紫宸殿
紫宸殿(ししんでん/ししいでん)は、内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿。「南殿」や「前殿」、古くは「紫震殿」とも。
殿舎の南には南庭が広がり、北には仁寿殿が位置する。天皇の普段居住する殿舎である清涼殿に対し紫宸殿は公的な意味合いが強かった。
目次
1 解説
2 脚注
3 参考文献
4 関連事項
解説
紫宸殿は本来天皇の私的な在所である内裏の殿舎の一つであったが、平安中期以降、大内裏の正殿であった大極殿が衰亡したことにより、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で行われるようになった。内裏は鎌倉時代に火災にあって以後、再建されることはなかったが、紫宸殿は臨時の皇居である里内裏で再建され、現在の京都御所(これも元は里内裏である)にも安政2年(1855年)に古式に則って再建されたものが伝わっている。
その構造は正面九間の母屋(もや)の四方に庇を巡らせ、さらにその外側に高欄の設置された簀子を配しており、母屋中央には高御座が置かれている(古くは帳台が置かれた)。母屋と北庇との境は賢聖障子(げんじょうのしょうじ)と呼ばれるパネル状の押障子で仕切られており、南庇中央には18段の階(南階)がある。
紫宸殿の南庭には東に桜、西に橘が植えられており、それぞれの近くに左近衛と右近衛が配陣したため、左近の桜、右近の橘と称される。左近の桜はもともとは梅だったといい、乾枯したのを契機に桜に植え替えられたという[1]。
左近衛の陣所は宜陽殿に続く軒廊(こんろう)にあり、「左近陣座(さこんのじんのざ)」と呼ばれた。摂関政治全盛期にはここで摂関を座長とする朝議(陣所で行われるため陣議・陣定といい、帯仗が許されたため仗議ともいう)が盛んに行われ、実質的な国政の中心となった。まれに校書殿東庇にある「右近陣座」でも行われ、『年中行事絵巻』に「右近衛陣座」として描かれている。
脚注
^ 古事談に「南殿桜樹者本是梅樹也。桓武天皇遷都之時所被植。而及承和年中枯失。仍仁明天皇被改植也。」とあり、他の文献等も勘案してこの「改植」が桜への植え替えだと推定される。
参考文献
- 『平安建都1200年記念 甦る平安京』 京都市編纂・発行
関連事項
- 平安京
- 大内裏
- 内裏
- 京都御所
- 相撲