東京ヴェルディ1969
東京ヴェルディ1969 | |
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原語表記 | 東京ヴェルディ1969 |
呼称 | 東京ヴェルディ |
クラブカラー | グリーン[1] |
創設年 | 1969年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | J2リーグ |
クラブライセンス | J1 |
ホームタウン | 東京都[1] |
ホームスタジアム | 味の素スタジアム[1] |
収容人数 | 48,999[1] |
運営法人 | 東京ヴェルディ株式会社 |
代表者 | 羽生英之[1] |
監督 | ギャリー・ジョン・ホワイト |
公式サイト | 公式サイト |
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 | 206-0812 東京都稲城市矢野口4015-1[1] |
設立 | 1991年10月1日[2] |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 8013401002036 |
事業内容 | サッカークラブの運営など |
代表者 | 羽生英之(代表取締役) |
資本金 | 2億8,225万8,000円[2] |
売上高 | 16億2,200万円 (2018年1月期)[3] |
営業利益 | 200万円 (2018年1月期)[3] |
経常利益 | 200万円 (2018年1月期)[3] |
純利益 | 100万円 (2018年1月期)[3] |
純資産 | 3,800万円 (2018年1月期)[3] |
総資産 | 3億8,000万円 (2018年1月期)[3] |
決算期 | 1月期 |
主要株主 | バディ企画研究所ほか13社 98.8% 京王エージェンシー 三和 稲城市、多摩市、日野市、立川市 (2010年10月30日現在) |
関係する人物 | 渡邉恒雄、崔暢亮 |
外部リンク | http://www.verdy.co.jp/ |
東京ヴェルディ1969(とうきょうヴェルディいちきゅうろくきゅう、Tokyo Verdy 1969)は、日本の東京都をホームタウンとする[1]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称は「東京ヴェルディ」(とうきょうヴェルディ)である。
目次
1 概要
2 名称・呼称
3 歴史
3.1 前身
3.2 1991年 - 2000年
3.3 2001年 - 2005年
3.4 2006年 - 2007年(J2)
3.4.1 2006年
3.4.2 2007年
3.5 2008年(J1)
3.6 2009年 -(J2)
3.6.1 2009年
3.6.2 2010年
3.6.3 2011年
3.6.4 2012年
3.6.5 2013年
3.6.6 2014年
3.6.7 2015年
3.6.8 2016年
3.6.9 2017年
3.6.10 2018年
3.6.11 2019年
4 成績
5 タイトル
5.1 国際タイトル
5.2 国内タイトル
5.3 個人別
5.4 その他
6 個人成績
6.1 ハットトリック
7 スタジアム・練習場
7.1 ホームスタジアム
7.2 練習場
8 ユニフォーム
8.1 チームカラー
8.2 ユニフォームスポンサー
8.3 ユニフォームサプライの遍歴
8.4 歴代ユニフォーム
8.5 歴代ユニフォームスポンサー年表
9 育成組織
9.1 アカデミー
9.2 支部・準支部・提携クラブ
9.3 主な獲得タイトル
9.3.1 ユース
9.3.2 ジュニアユース
9.3.3 ジュニア
10 女子サッカー
11 経営問題
11.1 ヴェルディ川崎
11.2 東京ヴェルディ1969
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
概要
1969年に創部された読売サッカークラブが前身[1]となり、1991年にJリーグへ加盟した[1](オリジナル10のひとつ)。クラブ名のヴェルディは、ポルトガル語の「Verde」(緑の意味)からの造語である[1]。エンブレムに描かれている鳥は始祖鳥。マスコットキャラクターはコンドルをモチーフにしたヴェルディくんである[1]。
運営会社商号(会社名)は東京ヴェルディ株式会社である(1998年までは株式会社読売日本サッカークラブ、1998年から2009年10月20日までは株式会社日本テレビフットボールクラブ、2017年9月までは東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社の商号)[1]。
ホームスタジアムは味の素スタジアム[1]、クラブハウス・練習場はヴェルディグラウンド[1](東京都稲城市と川崎市多摩区に跨って位置するよみうりランドの敷地内)を、トップチームとアカデミーが一緒に使用している(詳細はスタジアム・練習場を参照)。
名称・呼称
チーム名(正式名称)は、Jリーグ加盟から1999年1月31日までは「読売日本サッカークラブ」、同年2月1日より2009年10月20日までは「FCニッポン」[4][注 1]、2009年10月21日以降は現名称の「東京ヴェルディ1969」となっている。
ホームタウンを東京都に移転した2001年に、ヴェルディ川崎から東京ヴェルディ1969に改称。この1969は、1969年に前身の読売サッカークラブが創設されたことに由来する。2008年より「東京ヴェルディ」に呼称を変更した。
新聞社のスポーツ欄掲載の記録ページでは、1998年までは単に「川崎」と表していたが、1999年から川崎フロンターレ (川崎F)がJリーグへ加盟したため、「V川崎」(ナビスコ杯に川崎Fも参加したため、1997年以後この表記)としていた。東京移転後の2001年からは、FC東京と区別するため、「東京V」としている。一部新聞等では、「東京ヴ」と表記していることもある。
- チーム名の変遷
- 1969年-1991年 読売サッカークラブ
- 1991年-1998年 読売日本サッカークラブ
- 1999年-2009年 FCニッポン[注 1]
- 2009年-東京ヴェルディ1969
- 呼称の変遷
- 1969年-1991年 読売サッカークラブ
- 1992年-2000年 ヴェルディ川崎
- 2001年-2007年 東京ヴェルディ1969
- 2008年-東京ヴェルディ
歴史
前身
1969年に読売サッカークラブとして創設。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)2部に、1978年にJSL1部にそれぞれ昇格した。JSL1部で優勝5回、天皇杯優勝5回、JSLカップ優勝3回の戦績を残した。
1991年 - 2000年
1991年10月、Jリーグ開幕に備えて、読売新聞社、株式会社よみうりランド、日本テレビ放送網の讀賣グループ3社の出資により運営会社として株式会社読売日本サッカークラブが設立された。東京都にJリーグの規格に合ったスタジアムがなく、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地とし、当初の収容人員は規格外であったが、1995年までに25,000人収容となった。
Jリーグ発足前後の92年から93年にかけて、クラブの出資者である、読売系のメディアを中心として読売ヴェルディと言う呼称が用いられていた[注 2]。Jリーグはチーム名表記に際して企業名を排除してホームタウンの自治体(都道府県名、ないしは市区町村名)+ニックネームで使用する方針を定めていたため、1994年のシーズン開幕前から読売系メディアでも「ヴェルディ川崎」に表記を統一するようになった。
1992年のJリーグカップ(ナビスコ杯)で清水エスパルスを破り、初代王者に輝く。
1993年Jリーグ開幕節(5月15日)で横浜Mと対戦、オランダ人FWのヘニー・マイヤーがJリーグの第1号ゴールを決めた(試合は1-2で敗北)。1stステージは優勝した鹿島アントラーズに次ぐ2位であったが、2ndステージは優勝した。Jリーグチャンピオンシップで鹿島を破り、初代Jリーグ年間王者となった。ナビスコ杯も2連覇を果たした。
1994年も2ndステージを制覇。1stステージ制覇のサンフレッチェ広島F.Cをチャンピオンシップで破り、2年連続の年間王者となった。ナビスコ杯3連覇を果たす。天皇杯はジャパンフットボールリーグ(旧JFL)優勝のセレッソ大阪に敗戦。
1993年から1995年のJリーグチャンピオンシップは国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた。1994年の2ndレグの試合は等々力で開催されることが一度決まっていたが、等々力は芝生の状態が思わしくなかったことや、改修工事の第2期を行うことが決まっていたこともあり、等々力での開催を返上。国立での開催を決めたが、当初予定の11月30日は翌12月1日に行われるトヨタカップのための練習を行った関係で使えず、12月2日に延期した。
1996年、エメルソン・レオンが監督に就任。天皇杯で優勝もリーグ戦では7位に終わった。また、5月にラモス瑠偉が京都へ移籍した。
1997年、加藤久が監督就任。ビスマルクが退団。当時最高金額の移籍金である推定3億5千万円で前園真聖を獲得。8月にラモスが復帰した。しかし、前園と三浦知良の不調とビスマルクの抜けた穴の影響は大きく、チーム成績は1stステージ16位、2ndステージ12位と初の2桁順位に低迷。
1998年シーズン終了後に読売新聞社とよみうりランドが経営から撤退し、日本テレビ放送網の全額出資となる。それに伴い運営法人名は「株式会社読売日本サッカークラブ」から「株式会社日本テレビフットボールクラブ」、トップチーム名は「FCニッポン」に変更された。同時に経費削減を目的に三浦や柱谷哲二ら高額年俸の選手がチームを去った。
1999年には前年より導入された現役高校生を強化指定選手(現在の特別指定選手)として受け入れを開始、その3選手のうち最年長で帝京高等学校3年(義務教育終了4年目)矢野隼人が「J1公式戦出場した強化指定選手」第1号となった。リーグ戦では1stステージ2位。また中澤佑二がチームとしては3年振りのベストイレブンに選出された。2ndステージは10位に留まった。
2000年2月15日のJリーグ理事会において翌年からの東京都移転が承認された[5]。
2001年 - 2005年
- クラブスローガン :2002年「突破」 :2003年「BE TOUGH ~疾風怒涛~」 :2004年「STRONG SOUL」
2001年にホームタウンを川崎市から東京都[注 3] に移転し、呼称も東京ヴェルディ1969となり、ホームスタジアムを調布市の東京スタジアム(現:味の素スタジアム)にした。練習場のある稲城市の他、周辺の多摩市、日野市や清水建設、京王電鉄系列の広告代理店である京王エージェンシーなど地元企業も出資し、日本テレビの出資比率は約79%となった。2008年に立川市も出資した。
チーム名が変わった2001年シーズン、チームは松木安太郎を再び監督に招聘し、菊池・武田・永井といった黄金期を知るメンバーが復帰、また元サッカー日本代表の小倉隆史・三浦淳宏が移籍加入し、さらに小林大悟や富澤清太郎が加入。1stステージは最下位。成績不振とフロントとの確執もあり松木は1stステージ終了をもって解任、監督を小見幸隆に代えて迎えた2ndステージではシーズン中盤に獲得したマルキーニョス、さらに終盤に獲得したブラジル代表のエジムンドのブラジル人コンビが2ndステージでチームが挙げた22得点の内14得点を叩き出して9位。年間総合順位で自動降格圏の15位福岡との勝ち点差わずか3の14位で残留。天皇杯はJ2の川崎フロンターレに敗れベスト8敗退。この年限りで武田修宏、菊池新吉、本並健治が引退。小倉が戦力外を受けコンサドーレ札幌に移籍。
2004年、アルディレス体制2年目。天皇杯全日本サッカー選手権大会を制し、東京移転後初のタイトルを獲得。同日行われた全日本女子サッカー選手権大会では女子チームのベレーザが優勝し、全日本選手権初の男女同時優勝を達成。
2005年、アルディレス体制3年目。ゼロックス杯で優勝。ブラジル全国選手権得点王のワシントンを獲得したが、7月2日のG大阪戦、7月6日の浦和戦、7月17日の磐田戦での大量失点が響き、アルディレスが解任され、バドンが監督に就任したが、11月26日の柏戦で1-5の大敗を喫し、J2降格が決まった。シーズン修了後にバドンは退任。また、22点を挙げたワシントンが浦和へ完全移籍、林健太郎、米山篤志などが退団した。天皇杯優勝によって獲得したAFCチャンピオンズリーグ2006の出場権がJ2降格によって剥奪されるのではないかと心配されていたが、AFCから出場が認められた。
2006年 - 2007年(J2)
2006年
- クラブスローガン :「All for win.」
OBのラモス瑠偉が監督に就任。開幕後、課題とされた失点の多さは解消されなかった。スタメンがほぼ毎試合ごとに入れ替わり、デジマール、ヒキ、アナイウソン、バジーリオの外国籍選手4人はシーズン途中に解雇。最終順位は7位であった。天皇杯は初戦で栃木SC(当時はJFL所属)に敗退した。
2007年
- クラブスローガン :「全緑疾走!」
ラモス体制2年目。選手会長だった柳沢将之を含めて選手を大量に放出。新たに元日本代表の服部年宏、名波浩を始め土屋征夫、佐藤悠介などを獲得。外国籍選手では既に契約を更新していたマルクスが横浜FMへ移籍したが、フッキ、ディエゴを獲得。また、新人選手も7人が加入、結果的に約半数のメンバーが入れ替わった。萩原敏雄代表は「内容が悪ければ早期での解任もありえる」と発言した。
開幕5試合は4勝1分であったが、第7節(福岡戦)から第13節(水戸戦)までクラブワーストタイの7連敗を喫し9位へ転落。ラモスの解任騒動に発展したが、京都戦に4-1で快勝するとその後は1度の連敗もなく安定して勝ち点を積み重ね、最終節で優勝は逃したが2位の成績でJ1復帰を果たした。また、フッキが37ゴールを挙げてJ2得点王となった。シーズン終了後にラモスが監督を退任して、エグゼクティブディレクターになり、柱谷哲二が監督に就任した。天皇杯は初戦でJFLのHonda FCに敗退。
2008年(J1)
- クラブスローガン :「全緑疾走2008闘強」
柱谷体制1年目。呼称が「東京ヴェルディ1969」から「東京ヴェルディ」に変更された。FC東京から元日本代表MF福西崇史やGK土肥洋一、横浜FMからDF那須大亮、清水からDF和田拓三を獲得。新外国人としてサンパウロFCからFWレアンドロ、6月に大黒将志を獲得した。前シーズン後に川崎にレンタル復帰していたフッキを開幕後に再度獲得したが、7月にFCポルトに移籍した。
初勝利は第5節の神戸戦となるが、フッキ加入後は次第に勝ち星が増え始める。しかしフッキ退団後には思うように勝てなくなり、9月には4戦全敗を喫する。終盤には、チームの攻撃の核であるディエゴを累積警告と天皇杯での退場による4試合出場停止で欠き、深刻な得点力不足に陥る上に試合終了間際での失点なども増えていき、第33節終了時点で16位。最終節で川崎に敗れ、17位だった千葉が勝利したため最終順位が17位となり、J2自動降格が決まった。柱谷はシーズン終了後に監督を退任した。
親会社の日本テレビが37年ぶりに赤字に転落。その影響を受け2009年の費用は大幅に削減されることとなり、土肥、服部、福西など多くの主力選手と来期の契約を結ばないことを発表(土肥と服部は再契約という形で残留)。日本テレビがほぼ100%保有している株式の譲渡を検討していることが一部マスコミに報じられた。
2009年 -(J2)
2009年
- クラブスローガン :「VERDY 40EVER(ヴェルディ フォーエバー)」
クラブ設立40周年となるこの年は、前年コーチを務めた高木琢也が監督に就任。那須が磐田、ディエゴが京都へ移籍。和田もレンタル元の清水へ戻った後、千葉へ移籍。2008年はJ2のクラブへのレンタル移籍であった戸川健太と一柳夢吾も、レンタル先へ完全移籍した。新たに、横浜FCで高木と共にJ1昇格を経験した滝澤邦彦と岩倉一弥、磐田のベテランMF河村崇大、ジュニアユース時代に東京Vに所属していた永里源気を獲得。過去2年レンタル移籍していた弦巻健人とレオナルドが復帰、大黒も残留した。そして、一度は戦力外と発表された土肥、服部、船越優蔵と再契約を結んだ。
胸スポンサーのサイバーエージェントが撤退後、この年は年間通して胸スポンサーが入らなかった。高木をシーズン途中で解任。ベレーザ前監督、ユース監督の松田岳夫をトップ監督に昇格させたが、1度も昇格争いに絡むことなく7位でシーズンを終えた。天皇杯は初戦でJFL・ホンダロックに敗北。9月に日本テレビが経営から撤退した。
2010年
- クラブスローガン :「結集のチカラ」
川勝良一が3度目の監督に就任。服部、高木義成らと契約を更新せず、資金難により2009年の大卒新人3人を全員放出。レアンドロ、大黒と攻撃陣の核となっていた選手も放出され、16人がクラブを去った。新たに加わった選手は川勝の法政大学時代の教え子である吉田正樹や菊岡拓朗、アカデミー出身の佐伯直哉、清水康也など12人である。選手人件費はレンタル移籍している選手を除いて1億3000万円程度となった[6]。ユースからは前年Jリーグデビューを果たした高木俊幸が昇格し、2010年シーズンから高木善朗、小林祐希、南秀仁がユース所属のままJリーグデビューした。J2へ昇格した北九州に初勝利かつ唯一のシーズン勝利を献上するなど一時は18位に低迷。その後巻き返して4位にまで浮上したが、11月20日に福岡に敗れてJ1昇格を逃し、5位でシーズンを終えた。天皇杯は初戦で町田に敗れ、6年連続の初戦敗退となった。
2011年
- クラブスローガン :「原点回帰~All for VERDY~」
川勝体制2年目。この年よりエンブレムの文字が「FC NIPPON」から「FOOTBALL CLUB」へと変更された[7]。前年チーム内で最長出場の柴崎晃誠が川崎フロンターレに、得点数2位の高木俊幸が清水エスパルスに移籍した。小林祐希ら4人をユースより昇格させ、川崎で契約非更新となっていた森勇介や、期限付き移籍で岡山からキムテヨン、喜山康平(4年ぶりの復帰、8月にJFL・讃岐へ移籍)、大宮から市川雅彦、甲府からマラニョンなどを獲得。6月に高木善朗がエールディヴィジ・FCユトレヒトへと移籍した。7月には、元京都の中谷勇介、元アルテ高崎の秋葉勇志を獲得。ジュニアコーチの塗師亮を選手登録し、関西学院大学の梶川諒太を特別指定選手として登録した。8月には、元日本代表の巻誠一郎を獲得した。J1昇格争いに加わっていたが最終的に5位に終わりJ1昇格を逃した。なお、天皇杯は7年ぶりに初戦を突破した。
2012年
- クラブスローガン :「One.」
川勝体制3年目。17年在籍していた菅原智が引退。富澤清太郎が横浜F・マリノス、河野広貴がFC東京、菊岡拓朗が栃木SC、井上平がFC岐阜、福田健介がヴァンフォーレ甲府、吉田正樹が松本に完全移籍、北九州にレンタル移籍していた福井諒司が柏に完全移籍、平繁龍一、市川雅彦がレンタル移籍期間満了となった。一方、千葉から昨シーズンC大阪にレンタル移籍していた中後雅喜、愛媛からジョジマール、吉弘充志、草津からアレックス、磐田から西紀寛、京都から鈴木慎吾、水戸から小池純輝、大分から刀根亮輔、G大阪から太洋一を完全移籍で獲得。仙台から島川俊郎を期限付き移籍で獲得した。さらに昨シーズン特別指定選手だった梶川諒太が加入した。また杉本竜士、南秀仁、舘野俊祐、田中貴大がユースから昇格し、2月に中島翔哉が2種登録選手として登録された。
コーチ陣は、元柏監督の高橋真一郎と元京都監督の秋田豊がトップチームコーチに就任した。
シーズン開幕後は3月28日に杉本健勇をセレッソ大阪より同年7月17日までの期限付き移籍で、6月1日に練習に参加していたペ・デウォンを獲得した。杉本がC大阪に戻った後、7月26日に柴崎晃誠を川崎より2013年1月31日までの期限付き移籍で、7月28日に日系三世のニコラスがCRフラメンゴより2013年1月1日までの期限付き移籍で、8月13日に松本から木島良輔を完全移籍で、8月14日にジミー・フランサを清水より2013年1月31日までの期限付き移籍で獲得した。
6月23日に行われた第20節で千葉に勝利して首位に立ち、リーグ戦前半は2位で折り返した。しかし8月に入ると勝利から遠のくようになり、8月23日にジョジマールとの契約を解除。9月6日に川勝が監督および強化本部長を退任。高橋が監督代行の後、9月11日に監督に就任したが、第41節の横浜FC戦に敗れ、7位以下が確定。プレーオフ進出を逃した。最終順位は7位。天皇杯は3回戦で清水に敗退。シーズン終了後に高橋が監督を退任した。
2013年
- クラブスローガン :「TOKYO GLOCAL[注 4] STANDARD」
2012年11月25日、OBで前北九州監督の三浦泰年の監督就任が発表される。それに伴い、常盤聡、安田晃大、佐藤優也、金鐘必、関光博ら5選手が北九州からいずれも完全移籍、北九州に在籍した時に三浦監督の元でプレーした柏の福井諒司が完全移籍で復帰、北九州にレンタルしていたキローラン菜入、キローラン木鈴が復帰など北九州に在籍した選手を数多く獲得した。その他福岡から鈴木惇、清水から高原直泰が完全移籍、湘南から石神直哉が期限付きで加入。ユースからは楠美圭史、安在和樹、ポープ・ウィリアム、吉野恭平、前田直輝が昇格し、中島翔哉も正式に登録された。さらに特別指定選手だった関西学院大学の井林章が加入した。
一方、佐伯直哉、中谷勇介、木島良輔、吉弘充志、アレックス、秋葉勇志、新井章太、竹中公基との契約を更新せず、期限付き移籍だったジミー・フランサ、柴崎晃誠も所属元に復帰、磐田にレンタル移籍していた小林祐希がそのまま磐田に移籍、和田拓也が仙台、高橋祥平が大宮、梶川諒太が湘南、土屋征夫が甲府、深津康太、吉弘充志が町田へそれぞれ完全移籍した。また柴崎貴広が横浜FC、田中貴大と北九州に期限付き移籍していた高野光司が町田へいずれも期限付き移籍し、町田に期限付き移籍していた平本一樹は甲府へ期限付き移籍、富山に期限付き移籍中の舘野俊祐は移籍期間1年延長となったため、チームの陣容が大幅に入れ替わることとなった。
2月19日、カマタマーレ讃岐との練習試合で、ペ・デウォンが接触プレイにより讃岐の藤田浩平に右足関節開放性脱臼骨折の重傷を負わせ、クラブ公式ホームページに謝罪文を掲載する事態に発展、さらに同試合における三浦の言動も問題視され、「選手を守るためであったとはいえ、決して許される行為ではない」として、三浦はリーグ戦開幕節および第2節のベンチ入り停止、ペは最長3月一杯まで対外試合出場停止というクラブの自主的処分が下された[8]。7月2日、ニコラスが期限付き移籍が終了でフラメンゴに復帰し、7月5日には練習に参加していた三渡洲舞人を獲得した。
7月9日、ジュニアからユースまで東京Vに所属していた慶応義塾大学の端山豪を特別指定選手として登録した。
リーグ戦は第6節のFC岐阜戦で初勝利を上げた後も勝ち切れない試合を重ねていく。怪我人も相次ぎ、2連勝以上の連勝も一度も無く、最終成績は14勝14分14敗での13位。
天皇杯は3回戦で川崎Fに敗退した。
2014年
- クラブスローガン :「ONE FLAG」
三浦体制2年目。アカデミー出身で長年クラブを支え2013年度の主将を務めた飯尾一慶が小池純輝と共に横浜FC、中島翔哉がFC東京(2014年はシーズン途中まで富山へ期限付き移籍)、刀根亮輔が名古屋、巻誠一郎が熊本、西紀寛がポリス・ユナイテッドFCなど2013年度の主力選手が数多く移籍。また吉野恭平は広島に完全移籍しレンタルバックの形で残留(8月6日にレンタル期限が終了し、広島に移籍した)。
一方仙台から田村直也、日本体育大学から北脇健慈を獲得。ユースから澤井直人、菅嶋弘希、安西幸輝、畠中槙之輔が昇格し、期限付き移籍していた舘野俊祐、田中貴大、南秀仁、杉本竜士、柴崎貴広、平本一樹が復帰。清水から姜成浩を同年7月31日までの期限付き移籍で獲得。また新外国人のギリャルメとニウドも期限付きで加入した。コーチは寺門大輔、間瀬秀一から久永辰徳、安田好隆になった。 選手の多くはアカデミー出身で若いメンバーとなった。
シーズン開幕後に昨年度チーム得点王の高原直泰が相模原に期限付き移籍し、前年まで琉球に所属した永井秀樹が6年ぶりに復帰した。また8月13日にオペラリオに所属していたアブダを獲得した。
第31節終了後、J3降格圏寸前の20位に低迷していたため監督の三浦を解任。また、安田好隆、吉岡宏の両コーチも解任、久永辰徳も辞任した[9]。後任の監督には東京Vユース監督の冨樫剛一が就任、コーチには、なでしこリーグの日テレ・ベレーザのコーチをしていた村田達哉、GKコーチには育成GKコーチだった土肥洋一が就任、さらに竹本一彦をテクニカルダイレクターに招聘した。
監督交代後も勝ち切れない試合が続き、年間順位は20位でクラブ史上最低の順位となった。天皇杯は2回戦で北九州に敗戦した。
2015年
- クラブスローガン :「ONE FLAG 野心」
冨樫体制2年目。常盤聡が熊本、鈴木惇が福岡、金鐘必が湘南、ニウドが札幌、キローラン菜入が松本、田中貴大が関東1部・ブリオベッカ浦安、舘野俊祐が中国1部・松江シティFCに移籍し、アブダが契約満了により退団した。また相模原に期限付き移籍していた高原直泰と前年8月から岐阜に期限付き移籍していた森勇介が共に相模原に完全移籍し、前田直輝が松本に、楠美圭史がJFL・V大分にそれぞれ期限付き移籍した。
一方、ユースから三竿健斗と中野雅臣を昇格させ、かつて共に東京Vユースに所属していた中央大学の渋谷亮と駒澤大学の大木暁を獲得。外国人選手は中国の深圳紅鑽足球倶楽部からブルーノ・コウチーニョ、相模原からウェズレイ、香港リーグの南華足球隊に所属していた高敬竣を完全移籍で、ECヴィトーリアからアラン・ピニェイロを期限付き移籍で獲得した。また、前年7月から鳥取に期限付き移籍していた安田晃大が復帰した。選手の平均年齢は24.95歳となり、同年のJ1・J2リーグで最も若いチームとなった。
スタッフ面では竹本一彦がゼネラルマネージャーに就任。通訳には2012年に加入し、その後は育成GKコーチなどを務めた藤井隆昌がトップチームに復帰。トレーナーには三浦雄大と東京農業大学サッカー部から能登篤史が加わった。
目標を「勝点60以上で9位以内」と掲げ、シーズン前半は8勝7分6敗の8位で折り返した。7月に北脇健慈がFC鈴鹿ランポーレに、キローラン木鈴が秋田に、安田晃大が愛媛にそれぞれ期限付き移籍し、清水から高木善朗が期限付き移籍で4年半ぶりに復帰した。
第24節から5連勝、特に5連勝目の第28節横浜FC戦では6-1と圧勝し、同節終了時点で、J1自動昇格圏の2位磐田に勝点差2と迫る3位にまで順位を上げたが、その直後の第29節から14試合の間に無得点の試合が10試合、合計でも僅か6得点(17失点)と不調に陥り2勝3分9敗と低迷、それでも最終節まで昇格プレーオフ圏内の6位となる可能性を残していたが、最終節でC大阪に敗れてPO進出を逃した。最終順位は8位で、目標の9位以内には入ったものの、勝点は58で目標の60に達しなかった。
天皇杯は2回戦で大宮アルディージャに敗戦した。
2016年
- クラブスローガン :「ONE FLAG 真価」
冨樫体制3年目。ブルーノ・コウチーニョ、高敬竣、秋田に期限付き移籍していたキローラン木鈴が退団し、松本へ期限付き移籍していた前田直輝が横浜FM、福井諒司が山口、佐藤優也が千葉、三竿健斗が鹿島、安田晃大が期限付き移籍先の愛媛へ完全移籍、ポープ・ウィリアムが岐阜、畠中槙之輔が町田、渋谷亮が鈴鹿、菅嶋弘希が千葉へ期限付き移籍した。
一方、岐阜から太田岳志、町田から平智広、ナウチコからドウグラス、タイ2部・エアフォース・ユナイテッドFCから船山祐二、清水から高木純平を完全移籍で、横浜FMから鈴木椋大を期限付き移籍で獲得。また、期限付き移籍していた北脇健慈、楠美圭史が復帰し、アラン・ピニェイロは完全移籍に移行、高木善朗の期限付き移籍期間が延長された。
ユースからは林昇吾、井上潮音、郡大夢が昇格し、 スタッフ面では仙台でアカデミースカウトを担当していた蓮見知弘がトップチームのコーチに就任した。
7月にG大阪から二川孝広を、新潟から林裕煥を期限付き移籍で獲得(9月に退団)し、郡大夢をグルージャ盛岡に期限付き移籍させた。
2012年以来となる開幕戦勝利をしたものの、その後は第5節から13節まで9試合未勝利、アウェイ戦は僅か2勝、1度も連勝できない等と成績は低迷。J2残留争いに巻き込まれたが、第41節でJ2残留を決め辛くもJ3降格を免れた。前年度より大きく順位を落として18位となった。シーズン終了後、冨樫監督は退任、さらに村田達哉、蓮見知弘両コーチ、土肥洋一GKコーチも退任し首脳陣が総入れ替えとなった。
天皇杯は3回戦で横浜F・マリノスに敗戦した。
2017年
- クラブスローガン :「ONE FLAG KIZUKU」
新監督にミゲル・アンヘル・ロティーナが就任。2005年のバドン以来12年ぶりの外国人監督となる。
スタッフ面ではトップチームコーチに藤吉信次とイバン・パランコ・サンチアゴ、GKコーチに沖田政夫、トップチーム通訳兼コーチに菅原智、フィジカルコーチに青柳雅人、トップチームアシスタントコーチにサワ・サシック、そして昨年引退した永井秀樹がユース監督兼GM補佐に、前監督の冨樫剛一が強化部ダイレクターに就任した。7月25日よりスペイン人のトニ・ヒル・プエルトがコンディショニングコーチに就任した。
前述の永井秀樹の他に船山祐二が引退。北脇健慈がYS横浜、楠美圭史がJFL・FC今治、南秀仁が山形、杉本竜士が名古屋、鈴木椋大がG大阪、ウェズレイがアナポリスFCへ完全移籍。大木暁が長野、渋谷亮がJFL・ラインメール青森FC、郡大夢がG大阪、ポープ・ウィリアムが川崎へそれぞれ期限付き移籍し、菅嶋弘希は千葉への期限付き移籍期間が延長された。
新戦力として浦和から永田充、長崎から梶川諒太、町田から内藤圭佑、C大阪から昨年長野に在籍していた橋本英郎を完全移籍で、C大阪から武田博行、G大阪から内田達也を期限付き移籍で獲得し、高木善朗が完全移籍に移行。町田へ期限付き移籍していた畠中槙之輔が復帰し、二川孝広の期限付き移籍期間が延長された。
ユースからは前年2種登録されていた渡辺皓太が昇格した。
7月にビジャレアルCF Bからカルロス・マルティネスを獲得し、中野雅臣がFC今治へ期限付き移籍した。
開幕戦は徳島に敗れたが、その後は守備を改善し[10]、アラン、ドウグラスの2人を中心とする攻撃陣の活躍で第2節から第6節の5連勝、第27節から第30節の4連勝、第34節から第38節の4連勝などで勝ち点を積み重ねた。第40節で山口に逆転負けして7位に落ちたが、第41節の京都戦と最終節の徳島戦に勝利して最終順位は5位。チーム史上初のJ1昇格プレーオフ進出を決めた。
昇格PO準決勝はえがお健康スタジアムで福岡に0-1で敗れた。
天皇杯は2回戦で千葉に敗戦した。
2018年
- クラブスローガン :「ONE FLAG KIZUKU」(昨年と同じ)
ロティーナ体制2年目。平本一樹と高木純平、中後雅喜、内藤圭佑が現役を引退。高木善朗が新潟、安西幸輝が鹿島、安在和樹が鳥栖、大木暁が栃木ウーヴァ、ポープ・ウィリアムが期限付き移籍先の川崎へ完全移籍。高木大輔が山口、太田岳志が富山、渋谷亮が北海道十勝スカイアースへ期限付き移籍し、中野雅臣はFC今治への期限付き移籍期間が延長された。
新加入選手は大分から上福元直人、讃岐から李栄直、千葉から比嘉祐介と若狭大志、水戸から林陵平、群馬から高井和馬、山形から佐藤優平を完全移籍で、新潟から森俊介、湘南から奈良輪雄太を期限付き移籍で獲得。日本体育大学から長谷川洸が加入し、ユースからは藤本寛也が昇格した。内田達也と武田博行が完全移籍に移行し、千葉に期限付き移籍していた菅嶋弘希が復帰。2月13日、G大阪への期限付き移籍契約満了に伴い今季から復帰する予定だった郡大夢が日本サッカー協会選手契約書内における第9条『クラブの秩序風紀を乱す行為』という条項の違反があったため契約解除となった。二川孝広は期限付き移籍期間が再度延長されたが、3月29日に栃木SCへの期限付き移籍が発表された。
6月22日、カルロス・マルティネスが家族の事情によりクラブと本人の双方合意の上で契約を解除して、スペイン3部のエルクレスCFに移籍。7月10日に高井和馬が山口に、8月21日に畠中槙之輔が横浜F・マリノスに完全移籍し、澤井直人がヴェルディと提携したフランスのACアジャクシオに期限付き移籍した。一方、6月25日にG大阪から泉澤仁、8月21日に長崎から香川勇気を期限付き移籍で、7月5日に神戸からレアンドロを完全移籍で獲得した。
開幕から10試合負け無し(4勝6分け)と好調なスタートを切るが、11節から4連敗して一時は14位にまで順位を下げた。6月からは調子を取り戻し、夏に加入した泉澤や香川の活躍もあり、J2上位争いに加わる。大混戦となった上位争いを生き残り、最終結果は勝ち点71を獲得しての6位。2年連続のプレーオフ進出を成し遂げた。
J1参入プレーオフ1回戦はNACKスタジアム大宮で大宮を1-0で、2回戦はニッパツ三ツ沢球技場で横浜FCを1-0で破るが[11]、決定戦はヤマハスタジアムでJ1・16位となった磐田に0-2で敗れ、11シーズンぶりのJ1昇格を逃した[12]。決定戦の翌日、監督のロティーナとコーチのイバンの退任が発表された[13][14]。
天皇杯は4回戦で浦和レッズに敗戦した。
2019年
新監督にギャリー・ジョン・ホワイトが就任[15]。
成績
タイトル
国際タイトル
サンワバンクカップ:1回- 1994
国内タイトル
J1リーグ- 年間優勝:2回
1993, 1994
- 2ndステージ:3回
- 1993, 1994, 1995
- 1993, 1994, 1995
- 年間優勝:2回
Jリーグカップ:3回
1992, 1993, 1994
天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回
1996, 2004
FUJI XEROX SUPER CUP:3回- 1994, 1995, 2005
個人別
J1リーグ- 最優秀選手(MVP)
1993年 - 三浦知良
1994年 - ペレイラ
ベストイレブン
1993年 - 柱谷哲二、ペレイラ、ラモス瑠偉、三浦知良
1994年 - 菊池新吉、ペレイラ、柱谷哲二、北澤豪、ラモス瑠偉、ビスマルク、武田修宏
1995年 - 菊池新吉、柱谷哲二、ビスマルク、三浦知良
1996年 - 三浦知良
1999年 - 中澤佑二
得点王
1996年 - 三浦知良
新人王
1999年 - 中澤佑二
2004年 - 森本貴幸
- フェアプレー個人賞
2000年 - 米山篤志
2004年 - 高木義成
- 最優秀選手(MVP)
Jリーグカップ- 最優秀選手(MVP)
1992年 - 三浦知良
1993年 - ビスマルク
1994年 - ビスマルク
- 最優秀選手(MVP)
J2リーグ
得点王
2007年 - フッキ
その他
J2リーグ
フェアプレー賞 - 2017、2018
個人成績
ハットトリック
- J1
- 3得点
武田修宏 (1993年11月6日 2nd第10節 G大阪戦)
三浦知良 (1993年12月8日 2nd第17節 浦和戦)
ベンチーニョ (1994年8月17日 2nd第3節 磐田戦)- 三浦知良 (1995年9月2日 2nd第6節 鹿島戦)
- 三浦知良 (1995年9月13日 2nd第9節 横浜F戦)
- 三浦知良 (1996年11月6日 Jリーグ第29節 市原戦)
高木琢也 (1998年4月29日 1st第9節 福岡戦)
平本一樹 (2005年4月28日 J1第8節 名古屋戦)
ワシントン (2005年10月1日 J1第26節 磐田戦)
- J2
- 3得点
- 平本一樹 (2006年4月15日 J2第9節 草津戦)
フッキ (2007年5月6日 J2第14節 対京都戦)- フッキ (2007年7月11日 J2第27節 仙台戦)
- フッキ (2007年9月2日 J2第38節 草津戦)
ディエゴ (2007年9月30日 J2第43節 札幌戦)
平繁龍一 (2011年5月14日 J2第12節 北九州戦)
中島翔哉 (2012年10月21日 J2第39節 栃木SC戦)
スタジアム・練習場
ホームスタジアム
読売クラブ時代は、練習場がよみうりランド内にあったため、日本サッカーリーグ(JSL)のホームゲームは駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場や等々力陸上競技場を利用していた。また、育成組織の選手達も東京都と神奈川県にまたがる地域から集まっていた。
Jリーグ加盟後、V川崎時代(ホームタウンは川崎市)は等々力陸上競技場をホームスタジアムとしていた(その他の開催スタジアムは「当項目」を参照)。
Jリーグ発足年の1993年、東京都のアメリカ軍調布基地跡地に「武蔵野の森スタジアム(仮称)(現:味の素スタジアム)構想が持ち上がると、V川崎は、同地への移転構想を発表し、調布市も市議会定例会で「プロサッカーチーム誘致に関する決議」を全会一致で決定するなど[16]、積極的に誘致に乗り出した。数年後のスタジアム完成までの本拠地が不透明で、なおかつJリーグ開幕初年度での移転構想という事もあり、地域密着理念の全面否定と受け取ったJリーグは拒絶した。また、等々力陸上競技場の大規模改修に着手した時点での移転通告を受けた川崎市が反発し[17]、移転には同意しないと通告。調布市も非難の声が寄せられたこともあり[18] 誘致の前提条件として円満解決を提示[17]。程なくして、V川崎はJリーグ実行委員会からの白紙撤回勧告を了承することになり移転は立ち消えた[17]。
1999年10月、再度東京への移転構想を発表した[19]。「東京スタジアム」の2001年からの開業が見込まれており(なお、東京都内では東京ガスサッカー部(現在のFC東京)が「東京スタジアム」の将来利用を前提として活動)、移転後も川崎フロンターレの昇格によって等々力でJ1の試合を開催できるという環境が整い[20]、川崎市からの移転容認も得られたが、東京移転後は等々力でのホームゲーム開催を一切認めないなど、両者の関係は冷却したままで終了することになった。V川崎は2001年シーズンより川崎市から東京都へホームタウンを移し、東京スタジアムをホームスタジアム[注 3]とした。
東京への移転後は味の素スタジアム(以下「味スタ」)をホームスタジアムとしている(その他の開催スタジアムは「当項目」を参照)。
東京V主催試合で、味スタ使用の場合はJ2では多くの試合で経費削減のためスタジアムの上層部は閉鎖となる。なお、試合当日に雨が降った場合、下層部の大半の席が雨に濡れてしまうということもあり、上層部の一部を開放することもある。2006年はホームゲーム24試合のうち味スタでの開催が半分未満の11試合に留まり別会場での開催を強いられたが、これは日程が重なった場合には上位ディビジョンのチームに開催優先権が認められるとしていたためであり[21]、同年は東京VがJ2に所属する一方でFC東京はJ1に所属していた。
2009年、崔暢亮会長は使用料とFC東京との兼ね合いを苦として2010年後半からの味スタ撤退を掲げたが[22]、崔ら経営陣は2010年6月に退いたこともあり実現しなかった。
練習場
東京移転後は地域活動も活発に行っており、Jクラブの中でも地域活動回数はトップ。東京Vの運営会社の経営理念によると、ホームタウン[注 3]は運営会社の本社がある稲城市のほか、町田市[注 5] を除く南多摩地区の日野市、多摩市、立川市、八王子市と認識しており、稲城、日野、多摩、立川の4都市は出資もしている。その他に、練馬区や、古くから準本拠地と位置付けるスタジアムのある渋谷区・新宿区(国立霞ヶ丘陸上競技場周辺)、北区(味の素フィールド西が丘周辺)などで積極的にイベント・PR活動を盛んに展開しているが、都心23区はFC東京などと競合している。
2010年10月29日には、羽生英之社長が「練習場の賃料が高すぎる」ことを理由によみうりランドから撤退する考えのあることを明らかにした。よみうりランドの使用料は従来年間で約3億5000万円と非常に高額で、利用料減免を受けた2010年でも約1億5000万円となお経営を圧迫していたことが理由として挙げられた[23]。新練習場の候補としては、大株主のバディの施設がある八王子市[24] などが挙がっていた。
2010年12月31日、2011年もよみうりランドを練習場として継続使用することが公式発表された[25]。なお、2011年より一部練習において多摩市立陸上競技場を使用する。
ユニフォーム
| ||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||
|
チームカラー
グリーン
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | 国際スポーツ振興協会 | ISPS HANDA | 2017年 - | |
鎖骨 | ミスズ | HANDA Watch World(左) | 2018年 - | |
MISUZU(右) | ||||
背中上部 | ミロク情報サービス | MJS | 2009年 - | 2008年はパンツ |
背中下部 | イーグランド | e-grand | 2017年 - | |
袖 | グッドコムアセット | グッドコムアセット | 2017年 - | |
パンツ | BRI | BRI | 2015年 - |
ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年:プーマ
- 1993年 - 1996年:ミズノ(1995 - 96年度のカップ戦では1993 - 94年度で使用していたリーグ・カップ戦兼用のユニフォームを使用)
- 1997年 - 2006年:ナイキ(1997年度のリーグ戦ではナイキがJリーグのサプライ契約を結んでいなかったので、ナイキのロゴを付ける事が出来ずヴェルディの自主製作扱いとされた)
- 2007年 - 2010年:カッパ
- 2011年:エネーレ
- 2012年 - 現在:アスレタ
歴代ユニフォーム
FP 1st | ||||
---|---|---|---|---|
1997 | 1998 | 1999-2000 | 2001-2002 | 2003-2004 |
2005-2006 | 2007 | 2008 | 2009 | 2010 |
2011 | 2013 | 2014 | 2015 | 2017 |
FP 2nd | ||||
---|---|---|---|---|
1997 | 1998 | 1999-2000 | 2001-2002 | 2003-2004 |
2005-2006 | 2007 | 2008 | 2009 | 2010 |
2011 | 2013 | 2014 | 2015 | 2017 |
歴代ユニフォームスポンサー年表
エンブレム上に、リーグ年間優勝回数を表す星が2つ付いている。
年度 | 胸 | 鎖骨 | 背中上部 | 背中下部 | 袖 | パンツ | サプライヤー |
1992 | CocaCola | 解禁前 | CocaCola | 解禁前 | マクドナルド ※1 | - | PUMA |
1993 | mizuno | ||||||
1994 | |||||||
1995 | |||||||
1996 | MALT'S | SUNTORY | KONAMI | ||||
1997 | NIKE | ||||||
1998 | |||||||
1999 | KONAMI | KONAMI | |||||
2000 | |||||||
2001 | |||||||
2002 | 楽天 ICHIBA | CORNES | |||||
2003 | M support | FIELDING | |||||
2004 | LEOC | TOMAS | |||||
2005 | CyberAgent | サイバーエージェント | |||||
2006 | CyberAgent(J2) / 日テレ(ACL) | CyberAgent | SOPH. | ||||
2007 | Ameba byCyberAgent | vap | Kappa | ||||
2008 | Ameba | - / 日テレ55 | MJS | ||||
2009 | - | MJS | 中央高等学院 | ||||
2010 | - / XEBIO | 法律事務所オーセンス | - / Victoria | ||||
2011 | 飯田産業 | XEBIO | Victoria | ennerre | |||
2012 | ATHLETA | ||||||
2013 | - / GAGA MILANO | ||||||
2014 | - / 緑の心臓[注 6] ※2 | ||||||
2015 | 緑の心臓 | BRI | |||||
2016 | Create | 緑の心臓 | 錦秀会グループ | ||||
2017 | ISPS HANDA | イーグランド | グッドコムアセット | ||||
2018 | HANDA Watch World(左) MISUZU(右) |
※1. 「マクドナルド」は「」ロゴのみ表記。
※2. サポーターが設立した「一般社団法人緑の心臓」[26]。
育成組織
読売サッカークラブ時代からユース組織による育成を行っており、男子トップチームの育成組織として「ヴェルディサッカースクール」を東京都内の他に、神奈川県相模原市(京王電鉄沿線)、栃木県小山市、千葉県習志野市、静岡県、岩手県に展開している。ユース年代で継続して良い成績を残し、ユースからトップへの昇格も多い。2005年には東京Vユースが日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会、高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会の2冠を達成した。2010年には東京Vユースが東京都サッカートーナメントで優勝し、第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会に出場(1回戦敗退)した。クラブで育った選手がそのままコーチとして子供たちを教えることが多いのが東京Vの育成組織の一つの特徴である。また、変わったところでは、株主のバディ企画研究所(バディスポーツ幼児園)と提携する形で、多摩市永山に「東京ヴェルディサッカー幼児園」を設置している。
東京Vユースの主要世界・全国タイトルは、Jリーグユースチーム最多の計21回である。
東京Vジュニアユースの主要全国タイトルは、Jリーグジュニアユースを含むジュニアユース世代のチームの中で全国最多の計17回である。
東京Vジュニアの主要全国タイトルは、Jリーグジュニアを含むジュニア世代のチームの中で全国最多の計10回である。
サッカー以外では、2001年の東京移転にあわせて、バレーボールの東京教員クラブを引き継ぎ東京ヴェルディバレーボールチームを発足させた。トライアスロンとビーチバレー、eスポーツのチームもある。これらは、Jリーグの目指す総合スポーツクラブへの一環である。
アカデミー
アカデミーには次がある[27]。
- ヴェルディユース
- ヴェルディジュニアユース
- ヴェルディジュニア
支部・準支部・提携クラブ
支部・準支部・提携クラブには次がある[28]。
- ヴェルディS.S.岩手 - 岩手県
- ヴェルディS.S.小山 - 栃木県小山市
- ヴェルディS.S.レスチ - 東東京(足立区、葛飾区)および千葉東葛(流山市、柏市)
- ヴェルディS.S.アジュント
- ヴェルディS.S.相模原 - 神奈川県相模原市
- Wings - 千葉県
- F.C.ヴァーデュア三島 - 静岡県三島市
- S.S.CANTERA - 埼玉県日高市
主な獲得タイトル
ユース
世界大会
- ゴシアカップ
- 優勝2回(2015年[29]、2017年[30])
世界招待大会
- サニックス杯国際ユースサッカー大会
- 優勝2回(2006年、2008年)
国内大会
- 日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会
- 優勝14回(1979年、1980年、1981年、1985年、1986年、1988年、1989年、1990年、1991年、1992年、1993年、2005年、2010年、2011年)
- Jリーグユース選手権大会
- 優勝2回(1993年、1996年)
- 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会
- 優勝1回(2005年)
- 高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグイースト
- 優勝1回(2012年)
- 東京都サッカートーナメント
- 優勝1回(2010年)
ジュニアユース
世界招待大会
- 東京国際ユース(U-14)サッカー大会
- 優勝1回(2010年)
全国大会
- 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会
- 優勝6回(1986年、1988年、1989年、1990年、1991年、2004年)
- 高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会
- 優勝5回(1989年、1993年、1996年、2003年、2004年)
- JFAプレミアカップ
- 優勝5回(1997年、1999年、2000年、2001年、2006年)
地域リーグ
- 関東ユース (U-15)サッカーリーグ
- 優勝1回(2007年)
ジュニア
全国大会
- 全日本少年サッカー大会
- 優勝3回(1988年、1999年、2007年)
- 全農チビリンピック
- 優勝1回(2007年)
全国フットサル大会
- JFA 全日本U-12フットサル選手権大会
- 優勝6回(1991年、1994年、1999年、2002年、2007年、2009年)
女子サッカー
経営問題
ヴェルディ川崎
1996年には20億円、1997年には26億5000万円、1998年には22億円の赤字を計上[19]。渡邉恒雄は「ヴェルディ川崎の赤字は限界(に達している)」と述べ[31]、1998年をもって読売新聞社とよみうりランドが経営から撤退した。
このため1999年には大幅な経費節減に取り組んだが、等々力陸上競技場での観客動員が予想を上回る勢いで減少を続け[32]、川崎フロンターレとの競合も避けられないことから、1999年10月に経営再建策として[33][19]、「投資してもリターンがない」(坂田信久社長)[5] 川崎を離れ、東京への移転計画を発表。Jリーグ側が安定経営・経営改善のためならば了承するという姿勢を採ったため[17]、2001年より実行に移した。
2006年3月、サイバーエージェントが株式の48.1%を取得し、50.7%を保有して同社を連結子会社として維持する日本テレビ放送網に次ぐ大株主となった[34] が、思うように利益を得ることが出来なかったことを理由に2008年1月にサイバーエージェントは株式を売却[35]。再び日本テレビが単独大株主となった。
東京ヴェルディ1969
- 2009年9月16日、日本テレビ放送網が保有する日本テレビフットボールクラブ株式を、東京ヴェルディホールディングス株式会社(読売クラブOBの崔暢亮らが中心になり、同年7月に設立。以下東京VHD)に2009年9月30日付で譲渡[36]。これに伴い、読売グループはプロサッカークラブ運営から完全に手を引いた(現在はヴェルディ同様に1992年のJリーグカップや1993年Jリーグ開幕節から参戦のガンバ大阪のブロンズパートナー(スポンサー)として支援している)
- これに先立つ9月15日のJリーグ理事会で上記の株式譲渡が承認された[37]。そこでは、
- 2009年度の東京Vの運営費用は、日本テレビ放送網株式会社が負担する。
- 東京VHDは、2009年11月16日までにスポンサー料収入として、5億4,000万円分の契約を確定し計画の金額を満たさなければならない。
- スポンサー契約が事業計画の金額に満たない場合は、2009年シーズンをもってJリーグを退会。
等の条件が課された。
- 2009年10月21日、運営会社の商号(社名)を株式会社日本テレビフットボールクラブから「東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社」(東京VFC)に変更
- 2010年3月19日には情報通信大手「ネクシィーズ」が東京Vの過半数の株式取得を検討しているとリリース[38]、6月28日、両社から「交渉は白紙となった」ことが発表された[39]。
- 2009年11月16日までにJリーグから条件提示されていたスポンサー料の5億4千万円に対しての協賛支援表明等が集まり、理事会で2010年シーズンもJリーグ加盟が認可された[40]
- 2010年1月29日のJリーグ臨時理事会[41]、2月16日の同理事会にて経営状況についての審議が行われた際には、予算が理事会承認時の予算よりも1億5000万円上回っていたことが判明し、予算の見直しを受けるとともに、同理事会前にJリーグが作成した合意書に調印する旨を言い渡された。
Jリーグが2010年5月に行った業務監査では、スポンサー収入5億4000万円のうち、実際に入金されたのは半分程度で、人件費の穴埋めなどを入れると4億円程度の資金投入が必要とされたため、このままの状態では2010年6月にも資金が底を突く可能性が濃厚となった。2月に行われたJリーグチェアマン鬼武健二と東京ヴェルディ会長崔暢亮の会談を経て、Jリーグは5月の臨時理事会で合意書締結にのっとり、2010年度のチーム継続を前提として4億6500万円の緊急融資枠を決定し、融資条件として東京VFCの株式の全株式をJリーグへ譲渡し経営陣が交代。その上で7月以後リーグ主導で経営再建に乗り出し随時融資を実行し安定した運営ができる方針を固めた。
しかし、4億6500万円の緊急融資枠全額は払い込まれなかったという
[42][43]。
- 2010年6月29日、東京VHDが保有する東京VFC株式約98.8%が、社団法人日本プロサッカーリーグを経て、株式会社ジェイリーグエンタープライズに譲渡[44] され、東京VFC臨時株主総会で、旧経営陣の辞任と新経営陣の選任が行われ[45]、Jリーグ事務局長の羽生英之が東京VFCの社長に就任した[46]。なお、羽生の周囲には「ここできれいに潰した方が将来的にはJリーグのためになる」と助言する者もいた[47]。
- 2010年10月29日、Jリーグ臨時理事会で「バディ企画研究所(以下バディ)」を筆頭株主として[注 7]、「オフィスて・ら」、「山愛[1][注 8]]」「斉藤氏」など13の出資者の決定、および「ゼビオ」との包括スポンサー契約を結んだことにより2011年度予算8億1500万円確保できたため、2011年以降のクラブ存続が正式に了承された。これを受けて羽生が(社)Jリーグを退職(東京VFCの社長は続投)、バディ社長の鈴木威が東京VFCの会長に就任した[50]。
クラブライセンス交付第一審機関(FIB)からは、2013年にクラブ経営上、改善が必要な事項につき「個別通知」が[51]、2014年[注 9]には経営上の「是正通達」が[53] なされている。
脚注
- 注釈
- ^ abただし、2010年までクラブのエンブレムには「FC NIPPON」と描かれていた。
^ 特にスポーツ報知・日本テレビでは他チームにも「日産横浜マリノス」「AS横浜フリューゲルス」「パナソニックガンバ大阪」「三菱浦和レッズ」と企業名を付けて呼称した。- ^ abcなお2001年のJリーグイヤーブック、ファンズガイド(いずれも当時は「トランスアート」発売・制作)には「東京都稲城市」のみをホームタウンとする記述があったが、翌2002年(NTT出版発売・制作)以後は「東京都全域」に修正されている。
^ “GLOCAL”とは造語で、東京という地域(LOCAL)から世界(GLOBAL)を目指すという意味が込められている。
^ FC町田ゼルビアの本拠地。
^ 10月4日の熊本戦より提出
^ バディの出資額は推定1億円[48]。また、羽生の息子がバディのサッカースクールに所属しているという繋がりがあった[49]。
^ 2008年より清水エスパルスのユニフォームスポンサーも務めている。
^ 同時期、Jリーグ理事の大河正明からは「純資産が少なく債務超過に陥る恐れがある」と指摘された[52]。
- 出典
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^ ドタバタ東京V…三浦泰年監督解任をLINEで選手に通達(スポーツニッポン2014年9月15日 9月16日閲覧)
^ レッドカードは1枚も貰わず、被PKゼロ、退場者ゼロ。反則ポイントも2012年からは毎年100以上だったが、この年は15と劇的に減らした。
^ “東京Vヴィエイラが終了間際V弾 J1復帰に王手”. 日刊スポーツ. (2018年12月2日). https://www.nikkansports.com/soccer/news/201812020000476.html 2018年12月2日閲覧。
^ “磐田が残留=東京Vは11季ぶり復帰ならず-J1参入決定戦”. 時事ドットコム (時事通信社). (2018年12月8日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2018120800210&g=spo 2018年12月8日閲覧。
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^ 『サッカー批評 49』双葉社、2010年、77頁
^ 東京V 筆頭株主に「バディ」が内定 スポーツニッポン、2010年10月29日
^ 『サッカー批評 49』双葉社、2010年、78頁
^ 東京ヴェルディ会長就任について BUDDY SOCCER CLUB
^ クラブライセンス交付第一審機関(FIB)による 2014シーズン Jリーグクラブライセンスの交付について Jリーグ (2013年9月30日)
^ Jリーグ:13年度 5クラブ2期連続の赤字 Jリーグ (2014年7月22日)
^ クラブライセンス交付第一審機関(FIB)決定による 2015シーズン Jリーグクラブライセンス交付について Jリーグ (2014年9月29日)
関連項目
- 東京ヴェルディ1969の選手一覧
- ヴェルディガールズ
- 東京ダービー (サッカー)
- 川崎ダービー
- 日テレ・ベレーザ
- 東京ヴェルディバレーボールチーム
東京クラブ - 読売新聞社によって最初にプロ化を視野につくられたサッカークラブ
外部リンク
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