ニギハヤヒ


ニギハヤヒ饒速日、『古事記』では邇藝速日)は、日本神話に登場する神。別名、櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)。天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命ともされる。物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神と伝わる。




目次





  • 1 概要


  • 2 降臨に随伴した神


  • 3 神武天皇と饒速日命の関係


  • 4 諸史料の記載

    • 4.1 先代旧事本紀


    • 4.2 播磨国風土記



  • 5 諸説

    • 5.1 原田常治の説



  • 6 主な神社


  • 7 末裔


  • 8 脚注・出典

    • 8.1 註釈


    • 8.2 出典



  • 9 参考文献


  • 10 関連項目




概要


『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。


『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売、日本書紀では三炊屋媛という)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。カムヤマトイハレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、カムヤマトイハレビコがアマテラスの子孫であることを知り、カムヤマトイハレビコのもとに下った。


『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛甕玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしみかたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。


『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。


饒速日命の墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある白庭山である[1]



降臨に随伴した神


天神本紀[2]には、天降ったおりに高皇産霊尊から防衛(ふさぎのもり)として以下の三十二人に命じて随伴させたとある。



  • 天香語山命(あめのかごやまのみこと)、 尾張連(おわりのむらじ)らの祖


  • 天鈿売命(あめのうずめのみこと)、猿女君(さるめのきみ)らの祖


  • 天太玉命(あめのふとたまのみこと)、忌部首(いむべのおびと)らの祖


  • 天児屋命(あめのこやねのみこと)、中臣連(なかとみむらじ)らの祖


  • 天櫛甕玉命(あめのくしみかたまのみこと)、鴨県主(かものあがたぬし)らの祖


  • 天道根命(あめのみちねのみこと)、川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖


  • 天神玉命(あめのかむたまのみこと)、三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖


  • 天椹野命(あめのくぬのみこと)、中跡直(なかとのあたい)らの祖


  • 天糠戸命(あめのぬかどのみこと)、鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖


  • 天明玉命(あめのあかるたまのみこと)、玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖


  • 天牟良雲命(あめのむらくものみこと)、度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖


  • 天背男命(あめのせおのみこと)、山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖


  • 天御陰命(あめのみかげのみこと)、天照大神の孫神、天津彦根命の御子神(嫡男)、御上祝(三上直)(みかみのはふり・みかみのあたい)らの祖[3][4][5]


  • 天造日女命(あめのつくりひめのみこと)、阿曇連(あずみのむらじ)らの祖


  • 天世平命(あめのよむけのみこと)、久我直(くがのあたい)らの祖


  • 天斗麻弥命(あめのとまねのみこと)または天戸間見命(あめのとまみのみこと)、上記の天御陰命と同神(天御陰命の別名、厳密には人型の天御陰命が化身した姿)である。額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖であるが、天戸間見命で名乗った場合の嫡流は凡河内国造(おうしこうちのくにのみやつこ)である凡河内氏(おうしこうちし)[3][4][5]。なお、他にも龍神に化身した天目一箇命(あめのまひとつのみこと)という別名もあり、この場合の嫡流は山背国造(やましろのくにのみやつこ)である[3][4][5]。他にも、天津麻羅命(あまつまらのみこと)等多数の別名がある[4]


  • 天背斗女命(あめのせとめのみこと)、尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖


  • 天玉櫛彦命(あめのたまくしひこのみこと)、間人連(はしひとのむらじ)らの祖


  • 天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)、安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖


  • 天神魂命(あめのかむたまのみこと)または三統彦命(みむねひこのみこと)、葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖


  • 天三降命(あめのみくだりのみこと)、豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖


  • 天日神命(あめのひのかみのみこと)、対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖


  • 乳速日命(ちはやひのみこと)、広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖


  • 八坂彦命(やさかひこのみこと)、伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。一説に八坂刀売神の父


  • 伊佐布魂命(いさふたまのみこと)、倭文連(しどりのむらじ)らの祖


  • 伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)、山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖


  • 活玉命(いくたまのみこと)、新田部直(にいたべのあたい)の祖


  • 少彦根命(すくなひこねのみこと)、鳥取連(ととりのむらじ)らの祖


  • 事湯彦命(ことゆつひこのみこと)、取尾連(とりおのむらじ)らの祖


  • 八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)、信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。信乃阿智祝部については阿智神社 (阿智村)も参照。


  • 天下春命(あめのしたはるのみこと)、武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖


  • 月神命(つきのかみのみこと)、壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖

さらに五部(いつとも)が供領(とものみやつこ)として副い従った、とある。



  • 天津麻良(あまつまら) 物部造(もののべのみやつこ)らの祖 


  • 天津勇蘇(あまつゆそ) 笠縫部(かさぬいべ)らの祖 


  • 天津赤占(あまつあかうら) 為奈部(いなべ)らの祖 


  • 富々侶(ほほろ) 十市部首(とおちべのおびと)らの祖


  • 天津赤星(あまつあかぼし) 筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖

さらに、警備のため天物部[註 1]の5名の「造」と、25名の兵杖を持った「部」が伴った。


  • 二田造(ふただのみやつこ)

  • 大庭造(おおばのみやつこ)

  • 舎人造(とねりのみやつこ)

  • 勇蘇造(ゆそのみやつこ)

  • 坂戸造(さかとのみやつこ)


  • 二田物部(ふただのもののべ)

  • 当麻物部(たぎまのもののべ)

  • 芹田物部(せりたのもののべ)

  • 鳥見物部(とみのもののべ)

  • 横田物部(よこたのもののべ)

  • 嶋戸物部(しまとのもののべ)

  • 浮田物部(うきたのもののべ)

  • 巷宜物部(そがのもののべ)

  • 足田物部(あしだのもののべ

  • 須尺物部(すさかのもののべ)

  • 田尻物部(たじりのもののべ)

  • 赤間物部(あかまのもののべ)

  • 久米物部(くめのもののべ)

  • 狭竹物部(さたけのもののべ)

  • 大豆物部(おおまめのもののべ)

  • 肩野物部(かたののもののべ)

  • 羽束物部(はつかしのもののべ)

  • 尋津物部(ひろきつのもののべ)

  • 布都留物部(ふつるのもののべ)

  • 住跡物部(すみとのもののべ)

  • 讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)

  • 相槻物部(あいつきのもののべ)

  • 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)

  • 播麻物部(はりまのもののべ)

  • 筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)

これらを、船で運んだとあり、操船した者の名が記されている。


  • 天津羽原(あまつはばら) 船長、跡部首(あとべのおびと)らの祖

  • 天津麻良(あまつまら) 梶取、阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 

  • 天津真浦(あまつまうら) 船子、倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖

  • 天津麻占(あまつまうら) 船子、笠縫らの祖 

  • 天津赤麻良(あまつあかまら) 船子、曽曽笠縫(そそのかさぬい)らの祖

  • 天津赤星(あまつあかぼし) 船子、為奈部(いなべ)らの祖


神武天皇と饒速日命の関係


『日本書紀』と『古事記』によると、神武天皇(イワレビコ)と饒速日命(ニギハヤヒ)の出会いのあらすじは次の通り。


「神武天皇(イワレビコ)は塩土老翁から、東方に美しい土地があり、天磐船で先に降りたものがいると聞く。そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、一族を引き連れ南九州から瀬戸内海を経て東へ向かい、難波碕(現代の大阪)へたどり着く。その後河内国草香邑から生駒山を目指す。そこに土着の長髄彦(ナガスネヒコ)が現れたため戦うが苦戦する。神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、熊野(紀伊半島南端部)へ迂回して北上することにした。


菟田(奈良)に到達し高倉山に登ってあたりを見渡すと、八十梟帥が軍陣を構えているのが見えた。その晩神武の夢に天神が現れ「天神地祇を敬い祀れ」と告げる。その通りにすると敵陣を退治でき、続いて長髄彦を攻める。


すると長髄彦は「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」と問うたところ、神武は「天神の子は多い。あなたの君が天神の子であるならそれを証明してみよ」と返す。長髄彦は、饒速日命の天羽々矢(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)を見せる。すると神武も同じものを見せた。長髄彦はそれでも戦いを止めなかった。饒速日命(ニギハヤヒ)は天神と人は違うのだと長髄彦を諌めたが、長髄彦の性格がひねくれたため殺し、神武天皇に帰順して忠誠を誓った。


ただし、『先代旧事本紀』では、既に饒速日は復命せず現地で亡くなり、亡骸(なきがら)は速飄(はやちかぜ)により天に上げられ、葬儀は七日七夜続いたとあり、神武東征の時点で彼は故人となっている。



諸史料の記載



先代旧事本紀


『先代旧事本紀』では天火明命と同一と伝わる[註 2]


  • 天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしみかたま にぎはやひ の みこと)

アメノホアカリの別名は以下。


  • 天照國照彦天火明尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり の みこと)

  • 天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)

  • 天火明命(あめのほあかりのみこと)

  • 彦火明命

  • 櫛甕玉命

  • 天照御魂神


播磨国風土記


『播磨国風土記』では、大汝命(大国主命)の子とする。



諸説



原田常治の説


その他、古代史ブームの火付け役と目される原田常治は、推論に推論を重ね、大胆に結論を断定する手法で、大神神社の主祭神である大物主、上賀茂神社の主祭神である加茂別雷大神、熊野本宮大社の祭神である事解之男尊、大和神社の主神である日本大国魂大神、石上神宮の祭神である布留御魂、大歳神社[要曖昧さ回避]の主祭神である大歳神(大歳尊)と同一だとする[7]


ニギハヤヒは第5子(三男)ではあるが、遊牧民の習慣である末子相続に則り、出雲族の族長である父スサノオからその座を継承したと結論づけている。学術的には大いに問題があるという意見がある一方、影響を受けた作家も多い[8]


また、原田の説による系譜に基づき、ニギハヤヒは初代天皇であったとする見解も存在する[9]。それによれば、ニギハヤヒの養子となって皇位を譲られたイワレヒコ(伊波礼彦命)が、橿原宮で即位して神武天皇となったという[10]


原田の説による、ニギハヤヒを中心とした出雲族の系図[7]


  • 祖父:布都御霊
    • 父:素佐之男尊(布都斯御霊)
      • 長男:八島野尊(諡:清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)

      • 次男:五十猛尊(大屋彦尊)

      • 長女:大屋津姫

      • 次女:抓津姫

      • 三男:饒速日尊(布留御霊・大歳尊)(諡:天照国照彦天火明奇甕玉饒速日尊)

      • 四男:倉稲魂尊(宇迦御魂)

      • 五男:磐坂彦尊

      • 三女:須世理姫


主な神社



  • 磐船神社 -「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる巨岩を御神体としている。

  • 天照玉命神社

  • 石切剣箭神社

  • 國津比古命神社

  • 物部神社

  • 藤白神社

  • 廣瀬大社

  • 矢田坐久志玉比古神社


  • 飛行神社 - 大正時代に飛行機の神として創建。饒速日命は「天磐船に乗りて太虚(おおぞら)を翔行(めぐ)り」の古事[11]に基づき航空祖神とされ、空の神とも言われ信仰を集めている[12]


  • 井関三神社 - 天照神社(あまてる・じんじゃ)が崇神天皇2年(BC96年)に巨岩の磐座を天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命の御神体として創祀。

祭神同一視神社



  • 真清田神社 - 尾張国一宮。(祭神の天火明命は本名を天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊と社伝にいう)


  • 籠神社 - 元伊勢の最初の神社。(祭神の彦火明命はニギハヤヒの別名と社伝にいう)


末裔


ニギハヤヒを祖とする氏族に物部氏がある。穂積氏、熊野国造和田氏も同祖とされる。弓削氏は物部氏と関連が深い。


籠神社の社家、海部氏に伝わる系図については国宝の指定を受けている。海部氏は尾張氏と同じく天之火明命の子孫であり、ニギハヤヒの子孫ではないが、『先代旧事本紀』のホアカリ=ニギハヤヒ同一神説を前提とした場合は同祖となる。



脚注・出典


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註釈




  1. ^ 「物部」は、氏族の「モノノベ」と、警備を担う武士の「モノノフ」の読みがある。


  2. ^ 但し、ニギハヤヒとアメノホアカリの同一を否定し、また、ニギハヤヒをニニギの兄とするのは両者を連結するための創作・強弁であるとする研究もある[6]



出典




  1. ^ 饒速日命墳墓(グーグルマップ)


  2. ^ 國史大系 巻7 所収「先代旧事本紀 巻第三『天神本紀』』, p. 118-.

  3. ^ abc御上祝家系図(三上氏)(コマ番号84-97) / 諸系譜. 第28冊(国立国会図書館デジタルコレクション)

  4. ^ abcd「御上神社沿革考 : 近江国野洲郡三上村鎮座」 大谷治作 編 / 出版: 太田治左衛門 / 出版年月日: 明32.2(国立国会図書館デジタルコレクション)

  5. ^ abc三枝部造 甲斐野呂氏後裔 輿石氏系図(コマ番号84-92) / 諸系譜. 第6冊(国立国会図書館デジタルコレクション)


  6. ^ 戸矢 2011.

  7. ^ ab原田常治 『記紀以前の資料による古代日本正史』 同志社


  8. ^ 真説日本古代史


  9. ^ 中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密』日本文芸社 (1993年)


  10. ^ アートラインプロジェクト『アーリオーン・メッセージ』徳間書店(1996年)


  11. ^ 『日本書紀 巻第三 神武天皇紀』「及至饒速日命、乘天磐船、而翔行太虛也」


  12. ^ 飛行神社参照



参考文献


  • 「先代旧事本紀『巻第三 天神本紀』」、『國史体系』第7巻、経済雑誌社、1901年(明治34年)、 118-、 NDLJP:991097、全国書誌番号:50001943。


  • 田中卓「第一次天孫降臨とニギハヤヒノ命の東征」『社會問題研究』1957年, 7 (1), p.44-72,大阪社会事業短期大学社会問題研究会。


  • 高桑浩一「降臨伝承の比較研究: アメワカヒコ・ニギハヤヒと古代朝鮮の降臨神」学習院大学人文科学論集 (13),105-127,2004年10月。

  • 戸矢学 『ニギハヤヒ『先代旧事本紀』から探る物部氏の祖神』 河出書房新社、2011年12月3日。ISBN 978-4-309-22556-2。


関連項目


  • 日本の神の一覧

  • 天火明命






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