ユーモア




ユーモア(英: humour、独: Humor, フモーア)とは、人を和ませるような《おかしみ》のこと[1]。日本語ではこうした表現を諧謔(かいぎゃく)とも呼ばれ、「有情滑稽」と訳されることもある[2]




目次





  • 1 概説

    • 1.1 定義



  • 2 歴史


  • 3 愉快さとユーモア


  • 4 ユーモアの成立要件(愉快と不愉快を分ける原理)


  • 5 ユーモアをテーマにした作品


  • 6 脚注


  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク




概説


冒頭では仮に辞書の簡単な説明を挙げたが、実際にはユーモアの明確な定義は困難である。多くの作家や哲学者が定義を試み、解説し解釈しようとしてきた歴史がある。→#定義


ユーモアは、それがイギリス人の気質との親和性が高いことから、イギリスを中心に発達したものが(世界的に見て)特に知られている[3]。イギリスにおけるユーモアの発展の背景には、美術や文学の分野における古典主義への抵抗があったと考えられている[4]


ユーモアは(後述するが)、文学の中で大きなうねり、潮流となってきた歴史がある。おかしみに溢れた小説やエッセー、喜劇に分類される演劇作品などがあり、現代でも、ユーモアで読者を和ませようとすることを最大の関心事とする作品は作られ続けている。


また、ユーモアは作家たちがもちいるだけでなく、普通の人々が日常的にも用いているものであり、ユーモアは様々に用いられている。ひとつは、人間同士のコミュニケーションをするときに(会話をする時に)、相手を和ませ、会話を弾ませるために用いられる事もある。また大勢の人々を相手にして話す時など、聞き手(聴衆)を和ませ、場の空気を和らげるためにも用いられる。


なお、ユーモアを理解し、創造するには、言葉の教養が必要となる[5]。またユーモアは「越境性」に乏しく、異なる言語のユーモアは理解しにくく、翻訳が困難であると考える学者もいる[6]。これについてもう少し解説すると、表現者と受け取り手のあいだに、共通の「教養」を欠くと、あるいは(別の言い方をすると)世の中や当該の地域社会では、人々が普段 基本的に どんなことを言っているのか(言ってしまっているのか)、あるいは現実の人間社会や当該の地域社会では実際にはどんな慣習があるのか(人々がやらかしてしまっているのか)、といったことに関する「共通の理解」(あるいは、「共通の前提」)が無いと、表現者は《おかしみ》を表現することで受け手(聞き手、観客)を和ませようとしているつもりなのに、受け手のほうはその《おかしみ》を感じることができない、受け取りそこねる、和まない、ということが起きうるわけである。したがって、互いに異なる共同体に属している人と人、話されている言語が異なる地域に住む人と人などでは、たとえ当該の表現やメッセージを言語としては一応は翻訳したとしても、ユーモアがユーモアとしては通じない、「越境」できない、ということが起きるのである。



定義


ユーモアの定義は、エスプリと比べると漠然としていて、確固とした定義は出来ない[7]


古来、文豪や作家達が、ユーモアに対して様々な定義を付けている。またウィットとの境界線も明確ではなく、両者が混同されることもある[8]


18世紀後半、ロマン主義が盛んになる中で、哲学者や文学者達は、ユーモアの定義づけと考察に奮励した。その中心人物だったジャン・パウルは、ユーモアについて、世界との関連や、パロディや冗談との差異など、様々な観点から分析、考察を行い、大きな業績を残した。また、ゾルガー、ゲーテ、ヘーゲルらも、ユーモアに対する独自の解釈、研究を発表した。



歴史


元々ユーモアとは体液を意味する「フモール」という言葉だった。ヒポクラテスが、人間の健康は四つの体液から構成され、どれか一つの量が基準値を逸脱すると不調になるという『四体液説』を指摘するようになると、次第にユーモアの示すものは体液から人の体調へと変わり、さらに、調子の変わった人物を指す意味へと変化した。医学・生理学用語だった「フモール」を、美学的な用語の「ユーモア」として使い始めたのは、ルネッサンス時代の文芸批評家たちだった[9]。そして、17世紀になってイギリスで気質喜劇という形式の演劇が勃興すると、おもしろさ、おかしさ、滑稽さ、特異性などを意味するように、語意は変遷した。エリザベス朝時代のイギリスでは、奇矯なことが魅力的であるという風潮が一部にあり、そのためそうした奇矯な振舞いが横行し、「ユーモア」という言葉も、濫用と言われるほどに流行した[10]。(なお、ベン・ジョンソンやウィリアム・シェイクスピアは、こうした風潮に辟易していた、という。)


「ユーモア」とは伝統的な発音で、イギリスでは近世に入ってからは「H」を発音し「ヒューマー」と呼ぶようになった。何時頃から「ヒューマー」という呼称が定着したかは定かでは無いが、英文学者で言語学に詳しい外山滋比古は、1920年に発行されたイギリスの国語辞典OEDでは既にヒューマーという発音が採用されていることから、これを20世紀初頭であろうと推測している[11]。日本では「ユーモア」という発音が一般的なことから、発音の変遷も勘案して、この英国式ユーモアの概念が日本に輸入されたのは19世紀であろうと考えられている。



愉快さとユーモア


ユーモアに関係する概念としては、具体的な小咄のジョーク、単純な言葉遊びの駄洒落、より複雑で知的な言葉遊び、法螺(ほら)などがある。風刺の場合は世間の事象に対する鋭い観察や社会的な批判の視点が強い。ギャグの場合はたわいのないおかしさを狙うものである。


人の行為、かかわりについての深い洞察や世知の豊かさが、上品でセンスのあるユーモアを生み出すことが多い。知的な要素が強い場合は、機知(ウィット)と呼んだほうがよい場合もある。


小説、映画、漫画などの物語芸術では、まじめな話ばかりで読者を飽きさせないように、またあまりに深刻な雰囲気を和らげるためにコミックリリーフと呼ばれるコミカルな登場人物を登場させることがある。たとえば、手塚治虫の作品などにはよくみられる(ヒョウタンツギ、スパイダー等)。



ユーモアの成立要件(愉快と不愉快を分ける原理)


ある表現が、ユーモアとして見事に機能して愉快に感じさせ受け手を和ませるか、そうならずに反対に受け手を不愉快にしてしまうかは、つまるところ、表現者(書き手、話し手)の力量にかかっている。
概説でも解説したように、ユーモアには「センス」が必要であり、ユーモアのセンスというのは、聞き手と自分を対等に扱う、という心の姿勢であり、また、受け取り手にとっては自分が使おうとしている表現が一体どう感じられるか ということを相手の身になって想像すること、「思いやり」である。


表現者の側が一方的に、自己本意に、手前勝手にユーモアのつもりであることを表現していても、受け手の立場や心情に対する思いやりが足りないと、受け手の側では、「気が利いてない」あるいは「全然おかしくない」あるいは「不愉快だ」「腹立たしい」などと感じられる場合があるわけである。


例えば、知的なセンスの誇示の手段としてユーモアが用いられた場合、結局は自己顕示(自分だけは、人々よりも、また あんたよりも優れている、対等じゃない、との暗示)となり、聞き手からすれば、 en:pedantry(衒学趣味、知ったかぶり)をして私を不愉快にした、と感じられることになる。


ユーモアのつもりで、性的な「おかしさ」を表現する人、あるいは下ネタを使う人もいる。これは受け手が、偶然 にも運良く 表現者と全く同じ状況に置かれていて、世の中に様々ある性に関する理解のなかから運良く同じ見解を持っていてくれれば、ユーモアとして受け取ってもらえる可能性もありはするが、多くの場合、そうはならない。性的な立場、性的におかれている状況というのは、同性であっても同年代であっても、ひとりひとり 実に様々であり、しかもしばしば深刻な悩みになっていてもそれが伏せられているからである。また現代では異性に対して性的なおかしさ表現すれば、しばしば 受け手は不愉快に感じることになり、セクシャル・ハラスメントとなる。


世相や人柄のよからぬ面を皮肉ったユーモア、風刺的な表現を用いつつ「おかしみ」を感じてもらおうとするものなどを「ブラックユーモア」と呼ぶが、これも受け手(聞き手)に対する思いやりを欠くと、(表現者の側の勝手な見解はともかくとして)ユーモアとしては機能しなくなる可能性が高い。
たとえば、社会で行われている差別を、当事者でない人や部外者が 「上から目線」などで 皮肉ったり風刺して、それを「ブラックユーモアだ」と、表現者の側が勝手に思っていても、聞き手がまさにその差別の当事者である場合は (聞き手が差別の加害者であれ、被害者であれ)不愉快に感じることは多い。こうなると、その表現はもうユーモアではなく(ユーモアとしては機能しておらず)、単なる皮肉や批判や嫌がらせ的な発言として機能することになる。一方で、差別の被害者となっている人間が、他の 自分と同様に差別されている人に向かって、(対等の人間として)差別の暗黒面を皮肉ったり風刺したりして、共通の(悲惨な)状況を 一緒に笑い飛ばし、せめてひとときでも 和むのに役立てば、その場合は、その表現はブラックなユーモアとして機能したことになる。


宗教的なことを扱う場合も要注意である。ユーモアは、あくまで表現者と受け手を対等の関係として、ともに尊重して思いやる時にユーモアとして成立し受け手を和ませるものである。例えば、自分の信仰と異なる信仰を持つ人々を、(自分の側は低くないという態度で)見下すように表現してしまっては、ユーモアとしては成立せず、人を不愉快にさせる悪質な表現となり、特にメッセージの受け手が当事者であれば、受け手を露骨に不愉快にさせるだけであり、その表現はユーモアの対極のものとして機能する。[12]



ユーモアをテーマにした作品


  • 伝承譚・故事

    • 吉四六話


    • 彦一とんち話

    • ティル・オイレンシュピーゲルのいたずら


  • 小説・随筆

    • 吉田兼好『徒然草』


    • ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー『ほら吹き男爵の冒険』


    • 夏目漱石『吾輩は猫である』


    • エーリッヒ・ケストナー『人生処方詩集』


  • 絵本

    • A・A・ミルン『クマのプーさん』

  • 漫画

    • チャールズ・M・シュルツ『ピーナッツ』

  • 美術・造形

    • 鳥羽僧正覚猷『鳥獣人物戯画』

    • トリックアート


  • TV・ラジオ・映画
    米国でシットコム(シチュエーションコメディー)という分類名で呼ばれるコメディ劇は、一般にユーモアを満載しているものである。
    • 空飛ぶモンティ・パイソン

    • 銀河ヒッチハイク・ガイド


  • 音楽(クラシカル)

    • W.A.モーツァルト『音楽の冗談』K.522

  • web媒体
    • アンサイクロペディア


脚注


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  1. ^ 大辞泉「ユーモア」


  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典「ユーモア」


  3. ^ 外山滋比古「ユーモアのレッスン」(中公新書) 6頁


  4. ^ 「エスプリとユーモア」8頁


  5. ^ 「ユーモアのレッスン」24-26頁


  6. ^ 「ユーモアのレッスン」27頁


  7. ^ 「エスプリとユーモア」4頁


  8. ^ 「エスプリとユーモア」10頁


  9. ^ 河盛好蔵「エスプリとユーモア」6頁


  10. ^ 「エスプリとユーモア」6頁


  11. ^ 「ユーモアのレッスン」9頁


  12. ^ 近年では例えばフランスのシャルリ・エブド誌の編集者たちが、そうした過ちを犯した。当人たちはユーモアを持っているつもりだったのだろうが、ユーモアのセンスを欠いていたのであり、フランスでは、(事件直後は同情論が強かったものの、その後)同誌の根本的な編集姿勢に対する批判、他者に対する配慮の欠如に対して批判も起きた。


関連項目


  • 笑い

  • 滑稽

  • 風刺

  • パロディ

  • 言葉遊び

  • ユーモアの効用

  • アンサイクロペディア


外部リンク



  • Humor (英語) - インターネット哲学百科事典「ユーモア」の項目。

  • Igor Krichtafovitch Humor Theory – The Formulae of Laughter, Outskirts Press, 2006, ISBN 9781598002225


  • Humor Theory ウエブサイト


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