小型艦艇に身の丈を超えるような過大武装を施したため、友鶴事件に代表される転覆事故などを起こしており、ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約から脱退し無条約時代に入ると、水雷艇の建造はされなくなった。


ドイツ及びイタリアでは第二次世界大戦中も水雷艇の建造が行われたが、既にその船体はロンドン海軍軍縮条約によって定められた「駆逐艦」の域に達しており、後の型ほど大型化が進んだ。その兵装も船団護衛や機雷敷設などの任務に投入可能なように対潜水艦用のソナーや爆雷、対空機関砲、機雷敷設装備などを装備することが多く、その運用法は文字通り「小型駆逐艦」と言えるものとなっていた。特にドイツが建造した1939型艦隊水雷艇は基準排水量1,295t、全長102.5mに達している。またイタリアにおいても、旧型駆逐艦を水雷艇に類別変更している。


第二次世界大戦後、水雷艇(と駆逐艦)にとって一般的であった「高速で目標に肉薄し、魚雷斉射後に急速離脱する」戦法は、レーダーの発達により天候や昼夜を問わず魚雷の実用射程距離外から発見し砲撃で迎撃することが可能となったため、外洋における同戦法のリスクが飛躍的に高まり実用性が失われた。さらに第二次世界大戦における水雷艇の大型化と任務の汎用化(対潜・対空戦闘能力の付与・強化)は駆逐艦との違いをより一層曖昧なものにし、また魚雷そのものが対艦ミサイルに取って代わられたため、「駆逐艦より小型の戦闘艦」という位置づけは攻撃目的に特化したミサイル艇や、汎用目的に変更されたフリゲート艦・コルベット艦に取って代わられ、水雷艇という艦種は名実共に完全に消滅した。



注釈・出典





関連項目




  • 軍艦


  • 水雷 : 機雷 - 魚雷 - 爆雷

  • 友鶴事件


  • 駆逐艦 - 元々は、水雷艇駆逐艦として開発された。

  • 魚雷艇








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