丹羽長国
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凡例 丹羽 長国 | |
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保5年4月14日(1834年5月22日) |
死没 | 明治37年(1904年)1月15日 |
改名 | 保蔵(幼名)、長国 |
別名 | 五郎左衛門 |
戒名 | 長壽院殿 |
墓所 | 青山新墓地 |
官位 | 従四位下左京大夫兼侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 陸奥国二本松藩主 |
氏族 | 丹羽氏 |
父母 | 父:丹羽長富 母:松尾氏女 |
兄弟 | 長国、稲葉正邦、水野勝知 |
妻 | 正室:戸田氏正の娘 |
子 | 娘(丹羽長裕室)、娘(稲葉正邦養女) 娘(丹羽長徳室)、娘(丹羽長保室) |
丹羽 長国(にわ ながくに)は、陸奥二本松藩の第11代藩主。
目次
1 生涯
2 栄典
3 脚注
4 参考文献
生涯
天保5年(1834年)4月14日、二本松藩主・丹羽長富の六男として生まれる。幼名は保蔵。弘化3年(1846年)12月18日、従五位下越前守に叙任する。弘化4年12月16日、従四位下に昇進する。安政5年(1858年)10月11日、父長冨の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、侍従に任官する。文久3年(1863年)10月25日、上洛し、参内する。元治元年(1864年)4月9日、幕府から京都警備を命じられる。同年、従四位上に昇進する。慶応元年(1865年)9月5日、幕府から冬期の京都の警備を命じられる。
慶応4年(1868年)、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、官軍である明治新政府軍と戦ったが、各地で敗戦した。7月29日、二本松城は陥落した(二本松の戦い)。藩主長国は米沢藩に逃れた。9月10日、二本松藩は新政府に降伏し、藩主長国は謹慎を命じられた。10月23日、東京の前橋藩邸に移される。12月7日、新政府から隠居を命じられた。また、領地10万700石のうち5万700石を没収された。なお、家督は養子長裕が継いだ。
明治2年9月28日(1869年11月1日)、謹慎を解かれた。明治35年(1902年)5月3日、養孫にあたる長保の死去により、家督を再び相続して子爵を襲爵した[1][2]。なお、長保は、長裕の実弟であった。明治37年(1904年)1月15日に死去した。享年71(満69歳没)。跡を養子の長徳が継いだ。
なお、長国の長女峯は丹羽長裕夫人、五女鉏子は丹羽長徳夫人、六女花子は丹羽長保夫人となった。
栄典
1889年(明治22年)7月30日 - 正四位[3]
脚注
^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、333-334頁。
^ 『官報』第5647号、明治35年5月5日。
^ 『官報』第1828号「叙任及辞令」1889年8月2日。
参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
先代: 丹羽長保 | 丹羽子爵家 第14代:1902年 - 1904年 | 次代: 丹羽長徳 |
日本の爵位 | ||
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先代: 丹羽長保 | 子爵 (二本松)丹羽家第3代 1902年 - 1904年 | 次代: 丹羽長徳 |
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