ブルゴーニュ公国
- ブルゴーニュ公国
フランス語: État bourguignon
エタ・ブルギニョン
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843年 - 1477年
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→(国旗) (国章)
1465年–1477年の「ブルゴーニュ公国」
公用語
中世ラテン語、オイル語(古フランス語)、オランダ語
首都
ディジョン、ブルッヘ、ヘント- 公
1419年 - 1467年
フィリップ3世
1467年 - 1477年
シャルル- 変遷
ヴェルダン条約
843年百年戦争
1337年-1453年金羊毛騎士団
1430年ブルゴーニュ戦争
1474年-1477年ナンシーの戦い
1477年1月5日
ブルゴーニュ公国(ブルゴーニュこうこく、仏:État bourguignon エタ ブルギニョン)は、14世紀から15世紀のフランス東部からドイツ西部にかけて存在した、ブルゴーニュ公領(Duché de Bourgogne)を中心とする、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公(Duc de Bourgogne)の支配領域ないしその支配体制をいう。なお正確にはブルゴーニュ公爵領と隣接するブルゴーニュ伯領(フランシュ=コンテ地域圏)とは区別を要する。
目次
1 概要
2 ヴァロワ家時代のブルゴーニュ公
3 ブルゴーニュ公国崩壊後の君主
4 経済・文化の中心地
5 脚注
6 関連項目
概要
ブルゴーニュ公領は、1031年から1361年にはカペー家傍系のブルゴーニュ家が支配し、1363年から1477年にはヴァロワ家傍系のヴァロワ=ブルゴーニュ家が支配した。
最盛期のヴァロワ家時代に「国」(État)と呼ばれるのは、ヴァロワ家がブルゴーニュの他、神聖ローマ帝国の領域内を含むネーデルラント(現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク)、フランシュ=コンテ、アルザス、ロレーヌにまたがった支配地を持ち、百年戦争(1337年 - 1453年)の際はイングランド側についてフランス王と対抗し、きわめて独立性が高かったためである。
シャルル突進公の死後、1477年にブルゴーニュ公領はフランス王領に編入され、ネーデルラントは婚姻によりハプスブルク家に継承された。
歴史上、ブルゴーニュ公国が知られるのは、14世紀後半から15世紀半ば、ヴァロワ家4代のブルゴーニュ公の下、宮廷に華やかな騎士文化が開花したことによる。この時代のブルゴーニュ公国は、欧州の経済的先進地域であったフランドル(現在のベルギー周辺)を含み、経済・文化の一大中心地であった。公国の宮廷は初めディジョン(現フランス国内)にあり、1419年にブリュッセル(現ベルギーの首都)に移った。
ヴァロワ家時代のブルゴーニュ公
他の時代のブルゴーニュ公についてはブルゴーニュ公一覧を参照。
- フィリップ豪胆公
- (大胆公・豪勇公とも、仏:Philippe le Hardi(フィリップ・ル・アルディ) 1342年 - 1404年、在位:1363年 - 1404年[1])
- ヴァロワ朝のフランス王ジャン2世(善良王)の四男で、シャルル5世の弟。1363年にブルゴーニュ公に封ぜられた。1384年にフランドル女伯及びブルゴーニュ女伯マルグリットと結婚したことで、一大勢力となる。
- ジャン無怖公
- (無畏公とも、仏:Jean sans peur(ジャン・サン・プール) 1371年 - 1419年、在位:1404年 - 1419年)
- 狂王シャルル6世の摂政権を巡ってオルレアン公ルイと対立した結果、ルイを暗殺してパリを支配したが、自らも王太子シャルル(シャルル7世)に暗殺された。以後、ブルゴーニュ派はイングランド王国と同盟してシャルルおよびアルマニャック(オルレアン)派と戦い、百年戦争は新たな局面を迎えた。
- フィリップ善良公
- (仏:Philippe le Bon(フィリップ・ル・ボン) 1396年 - 1467年、在位:1419年 - 1467年)
- 安定した統治を行い、所領を拡大した。金羊毛騎士団を創設し、騎士道文化が最盛期を迎えた。ファン・エイク兄弟などのフランドル派絵画や、ブルゴーニュ楽派の音楽はヨーロッパで最高水準のものとなった(北方ルネサンス)。百年戦争では引き続きイングランド側につき、1430年にはジャンヌ・ダルクを捕らえ、イングランド軍に引き渡した。
- シャルル突進公
- (勇胆公、無鉄砲公、猪突公とも、仏:Charles le Téméraire(シャルル・ル・テメレール) 1433年 - 1477年、在位:1467年 - 1477年)
- 領土拡大を夢見て、無謀なブルゴーニュ戦争を行った。一人娘マリーとハプスブルク家のマクシミリアンの結婚を承諾したのち、ナンシーの戦いで戦死した。
ブルゴーニュ公国崩壊後の君主
- マリー女公
- (Marie 1457年 - 1482年、在位:1477年 - 1482年)
- 父シャルル突進公の死後、フランス王ルイ11世の煽動により反乱が起こり、一時幽閉される。そこで婚約者マクシミリアンに救援を求め、結婚する。ブルゴーニュはフランス王領に編入されるが、ギネガテの戦いの勝利によりネーデルランドとフランシュ=コンテは確保する。マリーとマクシミリアンの共同統治となるが夫婦仲は極めて良く、共に領内を歴訪し支持を集める。しかしマリーは落馬事故にてあえなく落命する。ヴァロワ=ブルゴーニュ家男系が絶えたため、2人の息子フィリップ美公が相続した。公位と所領はその後、美公の長男である神聖ローマ皇帝カール5世からスペイン・ハプスブルク家へと継承されたが、それも貴婦人の和約によってイタリア方面の権益と引き換えに放棄することになる(伯領は保持)。そしてハプスブルク(オーストリア・ハプスブルク君主国)とフランス王家との対立は、18世紀中頃の外交革命まで続くことになる。
経済・文化の中心地
- フランドル地方の産業と貿易
- ヴァロワ系ブルゴーニュ公国の支配していたフランドルは、ヨーロッパの主力な輸出品であった毛織物の産地で、これを中心にした経済の一大中心地であった。
ルネサンスの文化は全般にイタリアが中心であったが、15世紀に絵画・音楽の分野ではイタリア以上の発展を示した。
- 絵画
- フィリップ善良公の頃、ヤン・ファン・エイク(1390年頃 - 1441年)は油彩画の技法を完成させた。代表作に「ヘントの祭壇画」がある。
- 音楽
音楽史では、ルネサンス音楽の発展で知られている。ギヨーム・デュファイ(1400年頃 - 1474年)はフランドルのカンブレ(現在はフランスの領内)で生まれで、イタリアに移って活躍した。1437年にカンブレへ戻ってからも多数の作曲を行い、デュファイを中心にブルゴーニュ楽派と呼ばれるグループが作られた。- (のち、16世紀にはフランドル楽派)
脚注
^ “日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”. コトバンク. 2018年2月12日閲覧。
関連項目
- ブルゴーニュ公一覧
- ヴァロワ=ブルゴーニュ家
- ブルゴーニュ領ネーデルラント
- ルネサンス
- 騎士道
- 公国
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