堀内光雄
日本の政治家 ほりうち みつお | |
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生年月日 | (1930-01-01) 1930年1月1日 |
出生地 | 山梨県笛吹市(旧・御坂町) |
没年月日 | (2016-05-17) 2016年5月17日(86歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学 |
現職 | 富士急行取締役社主 |
所属政党 | (自由民主党→) (無所属→) 自由民主党 |
称号 | 正三位勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員表彰[1] |
配偶者 | 妻・堀内英子 |
親族 | 祖父・堀内良平 父・堀内一雄 義父・辻政信 長男・堀内光一郎(富士急行代表取締役社長) |
第62代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第2次橋本改造内閣 |
在任期間 | 1997年9月11日 - 1998年7月30日 |
第52代 労働大臣 | |
内閣 | 宇野内閣 |
在任期間 | 1989年6月3日 - 1989年8月10日 |
衆議院議員 | |
選挙区 | (山梨県全県区→) 山梨2区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 2009年7月21日 |
衆議院議員 | |
選挙区 | 山梨県全県区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1976年12月11日 - 1990年1月24日 |
堀内 光雄(ほりうち みつお、1930年1月1日 - 2016年5月17日[2])は、日本の政治家、実業家。元衆議院議員(10期)。富士急行株式会社会長。血液型AB。
労働大臣(第51代)、通商産業大臣(第62代)、自由民主党総務会長(第43代)を歴任。
目次
1 来歴・人物
2 政策
3 エピソード
4 所属していた団体・議員連盟
5 家族・親族
6 系譜
7 著書
8 脚注・出典
9 外部リンク
来歴・人物
山梨県東八代郡御坂町(現笛吹市)出身。山梨県立甲府第一高等学校、慶應義塾大学経済学部卒。富士急行創業者一族の出身で、祖父、父ともに衆議院議員。1962年、富士急行社長に就任。学究肌の経営者として知られ、『生産性の測定と適正分配』(1961年ダイヤモンド社刊)他複数の著書がある。
富士急行(当時の社名は富士山麓電気鉄道)入社後、東京都内の観光バス営業所に勤務。ここでの修行体験が後年同社を観光事業を中心として再建するのに役立ったとされる。また、現在の富士急バスのカラーリング(緑色をベースとした物)も彼が考案したものである。この他、富士急社長時代には富士急ハイランドや日本ランドなどの観光事業や各種事業に注力し、父・一雄と東急総帥の五島慶太との関係からともすると東京急行電鉄の傍系とみなされていた同社を自立させ、一代で現在の富士急グループを形成した。
1976年の第34回衆議院議員総選挙で初当選(当選同期に愛知和男・中村喜四郎・鳩山邦夫・中島衛・西田司・池田行彦・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など)。当選後は大平正芳率いる宏池会に入会。宏池会では後の会長鈴木善幸の側近として知られ1989年の宇野内閣で労働大臣として初入閣したが、1990年の第39回衆議院議員総選挙では落選。しかし、1993年の第40回衆議院議員総選挙ですぐに返り咲き、1997年に第2次橋本改造内閣で通商産業大臣に就任。通産相在任中、石油公団について事務方が用意した答弁書の内容に疑問を持ったことから、同公団関連企業112社についての膨大な資料を独力で精査する。その結果、公団の不良債権が1兆3,000億円にも膨れ上がっていたことを暴き出し、退任後の1998年、「文藝春秋」誌1998年11月号に掲載の論文『通産省の恥部 石油公団を告発する』で実態を世に問う。その結果、2002年に「石油公団廃止法」が成立される運びとなり、同公団は2005年3月をもって解散された。
2000年11月の加藤の乱で加藤派から分離。翌年堀内派を結成し、会長となる。
2001年4月から2004年9月までの約3年半にわたり小泉政権下で総務会長を務め、小泉改革に反対するベテラン議員が多い中で、基本的には一貫して小泉を支援した。2003年の自民党総裁選では野中広務や古賀誠らに反小泉派の統一候補として出馬を要請されるが固辞する。しかし、総務会長退任後は一転して反小泉色を鮮明にする。これは、派を挙げて小泉政権に協力したのに、内閣改造などで堀内派が反主流派並の冷遇を受けたからだと言われる。
郵政民営化法案の衆議院本会議採決では、採決当日に派閥会長を辞任して反対票を投じた。このため、第44回衆議院議員総選挙では自民党公認を得られず、無所属で出馬。自民党公認の長崎幸太郎候補らを破り10回目の当選を果たすも、当選後の特別国会では、再提出された郵政法案に一転して賛成票を投じた。
2006年8月22日に慶應義塾大学OBの親睦という名目で、民主党代表の小沢一郎と国民新党代表の綿貫民輔(ただし、2人とも元自民党)とゴルフをするなど、非自民色を強めていると見られた。しかし、10月に入ってからは復党の流れが強まった。
11月27日には、自民党に「復党願」と「誓約書」を提出。翌28日には記者会見を行い、「迎えてくれるのならありがたい」「私は法案には反対したが、民営化自体には賛成」と語り、復党の理由などを国民へ説明した。
2006年12月4日、造反議員11人の復党が党紀委員会にて全会一致で認められ、自民党に復帰。12月15日、古賀派(旧堀内派)に名誉顧問として再入会。翌年9月26日、同派名誉会長に就任。
2008年6月16日に自民党本部は堀内を公認することを内定した[3]。対立する長崎幸太郎には、比例一位の待遇が用意されたものの、長崎は無所属で出馬する旨を表明、麻生首相が衆議院解散・総選挙の日程を予告した2009年7月13日に、自民党に離党届を提出し、17日に了承された[4]。7月18日には、長崎を支持する地元町議ほか党員3648人が集団離党したと報じられたが[5]、水増しであり、自民党山梨県連は、実際の党員は415人で、その中でも故人の場合や本人の承諾がない場合もあることを明らかにしている[6]。その後8月11日、長崎が保守系・反小泉・反郵政無所属の政治家により構成される平沼グループに参加し、グループ代表の平沼赳夫が求めていた郵政民営化を見直す方針の受け入れを表明したため、小泉チルドレンの刺客として反小泉・反郵政の堀内に敵対した前回選挙と図式が逆転している。[7]
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙では山梨県建設業協会の支援を受けて選挙活動をしていたが[8]、民主党新人の坂口岳洋に敗れ引退。2012年の第46回衆議院議員総選挙では長男の妻堀内詔子が後継候補として出馬、小選挙区では長崎に敗れたが比例復活で初当選した。
2016年5月17日、間質性肺炎のために死去[2][9]。86歳没。
政府は没後、正三位に叙することを閣議決定した[10][11]。
政策
野田聖子によると、堀内は選択的夫婦別姓制度導入に基本的に賛成である[12]。
エピソード
タバコ嫌いで有名である。
2006年4月の衆議院千葉7区補欠選挙の際、候補者の齋藤健の応援演説に立った武部勤が放った「最初はグー、齊藤健」のキャッチフレーズを皮肉り、三宅久之が「最初はグー、武部はパー」と揶揄したが、このジョークを三宅に伝授したのは堀内であると言われる(ただし、同様のジョークは舛添要一や鴻池祥肇も口にしている)。
あんこ系の甘いものに目がない。あんパンなどを愛食している。
所属していた団体・議員連盟
- 神道政治連盟国会議員懇談会
- 日本会議国会議員懇談会
- 中部横断自動車道建設推進議員連盟会長
- リニア中央新幹線建設促進議員連盟会長
- リニア中央新幹線建設促進国会議員連盟会長
- 司法書士制度推進議員連盟会長
- 大深度地下利用国会議員連盟会長
- 医療心理師国家資格を実現する国会議員の会会長
- 日韓議員連盟
家族・親族
- 祖父 堀内良平(富士急行創業者・衆議院議員)
- 父 堀内一雄(衆議院議員)
- 妻 英子(旧陸軍中佐で石川県の政治家・辻政信の長女)
- 長男 堀内光一郎(現富士急行社長)
- 長男の妻 詔子(衆議院議員)
系譜
清和源氏(甲斐源氏)逸見氏堀内家の嫡流である。- 先祖は武田信玄の元、若狭守(堀内政俊)、佐渡守(堀内政豊)を拝任し、川中島での戦功を称され宝刀を授与されたり、堀内政豊は三枚橋城の城将に任ぜられた[13]。なお、宝刀並びに鎧、陣笠などは当家に今も保管されているという[14]。
甲斐国志にも堀内家の記録が残されており、江戸時代は上黒駒周辺の名主を務めた、と書かれている。
日蓮が堀内家の先祖の家に宿泊したことがあり、その縁で身延山久遠寺との関わりが深く、祖父・良平の代から信徒総代を勤めている。- 母の実家、田中家は、山梨県勝沼町にあった旧山梨田中銀行(現在は博物館)の頭取家であり、本人もよく遊びに行ったという。
小林中 | 小林喬 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内詔子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
林博太郎 | 林友春 | 絢子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内基光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
辻政信 | 英子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内光一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内良平 | 堀内一雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内光雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しげ | 初子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内藤右衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内義男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
きう | 堀内喜太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内正夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内宗平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内宗孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内伝重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内藤政養 | 房子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著書
- 『設備投資の合理的方法』(1958年)ダイヤモンド社
- 『例解経営分析実務』(1959年)中央経済社
- 『生産性の測定と適正分配』(1961年)ダイヤモンド社
- 『人間の価値計算』(1964年)ダイヤモンド社
- 『自民党は殺された』(2006年)ワック社 ISBN 4898310923
- 『平成安国論』(2011年)文藝春秋
- 『「靖国」と「千鳥ヶ淵」を考える』(2013年)祥伝社新書
脚注・出典
^ 衆議院トップページ >本会議・委員会等 >本会議情報 >議事経過 第162回国会(平成17年3月15日)- ^ ab“堀内光雄氏が死去”. 山梨日日新聞. (2016年5月17日). http://www.sannichi.co.jp/article/2016/05/17/80036279 2016年5月17日閲覧。
^ 堀内氏、2区公認に内定 自民・次期衆院選 3区は小野氏 党、長崎氏処遇は留保
^ 自民・長崎氏が離党へ=山梨2区の非公認に反発 時事ドットコム・2009年7月13日
^ 自民3648人集団離党…長崎衆院議員の支持者 Yomiuri Online・2009年7月18日
^ 離党届「実際は415人」自民県連 長崎氏支持者を批判 Yomiuri Online・2009年7月23日
^ [1]
^ 毎日新聞 2009年8月5日 地方版
^ “堀内光雄元通産相が死去”. 産経新聞. (2016年5月17日). http://www.sankei.com/politics/news/160517/plt1605170040-n1.html 2016年5月17日閲覧。
^ 故堀内光雄氏に正三位
^ 『官報』6795号、平成28年6月14日
^ 野田聖子「政治が変わる、女性が変える」
^ 沼津城・三枚橋城
^ 甲陽重家録/山寺和夫/株式会社西東京/昭和49年刊
外部リンク
- 堀内光雄オフィシャルサイト
- 富士急行
議会 | ||
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先代: 山崎拓 | 衆議院社会労働委員長 1986年 - 1987年 | 次代: 稲垣実男 |
公職 | ||
先代: 佐藤信二 | 通商産業大臣 第62代:1997年 - 1998年 | 次代: 与謝野馨 |
先代: 丹羽兵助 | 労働大臣 第52代:1989年 | 次代: 福島譲二 |
党職 | ||
先代: 村岡兼造 | 自由民主党総務会長 第43代:2001年 - 2004年 | 次代: 久間章生 |
先代: 分裂 | 宏池会会長 2000年 - 2005年 | 次代: 古賀誠 丹羽雄哉 |
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