ノルマンディー上陸作戦





第二次世界大戦 > ノルマンディー上陸作戦









ノルマンディー上陸作戦
(ネプチューン作戦)
Invasion of Normandy
(Operation Neptune)


1944 NormandyLST.jpg
LCVPからオマハ・ビーチに上陸する米第1歩兵師団第16歩兵連隊E中隊
(1944年6月6日、ロバート・F・サージェント撮影)


戦争:第二次世界大戦(西部戦線)

年月日:1944年6月6日 - 7月中旬

場所フランスの旗 フランス ノルマンディー

結果:連合軍の勝利
(歴史的意味および余波も参照)
  • 連合軍がヨーロッパに上陸、西部戦線の構築

  • パリの解放

交戦勢力

イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カナダの旗 カナダ
自由フランスの旗 自由フランス軍
ポーランドの旗 ポーランド
オーストラリアの旗 オーストラリア
ベルギーの旗 自由ベルギー軍
 ニュージーランド
オランダの旗 オランダ
 ノルウェー
チェコスロバキアの旗 自由チェコスロバキア軍
ギリシャの旗 ギリシャ王国

ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
指導者・指揮官

アメリカ合衆国の旗ドワイト・アイゼンハワー(連合軍最高司令官)
イギリスの旗 アーサー・テッダー(連合軍副司令官)
イギリスの旗 バーナード・モントゴメリー(陸軍総司令官)
イギリスの旗 トラフォード・リー=マロリー(空軍総司令官)
イギリスの旗 バートラム・ラムゼー(海軍総司令官)
アメリカ合衆国の旗 オマール・ブラッドレー
イギリスの旗 マイルズ・デンプシー

ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット
ナチス・ドイツの旗 エルヴィン・ロンメル
ナチス・ドイツの旗 フリードリヒ・ドルマン
ナチス・ドイツの旗 レオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク
戦力
156,000(6月6日時点)
1,332,000(7月24日まで[1]
380,000(7月23日まで)
損害
戦死・戦傷 約120,000(7月24日時点)
戦死・戦傷 113,059(7月24日時点)
ノルマンディー上陸作戦


  • フォーティテュード作戦

  • タイガー演習

  • トンガ作戦

  • ソード

  • ジュノー

  • ゴールド

  • オマハ

  • ユタ

  • シカゴ作戦

  • ヴィレル・ボカージュ

  • シェルブール

  • エプソム作戦

  • グッドウッド作戦

  • アトランティック作戦

  • スプリング作戦

  • コブラ作戦

  • ブルーコート作戦

  • リュティヒ作戦

  • トータライズ作戦

  • トラクタブル作戦

  • ファレーズ・ポケット

  • ブレスト

  • パリ




ノルマンディー上陸作戦(ノルマンディーじょうりくさくせん、Invasion of Normandy)は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われたドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦。正式作戦名「ネプチューン作戦」(英語: Operation Neptune)。なお上陸からパリ解放までの作戦全体の正式名称はオーヴァーロード作戦(Operation Overlord)。


最終的に200万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した。現在に至るまで歴史上最大規模の上陸作戦である。


本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により2か月以上要した。


ノルマンディー上陸はヨーロッパ戦線の転機となった作戦であり、第二次世界大戦中最もよく知られた戦いの一つでもある。本作戦で用いられた用語「D-デイ」は作戦決行日を表し、現在では主に作戦開始当日の1944年6月6日について使われる。




目次





  • 1 序章


  • 2 連合軍の計画

    • 2.1 計画策定


    • 2.2 作戦準備



  • 3 ドイツ側の状況

    • 3.1 防衛構想


    • 3.2 現地司令官の構想


    • 3.3 大西洋の壁


    • 3.4 兵士


    • 3.5 空軍


    • 3.6 海軍



  • 4 上陸前夜


  • 5 上陸

    • 5.1 空挺部隊


    • 5.2 上陸部隊


    • 5.3 ソード・ビーチ


    • 5.4 ジュノー・ビーチ


    • 5.5 ゴールド・ビーチ


    • 5.6 オマハ・ビーチ


    • 5.7 ユタ・ビーチ



  • 6 上陸後

    • 6.1 ドイツ陸空軍の防衛対応


    • 6.2 ドイツ海軍の防衛対応



  • 7 歴史的意味および余波


  • 8 ノルマンディー上陸作戦を主題とした作品

    • 8.1 映画


    • 8.2 テレビ番組


    • 8.3 漫画


    • 8.4 ゲーム


    • 8.5 ボードゲーム



  • 9 参考文献


  • 10 関連項目


  • 11 脚注


  • 12 外部リンク




序章


1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻以来、ヨーロッパ本土でのドイツ軍戦力のほとんどがソ連に向けられていた。ソ連のヨシフ・スターリンは危機的な状況を緩和するため、イギリスやアメリカに対してヨーロッパに第二戦線を築くことを要請していた。


イギリス軍は第一次世界大戦同様に正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した。アメリカ側は前線の延長を望まなかったことと、イギリスの勢力拡大意図について心配したため、ドーバー海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得した。


ドーバー海峡を渡っての作戦は、1942年中にブレストかシェルブールへの(本格的反攻ではない)限定的上陸のスレッジハンマー作戦、1943年以降の北フランス上陸のラウンドアップ作戦が立案、また周囲からの攻撃では北西アフリカ上陸のジムナスト作戦、ノルウェー上陸のジュピター作戦が立案されていた。


しかしスレッジハンマー作戦は準備期間が短すぎ、上陸しても半島に閉じ込められるだけで吸引できるドイツ軍兵力が小さいことから早々に放棄された。またジュピター作戦も放棄。結局北アフリカのドイツ軍を排除するトーチ作戦(ジムナスト作戦から改称)が実行され、ラウンドアップ作戦は1943年以降になる事となった。結局ラウンドアップ作戦は1943年中に実施できない事が判明したため、1944年までずれ込み、作戦名も「オーバーロード作戦」に変更された。1943年には北アフリカから北上した連合軍がイタリアに上陸したが、戦線は動かなかった。


1943年11月28日テヘラン会談において、アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、スターリンが討議し、1944年の5月には第二戦線を開くことが正式に合意された。



連合軍の計画



計画策定




ノルマンディー上陸作戦の作戦計画図(1944年6月6日)。赤はドイツ軍の部隊。輸送路が短くてすむが防御の厚いパ=ド=カレーを避け、落下傘部隊の降下と艦船による砲撃、揚陸を組み合わせている


計画立案のプロセスは連合軍総司令部のスタッフによって1943年の1月に始められた。1944年4月28日には南デヴォンで上陸演習「タイガー演習」が行われたが失敗し、749人のアメリカ軍の死者を出した。連合軍上層部はこの失敗がドイツに伝わり、大規模な上陸作戦の用意をしていることが露見することを恐れた。しかしドイツ軍情報部はそこまでの詳しい情報はキャッチしていなかった。


イギリス本土基地からの連合軍戦闘機の航続距離は上陸地点の選択を非常に制限した。地理学的に上陸地点はパ・ド・カレー(カレー港)とノルマンディーの2地点に絞り込まれた。パ・ド・カレーがイギリス本土から距離的に最短であり上陸地点として最適だったが、当然の事ながらドイツ側も連合軍によるパ・ド・カレーへの上陸を警戒しており、その防御が強力だったため、連合軍は上陸地点にノルマンディーを選択した。


1942年のカナダ軍のディエップ攻撃での失敗から連合軍は、最初の上陸でフランスの港を直接攻撃しないことに決定した。ノルマンディー正面への広範囲な上陸は、ドイツ軍にとってブルターニュ西海岸のシェルブール港と、パリからドイツ国境へ向けての2つの攻撃の脅威となることが予想された。ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄く、上陸は予想されなかった地点であったが、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であった。



作戦準備


1943年12月に連合国遠征軍最高司令官としてドワイト・アイゼンハワー陸軍大将、1944年1月にはバーナード・モントゴメリー陸軍大将が本作戦の地上部隊最高司令官である第21軍集団司令官に任命された。


計画の段階で海からの上陸が3個師団、空挺部隊が2個旅団要求された。モントゴメリーはすぐに初期攻撃の規模を海からの攻撃を5個師団、空からを3個師団増加させた。合計で47個師団の投入が承認された。内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団である。


提督バートラム・ラムゼー卿指揮下で上陸用舟艇4,000隻および艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6,000を超える艦艇が投入された。陣容は戦艦アーカンソー、ネヴァダ、テキサス、ウォースパイト、ラミリーズ、ネルソン、ロドニー、重巡洋艦5隻、軽巡洋艦20隻、駆逐艦135隻など。



空軍中将トラフォード・リー・マロリー卿指揮下に1,000機の空挺部隊を運ぶ輸送機を含む12,000機の航空機が上陸を支援した。ドイツ軍に対して投下するために合計5,000トンの爆弾が準備された。


最初の40日間の目標は次の通り定められた。



  • カーンおよびシェルブールを含む上陸拠点の確保(特にシェルブールは大型艦艇が入港できる深度の点から必要とされた)。


  • ブルターニュとその大西洋岸の港を解放し、ル・アーヴルからル・マンとトゥールを抜けてパリ南東部に向かって125マイル前進すること。

その後3か月の目標は次の通り


  • ロアール川南部とセーヌ川北東部の地域の制圧。

侵攻作戦の目標がパ・ド・カレーであり、また隙あらばドイツ占領下のノルウェーに侵攻する準備が整っているとドイツ軍に思い込ませるため、連合軍はボディガード作戦(英語版)という大規模な欺瞞作戦を展開した。この作戦の一部として行われたのがフォーティテュード作戦である。この作戦はフォーティチュード・ノース(ノルウェー侵攻作戦)とフォーティチュード・サウス(パ・ド・カレー侵攻作戦)の2つからなっており、架空のアメリカ軍師団が偽の建物と装備と共に作られ、偽のラジオメッセージがイギリス各地に送信された。更に作戦により現実味を持たせるため、その架空軍団の指揮官には当時謹慎中だったパットン将軍が指名された。また、上陸地点を南フランスであるとした欺瞞作戦『コッパーヘッド作戦(英語版)』を策定し、バーナード・モントゴメリー大将の影武者としてM・E・クリフトン・ジェームズ少尉を北アフリカに派遣した。


当然ドイツ軍も実際の上陸地点を知るため盛んに諜報活動を行っており、イギリス南部の広範囲にスパイ網を持っていたが、不運なことに連合国側に寝返った諜報員が多く、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものであった。欺瞞は可能な限り続けられ、その地域のレーダーおよび軍事施設への攻撃は継続された。この作戦は徹底したものであり、ノルマンディーに1トンの爆弾を落とした場合はパ・ド・カレーに2トンの爆弾を落とすと言う具合で、あくまでノルマンディー方面はフェイントであり、パ・ド・カレーが連合軍の主目標であることを印象付ける事を目的としていた。


また、フォーティチュード・ノースを支援するためにスカイ作戦と言う欺瞞作戦も展開された。これはスコットランドから無線交信を使用して、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としていることをドイツのアナリストに認識させるために行われた。ドイツ軍はこの架空の脅威の為、この地域の部隊をフランスに移動させなかった。


連合軍は上陸に備えて特殊装備を開発した。パーシー・ホバート(Percy Hobart)少将指揮下のイギリス第79機甲師団(英語版)の装備する特殊車両は「ホバーツ・ファニーズ」「ザ・ズー」と呼ばれた。同師団が開発、装備した車両群は、水陸両用のD.D. (Duplex Drive) シャーマン、地雷除去戦車シャーマン・クラブ、工兵戦車チャーチルAVRE (Armoured Vehicle Royal Engineers)、火炎放射戦車チャーチル・クロコダイル、架橋戦車チャーチルARK (Armoured Ramp Carrier)などである。


1944年5月当時、上陸作戦に備えてイギリス国内に駐留したアメリカ兵は約150万人に上った[2]


また、補給物資を効率的に揚陸するため、「マルベリー(英語版)」と呼ばれる人工港湾施設をアメリカ軍とイギリス軍がそれぞれ1つ準備した。この「マルベリー」は潜函(ケーソンと呼ばれるコンクリート製の箱)、浮橋(ポンツーンと呼ばれる、40t用と25t用など数種類有る)、消波ブロック及び沈船を組み合わせたもので、ル・アーブル港を使用できるようになるまでの半年の間、燃料を始めとする約120万トンの補給物資の揚陸に用いられることになった。


更にフランス各地に対する空襲が強化された。交通網は寸断され、防衛準備のための機雷搬送に遅れが出たため、上陸前に設置できなかった。また、フランス市民の死傷者も増加し、防衛戦用に約9万床増設された病院のベッドはフランス市民の入院者によって使用されていたという。


作戦予定日は当初5月1日となっており、テヘラン会談でソ連に通告された。しかしその後3週間の延期が決まり、さらに6月1日に変更された。5月15日には再び変更され、作戦予定日は6月5日となった。


かねてから自由フランスのカリスマ的指導者であるシャルル・ド・ゴール将軍の強硬な態度を嫌っていたフランクリン・ルーズベルトはこの作戦に参加させないようにしたがっていたが、ウィンストン・チャーチルの説得で直前に知らせることにした。この作戦を二日前に知ったド・ゴールはすぐさまアイゼンハワーの下に赴き、「フランスでの戦闘はフランス人が行うべきであって、指揮をとるのは私でなくてはならない」と激しく詰め寄ったという。アイゼンハワーも作戦の参加を認めないわけにはいかず承諾したものの、結局フランス軍は小規模な兵力で臨まざるを得なかった。



ドイツ側の状況



防衛構想


フランスの防衛は西方総軍が担当しており、その総司令官はゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥であった。1943年11月、ヒトラーは連合軍フランス侵攻の兆しをもはや無視することはできないと考えており、エルヴィン・ロンメル陸軍元帥をフランス北部防御の任務を負ったB軍集団の司令官に任命した。


OKW(国防軍最高司令部)はイギリス側が上陸を仕掛ける地域を、カレー、ノルマンディー、ブルターニュのいずれかであると推定していた。しかし連合軍の欺瞞作戦により、カレーが上陸地点であると考えるようになった。また『パットン軍団』の存在を重視し、同時多発上陸計画が存在すると確信していた。B軍集団の支配下としてカレー付近には第15軍、ノルマンディー付近には第7軍が配置されていた。



現地司令官の構想




ルントシュテットとロンメル


ロンメルは北アフリカでの経験から、連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」、水際で徹底的に殲滅することであると確信しており、機甲部隊の海岸近辺への配置を望んでいた。しかしロンメルの考えはB軍集団の上位にある西方総軍総司令官ルントシュテットの考えと対立する。ルントシュテットは内陸部に連合軍を敢えて引き込み、連合軍の橋頭堡がまだ固まりきらないうちを狙って撃滅する作戦を支持した。両者の論争を解決するためにヒトラーはフランス北部で運用可能な機甲師団6個のうち、3個をロンメルに与えるが、残りの3個は海岸から離れた位置に温存配備し、ヒトラー直接の承認無しでは運用出来ないとする事で、戦術の方向性は折衷案のような形を取って決着する。


この判断は後になって問題になった。上陸が行われた後、ヒトラーが残りの3個師団の運用許可を出すのに時間がかかったため防衛側は残りの3個師団を有効に活用できなかった。また、後方に温存されていたため沿岸部に向かって移動する最中に連合軍の戦闘爆撃機などに襲われ移動速度は低下、また移動中に多くの戦車を喪失する結果となった。



大西洋の壁




『大西洋の壁』の建設範囲


『大西洋の壁(Atlantic Wall)』と呼ばれた大西洋沿岸の防衛状態は、ヒトラーが計画を強力に推進したにも関わらず進行していなかった[3]。ヒトラーが連合軍が上陸する地点だと固執したため最も構築が進んでいたカレー方面でも80%前後、ノルマンディーに至っては計画の20%前後の進行率でしかなかった。


「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設であるとされ「ドイツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と、内外にプロパガンダされていた。それを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいものだった。膨大な量のコンクリート、セメントが集められ、徴用された何万人もの労働者たちが、ヒトラーの言う"狂信的"突貫工事を進めた。だが、あまりにも膨大な建設資材の発注に対して、特に鉄鋼材は少量しか入手できなかったため、旋回レールを備えた大砲陣地などの強力な施設の数は少数にならざるを得ず、フランス軍が独仏国境に構築したマジノ線要塞やドイツ軍が構築したジークフリート線要塞から、設備を取り外してまで建設を進めていた。


そもそもノルウェー沿岸からスペインにまで達する、3000マイル以上の大西洋沿岸すべてを要塞化することが不可能なのは明白だった上にこの時期のドイツは明らかに、西部戦線よりも東部戦線の方に力を注がなければならない状況であった。43年の末にB軍集団司令官に着任したロンメルは、41年から北アフリカにおり、大西洋の壁に関するプロパガンダを信じ「壁」はほとんど完成したものと思っていたが、ノルマンディー沿岸の防御施設を視察したあと、大西洋の壁の有効性に対する意見だけは、ロンメルとルントシュテットの間で完全に一致した。それは「敵よりも、むしろドイツ国民に対する宣伝用の記念碑的なこけおどし」であり、「大西洋の壁」はドイツ宣伝省によるプロパガンダに過ぎないという事であった。


連合軍が上陸するのはノルマンディーであると考えていたロンメルは着任の後、全力でノルマンディー沿岸の防御施設の構築を推し進めた。ロンメルは手に入る限りの資材・人員・武器・兵器を全て投入したが、その中でも地雷は最も多く投入され、ノルマンディー沿岸の全体に埋められたその数は約600万個以上であったという。その他にも波打ち際の海中に立てられた杭には機雷をくくりつけ、砂浜に障害物を置き、空挺部隊が降下しそうな地域を増水させ罠を設置するなど出来る限りの備えをしていたが、この時のドイツ軍には、これらの防御陣地に入るべき人員に関して、大きな問題を抱えていた。


ちなみに大西洋の壁の中で一番堅固だったのはカレー方面ではなくチャンネル諸島だったのではないかと思われる。ヒトラーはドイツが占領したこの「英国本土の一部」を殊の外重要視しており、また英国がいつか全力で奪還にかかるだろうと信じていた。そのためヒトラーの命令でチャンネル諸島は完全に要塞化され、1941年の4月30日から当初駐屯していた第216歩兵師団に代わって1940年の11月に新たに編成された第319歩兵師団が駐屯するようになった(第216歩兵師団はその後ロシアで壊滅)。ロシア戦線での敗北などのせいでドイツ陸軍が建制をどんどん変更し1個歩兵師団に所属する歩兵の人数が減少の一途を辿る中、第319歩兵師団は開戦時の建制を維持していた[4]上に戦車大隊や機銃大隊まで配属されていたため実に2万8千人もの陣容を誇った。しかもそれは陸軍だけの人員であり、空軍や海軍などの人員を含めると実に4万近くものドイツ兵が駐屯していた。これは島の住人2人に対してドイツ兵が1人いる計算になった。しかもヒトラーがチャンネル諸島を重要視していたためこれらの部隊は配置転換されることもなく、大戦を通してそのまま島に駐屯し続けた。


しかしヒトラーの予想とは裏腹に英国側はチャンネル諸島を奪還しようとはしなかった。「コンステレーション作戦」のような奪回作戦が提案された事もあったが要塞化された島々に精強な師団が駐屯していたのと、市民に対する損害が大きくなると予想された事、そしてなによりチャンネル諸島を奪還する事に戦略的な意味がなかったため取りやめになっている。ドイツ側もヒトラー以外は連合軍がチャンネル諸島の部隊を無視してフランス本土に上陸するのではないかと薄々感じており、アントニー・ビバーの著書によれば第319歩兵師団はフランスに駐屯していた同僚達から「王立ドイツ擲弾兵師団(King's Own German Grenadiers)」や「カナダ師団」[5]と揶揄されていた。その揶揄はある意味正しく、結局上陸作戦が発動した後もチャンネル諸島は英国海軍に周囲の海域を封鎖された以外は基本的に放置され(ただしこのせいで島民とドイツ兵は終戦間際飢え死に寸前まで追い込まれることとなった)、第319師団はドイツが無条件降伏した次の日(5月9日)に英国海軍駆逐艦ブルドッグの艦上で正式に降伏した。



兵士


この時点でフランスに配備されたドイツ軍兵士の実に6人に1人がOst Battalion(直訳すれば「東方大隊」)に所属していたと言う事実がある。これらの将兵は部隊名が表すように主にドイツより東方に位置する国からの出身者で構成された部隊の事である(ただしフランス人やイタリア人の部隊なども存在した)。当初は文字通り「義勇兵」が多かったのだが、戦局が悪化するにつれ占領区域からの強制徴募や捕虜収容所から志願者を募ると言う方法で部隊が編成され、お世辞にもその戦闘力は高いと言い難かった。また、東方戦線でドイツが守勢に転じた後は戦力として当てにならないどころか集団脱走や組織的造反の可能性すら出てきたため順次西方に送られた。Dデイ当時のフランスには約200個大隊もの東方大隊が存在しており、この約半分はフランスに駐屯していたドイツ国防軍の師団に配属されていた。普通の師団は1個大隊、多い場合は2個大隊もの東方大隊がそれぞれの師団に配属されていたのである。残りの半分は軍集団司令部や軍団司令部に配属されており、状況に応じて戦線に投入された。


彼らはあくまでドイツ国防軍所属の兵士であり、武装親衛隊が編成した東方出身者による義勇兵師団とは別の存在である。下士官や将校はドイツ人だったが当然大半の兵はドイツ語を喋る事が出来ず、訓練の水準も低く武器も古いものしか支給されなかった。当然だが一部の部隊を除いて士気は総じて低く、連合軍の部隊が近付いただけですぐに降伏してしまうものが多かった。アゼルバイジャンやトルクメニスタン出身の兵士に、ドイツ軍のためにフランスの地で米軍や英軍と戦って死ねという方が無茶なので、これは無理からぬことだと言えよう。スティーヴン・アンブロースが書いた『Dデイ』の中にはドイツ人の下士官を射殺したあと嬉々としてアメリカ軍に降伏したポーランド人部隊の話が紹介されている。わずか3人で40人もの捕虜に投降されたアメリカ兵達は非常に面食らったという(後にポーランド系将兵の通訳で事態を把握したらしい)。


無論、ドイツ国防軍も別にこの東方大隊がドイツ兵と同じように戦うと思っていた訳ではなく、彼ら東方大隊を使って後方地域を押さえておくことで、その分ドイツ人の兵士を前線に派遣できると考えていただけである。もちろんこの場合、一番の問題は後方地域だったはずのフランスが後方地域ではなくなってしまった事だが、ほとんど全ての方向から攻められていたドイツには、後方と呼べる地域は本国ぐらいしかなかったのだろう。


また、この「フランスは後方地域である」という認識・扱いは東方大隊に関してだけではなかった。当時のドイツ軍では東方戦線で燃え尽きるまで戦った師団は戦線から抽出し、フランス(もしくは本国)に送ってその地で再建していたため、連合軍が上陸した時点でフランスに駐屯していたドイツ軍の多くは良く言えば東部戦線帰りのベテラン、悪く言えば東部戦線で磨り減るまで戦った師団の残余だったのだ。ロンメルがB軍集団司令官に着任してから一部精強な部隊が配属されるようになったが、それらの部隊は主にパ・ド・カレー方面に配属され、その他の戦域では二線級の部隊が主に沿岸部を防衛していた。


東方戦線にほとんど全力を傾注していたドイツは、大西洋沿岸防衛のために今まで軍役を免除されていた者まで徴集して部隊を編成していた。その中には消化器の問題を抱えている者をまとめて部隊にしたり、第一次世界大戦で戦ったことのある老人、もしくはドイツに送り返された傷病兵などが含まれていた。また、連合軍による昼夜の爆撃により、フランス国内の輸送路は分断され、ドイツ本国からの補充兵や物資はなかなか前線に届かなかった。



空軍


ドイツ空軍はこの時フランス北部沿岸全体に183機しか戦闘機を保有(そのうち使用可能機は160機)していなかったが、国防軍最高司令部(OKW)は、このうちの160機を、フランス北部沿岸地帯から移動させる決定を下す。それはドイツ本土への空爆に対応させるためと、残り少ない戦闘機を、とりわけ爆撃の激しいフランス北部沿岸で損耗させることを避けるためだったが、国防軍最高司令部が海の荒れる6月には連合軍は上陸しないと見ていたのも大きな要因である。


このおかげで、6月6日当日の上陸作戦に対し、リールにあったJG26(第26戦闘航空団)からヨーゼフ・プリラー大佐とハインツ・ヴォダルチック軍曹の駆る2機のFw 190戦闘機が出撃し、上陸中の連合軍に一回の機銃掃射を加えたのが、ドイツ空軍戦闘機が唯一行った上陸作戦に対する攻撃となった。


しかし、その状態は当日のみで、ドイツ空軍の立ち上がりは早く、D-day翌日には15個以上の飛行隊が可及的速やかに異動され、その結果約300機ほどの戦闘機が西部戦線に配備されたが、連合軍空軍に比べると明らかに劣勢であり[6]、7月に入る頃には170機ほど失い、壊滅的状態に陥った。このため、制空権はドイツ空軍の手に入ることはほとんどなかった。その戦力差を考えると如何ともし難い状況だったのだが、ノルマンディーで散々連合軍の戦闘爆撃機に悩まされる事となったドイツ兵達は「我々の空軍は何処だ?」と嘆く事となった。


航空勢力はほぼ壊滅していたが、残された空軍地上要員はまだ多く、ゲーリング空軍総司令官は彼らを集めて空軍地上部隊を編成することを決める。まともな訓練も受けずに歩兵師団として戦闘に投入されたこれらの部隊は、ほとんどが大きな損害を受けた。



海軍


ドイツ海軍総司令官のカール・デーニッツ元帥は大西洋の防壁を支援するためUボートを敵上陸に備え配備した。内訳はベルゲン、スタヴァンゲル、クリスチアンサンドに中央グループの36隻が、ラントビルトグループは15隻がブレストに、ロリアン、サン・ナゼール、ラ・パリスに計21隻が、いずれ行われる敵上陸の警戒潜水艦部隊として各地に温存された。但し、その内シュノーケルを装備した改良艦は8隻しかなかった。また、ドイツ海軍には開戦以前から大型艦は乏しく、しかも1942年にフランスにおいて激しい英軍の空襲からの損耗を避けるため北海へと移動(ケルベルス作戦、英名チャンネル・ダッシュ)し1944年にはフランスには小艦艇のみが残存するだけであった。



上陸前夜


連合軍が徹底的にオーバーロード作戦を秘匿したにもかかわらず、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が指揮するアプヴェーア(国防軍情報部)は、オーバーロード作戦が開始される前兆として、BBC放送がヴェルレーヌの「秋の歌」第一節の前半分、すなわち「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」を暗号として放送するという情報をつかんでいた。これは月の1日か15日に放送され「連合軍の上陸近し。準備して待機せよ」という、ヨーロッパ大陸の対ドイツレジスタンス全グループにあてた暗号放送であった。


6月1日、午後9時のBBC放送ニュースの中のコーナー「個人的なおたより」でこの暗号は放送され、アプヴェーアは国防軍最高司令部(OKW)とカレー方面を防衛する第15軍司令部、西方軍集団総司令部、B軍集団司令部に警告を発する。カレー方面を守備する第15軍は警戒態勢に入ったが、ノルマンディ方面を守備する第7軍はなんの連絡も受けなかった。OKWで連絡を受けた作戦部長アルフレート・ヨードル大将は陸軍参謀本部の第三課長レンネ大佐に警告の件を伝えたが、レンネ大佐は格別な措置をとらなかった。


「秋の歌」の最初の部分の録音を聞き終えると、マイヤーはただちに第一五軍の参謀長ルドルフ・ホフマン少将に報告した。「暗号の第一部が発せられました。どうやら何かが始まりそうです」と彼は言った。
— コーネリアス・ライアン『史上最大の作戦』62ページ

6月2日、OKWから暗号傍受の連絡を受けた西方軍集団総司令部のフォン・ルントシュテットはB軍集団のロンメルがこの事を承知済みと思い込んでいたため、何の指示も行わなかった。しかしB軍集団情報主任参謀アントン・シュタウブヴァッセル大佐(Anton Staubwasser)は「秋の歌」に関する情報など聞いたことがないと戦後主張している。(ロンメルとシュタウブヴァッセルは5月30日の時点で、6月中には「5・6・7日、もしくは12・13・14日」が気象条件から見て上陸に適した時期であると想定していたが、連合軍の上陸予定地をセーヌ川かソンム川の河口と考えていた)


6月3日、ロンメルは妻マリアへのプレゼント(サイズ5半、手作りでグレーのスウェード革の靴)を買うためパリに出かけ、西方軍集団は「本日もなお侵攻切迫の情報なし」と総統大本営に連絡している。しかしB軍集団では侵攻が切迫していると推定し、海岸障害物の改築を指令したが、この完成予定日は6月20日であった。


6月4日、ロンメルは妻の誕生日を祝うためと、B軍集団に少なくとも5個師団の指揮権を委譲するようヒトラーと直接交渉するため、副官のフォン・テンペルホーフ大佐とヘルムート・ラング大尉を連れ、午前7時、B軍集団司令部のある小さな村、ラ・ロッシュ・ギュイヨンを発つ(ロンメルは数か月前から4日からの休暇を申請し、日程を調整していた)。


この日ドーバー海峡付近は激しい暴風雨に見舞われていたためアイゼンハワーは作戦期日の1日延期(6月5日のノルマンディー沖での集結のため4日からすでに出航していた輸送船団は中止の命令を受けて引き返した)を決定し、D-デイは6日になった。ドイツはこの悪天候が9日まで回復しないであろうと予想し、連合軍の上陸はないと判定したため幹部の休暇要請を許可している。前述のロンメルのほか、海軍総司令官カール・デーニッツをはじめ、西方軍集団情報主任参謀マイヤデトリング大佐、諜報を担当する国家保安本部軍事部長ハンセン大佐も休暇をとっていた。しかし連合軍は6日に天候が回復すると観測していた。ドイツ軍は大西洋方面の気象観測基地を多く失っており、予報にかけては連合軍が有利であった。


6月5日、ドイツ時間午後9時15分、「秋の歌」第一節の後半「身にしみて ひたぶるに うら悲し」はアプヴェールによって傍受される。これは「放送された日の夜半から48時間以内に上陸は開始される」との暗号で、アプヴェールは直ちに関係する各部隊へ警報を発したが、「史上最大の作戦」の著者コーネリアス・ライアンも「謎」としているように、各部隊は表立った対応をとらなかった。西方軍集団司令部参謀長ギュンター・ブルーメントリット大将は「商業ラジオで作戦を予告する軍司令部など、この世にあるはずがない」と、この情報を無視した。シュタウブヴァッセルも別ルートから情報を得てB軍集団参謀長ハンス・シュパイデル中将に連絡した。しかしシュパイデル中将も情報を重視せず、西方軍集団司令部に相談せよと言ったのみであった。シュタウブヴァッセルは西方軍集団司令部に連絡したが「第7軍への警戒指令は必要ない」と連絡された。またしても、警戒態勢をとったのはカレー方面に展開した第15軍のみであったが、上級司令部に通報を行わなかった。


連合軍の船団はノルマンディの上陸地点から四時間のところにいた。そして、三時間後には、一万八〇〇〇名のパラシュート部隊が夜のとばりのおりた田園地帯に降下しようとしていた──Dデーの警報を受けなかった唯一のドイツ軍部隊の展開地域の真ん中へ、である。
— コーネリアス・ライアン『史上最大の作戦』147-148ページ


上陸



空挺部隊





ペガサス橋


上陸開始に先立って、海岸付近のドイツ軍を攪乱し、反撃行動を妨害し、上陸部隊の内陸進攻を容易にするため、トンガ作戦を開始。イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始した。


英第6空挺師団は午前0時10分過ぎ、最初に活動を始めた部隊だった。彼らの主任務はソード・ビーチからやや南東にある、内陸進攻に必要なペガサス橋とホルサ橋の2つの橋の占領確保、そして作戦の最も困難な部分は4門の大口径砲を備えたメルヴィル砲台陣地の無力化であった。これらの砲は上陸艦隊に対する脅威と見なされており、遅くても午前5時30分までに無力化せよと命令されていた(トンガ作戦を参照)。4255名の英第6空挺師団は橋と砲台の周辺に第1波はパラシュート、第2波はグライダーで強行降下・着陸を試み、作戦を開始する。橋は短時間で確保することができたが、メルヴィル砲台陣地の攻略は困難を極めた。


襲撃に先立ち0時30分から行われた砲台陣地への予備爆撃は砲台を1台も破壊できず、予備爆撃のさなかに着陸するはずだった空挺師団に火力を増強するための装備を満載したグライダー隊は1機も到着できず、砲台陣地を攻撃する予定の部隊700名は広い地域に散らばってしまったため、指揮官テレンス・オットウェイ中佐の元に集合できたのはわずか150名であった。この不利な状況にもかかわらず部隊は勇敢に攻撃を開始し、約70名の死傷者を出しながら午前5時15分には砲台陣地は破壊され、任務達成を知らせる黄色い信号弾が打ち上げられた。砲台守備兵200名のうち、生存者は22名だけだった。





サント=メール=エグリーズの教会にある、82空挺師団ジョン・スティール二等兵の人形。ドイツ軍がいる町の真ん中に降下してしまったスティール二等兵のパラシュートは教会の塔に引っかかり、彼は捕虜になるまで死んだふりをしていた


ノルマンディー地方の西方、ユタ・ビーチのあるコタンタン半島には、米第82および第101空挺師団が降下していたが、彼らの任務もまた困難に遭遇していた。一部はパイロットの経験不足で、また一部は降下困難な着陸地点のため、部隊は広い範囲に散らばって降下した。ドイツ軍は空挺部隊の行動を阻むためにこの地方の川をせき止めて沼を作り出しており、少なくない数の兵士たちがこれらの沼に降下して溺死し、輸送機から飛び出すのが遅すぎた者たちは海に降下して溺死した。24時間後、第101空挺師団のうち3,000名だけが集合できた。多くが敵の後方を歩き回り戦うことを継続させられた。第82空挺師団は6月6日の早朝にサント=メール=エグリーズの街を占領し、同地は侵攻によって解放された最初の街となった。


輸送機は西から東へ進んだのだが、半島を横切るのに12分しかかからず、降下が遅すぎた者は英仏海峡へ落ち、早すぎた者は西海岸から冠水地帯の間に落下した。…ある者は飛び降りるのがおそすぎ、下の闇をノルマンディだと思いながら英仏海峡へ落ちて溺死した…いっしょに降下した兵士たちはほとんど重なりあうようにして沼に突っこみ、そのまま沈んだきり上がってこない者もあった
— コーネリアス・ライアン「史上最大の作戦」pp.199-200


上陸部隊


イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、西から順にブラッドレー将軍指揮のアメリカ軍担当の「ユタ」(第4歩兵師団コリンズ将軍指揮)・「オマハ」(第1歩兵師団ゲロウ将軍指揮)、デンプシー将軍指揮のイギリス軍担当の「ゴールド」(第50歩兵師団ブックノール将軍指揮)・「ジュノー」(カナダ第3歩兵師団)・「ソード」(第3歩兵師団)の5つの管区に分けられた。


航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられていた。そして1944年6月6日午前6時30分、5つの管区で一斉に上陸を開始し、上記のドイツ軍の防衛態度の意見の混乱から、オマハ以外では犠牲を少数にとどめ上陸を果たした。


「嘘じゃない!」と彼は叫んだ。「信用しないのなら、ここへ来て、自分の目で見たまえ!途方もない船団だ!信じられない眺めだ!」ちょっと間があいて、再びブロックの声がもどった。「その船団はどちらへ向かっているのかね?」受話器を握りしめたまま、プルースカットは銃眼に目をやって答えた。「まっすぐ私の方へだ!」
— 『史上最大の作戦』pp.247




戦艦ネバダからの艦砲射撃。



ソード・ビーチ


ソード・ビーチでは英第3歩兵師団が上陸に成功し、彼らの死傷者は少数であった。彼らはその日の終わりまでに約5マイル (8km) 進撃したが、モントゴメリーによって計画された目標のうちのいくつかには到達できなかった。主要目標のカーンは、D-デイの終了時にもまだドイツ軍の支配下にあった。


第1特務旅団は、二つのフランス兵部隊を伴ったイギリス海兵隊第4コマンドに率いられて第二波として上陸した。彼らはウイストラムに個別の目標を持っていた。フランス兵部隊の目標はブロックハウスとカジノであり、第4海兵隊の目標は海岸を見下ろした二つの砲台であった。ブロックハウスはコマンドのPIAT (Projector Infantry Anti Tank、要は対戦車グレネードランチャー) では破壊が困難であったが、カジノはセントー戦車の支援によって撃破された。イギリス海兵隊第4コマンドは、目標の二つの砲台がすでに砲の外された砲架だけだったことを確認した。歩兵部隊に仕上げの手続きを任せて、第1特務旅団の残り(イギリス海兵隊第3、第6および第45コマンド)と合流するために彼らはウイストラムから内陸へ移動し、続いて第6空挺師団との合流を目指した。



ジュノー・ビーチ




ドイツのSボートの出現に備えるイギリス海軍の高速魚雷艇。


ジュノー・ビーチに上陸したカナダ軍は11基の155mm砲重砲台および9基の75mm砲中砲台に直面した。またそこには機関銃の巣とトーチカや他のコンクリート堡塁、そしてオマハ・ビーチの二倍の高さの護岸堤が立ちはだかっていた。第一波は、オマハ以外の5つのD-デイ上陸拠点のうちで最高の50パーセントの死傷者が出た。


障害にもかかわらずカナダ軍は数時間の内に海岸に上陸し、内陸への進軍を始めた。第6カナダ機甲連隊(第1軽騎兵)は、15km内陸のカーン - バイユー間のハイウェーと交差するという目的を達成した唯一の連合軍部隊だった。


D-デイの終了までに、14,000人のカナダ兵が上陸に成功した。また、第3カナダ師団は上陸拠点で激しい抵抗に直面したにもかかわらず、他の連合軍部隊より内陸に侵攻した。D-デイにおける最初の反撃は、第21装甲師団がソードとジュノーの間で行った。また6月7日および8日には、橋頭堡を構築したカナダ軍に対し第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」の反撃が行われた。



ゴールド・ビーチ


ゴールド・ビーチでは部分的に水陸両用シャーマンの到達が遅れ、死傷者が増えることとなった。またドイツ軍は海岸上の村を防衛拠点として強化していた。しかしながら第50師団は障害を克服し、その日の終わりまでにバイユーの周辺に向かって前進した。ジュノーのカナダ軍を除くと、第50師団より目的に接近した部隊は存在しなかった。


イギリス海兵隊第47コマンドは最後に上陸した英軍コマンド部隊で、ゴールド東のル・ヘメルの陸上に進出した。彼らの任務は内陸に進撃し、西方に向かい敵領内へ10マイル進軍しポール・アン・ベサン湾を背後から攻撃することだった。この石灰岩の断崖で守られた小さな港は英軍にとって、沖合のタンカーから海底パイプを通じて燃料供給を行うために初期の最重要目標となっていた。



オマハ・ビーチ




上陸用舟艇内の兵士達。


オマハ・ビーチにおいては米第1歩兵師団が最悪の苦難を経験した。ここでは他の海岸に比べ特殊装甲車両の装備が少なく、さらにオマハに割り当てられた水陸両用戦車27両の多くは高潮の影響で次々と浸水し、海岸に到着する前にほとんどが失われた。更に、上陸用舟艇10隻も戦わずに沈没するハプニングに見舞われている。


しかも連合軍にとって悪いことに、当初海岸に配備されていたドイツ側の守備隊は二線級の第716歩兵師団と予測されていたが、実際は東部戦線における激戦の戦闘経験を持つ第352歩兵師団であった[7]。第352歩兵師団は連合軍の知らぬ間にオマハ正面へ布陣しており、その火点の多くが事前の航空爆撃や艦砲射撃にも生き残り、上陸部隊を猛烈に攻撃していた。


彼らは海岸を見下ろす険しい崖の上を拠点とした。公式記録は次のように述べる。


「上陸10分以内に(先導)部隊は指揮官を失い活動能力を失った。指揮をとる全ての士官および下士官は戦死または負傷した。……それは生存と救助のための闘争となった」

上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗により海岸へ釘付けとなり、死傷者が続出。そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。その光景はさながら、地獄絵図そのものであった。


多大の犠牲を払いながらも、連合軍は午後1時頃には防衛戦を突破。夕刻までには1・5キロメートルほど内陸へ進出した。


2500名とも、4000名とも言われる、多数の死傷者が出たが、それにもかかわらず生存者達は再編成され内陸に進撃した。死傷率が一番高かったので「ブラッディ(血まみれの)・オマハ」と呼ばれている。


オック岬のドイツ軍コンクリート要塞は米第2レンジャー大隊の攻撃目標であった。彼らの任務は敵の砲火の下ロープと梯子を用いて高さ約30mの崖を登り、ユタとオマハを射程とした要塞内の砲を破壊することであった。部隊は到達に成功し、おそらく前日の爆撃中に移動された砲は見つかり破壊された。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50パーセントだった。



ユタ・ビーチ


オマハ・ビーチとは対照的に、ユタ・ビーチでの死傷者数は197名で全上陸管区中最少であった。これは、潮流や視界不良などにより、当初予定されていた上陸地点を東に2kmほどずれたのが、かえって幸運だったためである。23,000名が上陸を果たし、彼らは内陸に進撃を行って先陣空挺部隊との連絡に成功した。



上陸後




連合軍の揚陸風景





第2歩兵師団 戦闘後の揚陸(オマハ・ビーチ)


  • 6月5日 - 6日:デトロイト作戦(米第82空挺師団)、シカゴ作戦(米第101空挺師団)、トンガ作戦(英第6空挺師団)

  • 6月6日:ネプチューン作戦

  • 6月25日 - 29日:エプソム作戦

  • 6月27日:シェルブール陥落

  • 7月7日:カーン陥落

  • 7月17日:王立カナダ空軍スピットファイアの機銃掃射でエルヴィン・ロンメル元帥が負傷。

  • 7月18日 - 20日:グッドウッド作戦

  • 8月3日 - 9日:トータライズ作戦

  • 8月16日:ドラグーン作戦

一旦上陸拠点が確保されると、2基の「マルベリー」(人造埠頭)が分割されイギリス海峡を運搬された。一基はアロマンシュで構築され、もう一基はオマハ・ビーチに設置された。しかしながらオマハのマルベリーは6月20日の暴風で破壊された。このため連合軍の物資の揚陸が3日間ほど停止した。アロマンシュ港では9,000トンに及ぶ物資が毎日陸揚げされ、1944年8月末にアントウェルペンとシェルブール港が確保、運用されるようになるまで続けられた。


海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は弱体化していった。唯一の例外がロンメルによってサン・ローからオマハ・ビーチ防衛のため移動させられた第352歩兵師団であった。同師団の強固な防御陣と、連合軍諜報部が考慮したドイツ軍第716歩兵師団の二大隊が投入された可能性が同管区の死傷者の激増の原因となった。また、多くの上級指揮官が演習を行うため前線を離れていたことが状況をより悪化させた。また、米空挺部隊が北部ノルマンディーに分散して降下したことも混乱を増す原因となった。


米空挺部隊は別に最初から分散して降下するはずではなかったのだが予想を上回る対空砲火のせいで輸送機が分散してしまい、その結果広範囲にわたって降下する羽目になってしまった。しかし、そのせいでドイツ軍は降下してきた米軍空挺部隊の実数が掴めず対応に苦慮することになってしまった。また、上陸が始まった後も連合軍の仕掛けたフォーティテュード作戦は機能し続け、ドイツ軍上層部はかなり長い事ノルマンディーへの上陸はカレー上陸を容易にするための陽動作戦ではないかと疑い、カレー方面の兵力を動かすタイミングを逃してしまった。ノルマンディーへの上陸作戦を主攻撃だと断定してカレー方面の部隊に移動命令が下った頃にはすでに状況は手遅れだった。


こういった悪条件にもかかわらず、第21装甲師団はソードとジュノーの間で反撃を行い海岸への到達に成功した。しかし対戦車砲による強固な抵抗と、彼らが遮断されてしまうという恐れから6月6日の終わりまでに撤退することとなる。いくつかの報告書によれば、上空を飛ぶ空挺部隊の観測が退却決定に影響した。


連合軍の侵攻計画は、初日にカランタン、サン・ロー、カーンおよびバイユーを確保し、ユタとソード以外の海岸を連携させ、海岸から10 - 16km進出することであったが、実際にはどれも達成できなかった。作戦全体の死傷者は予想より少なく(10,000人前後が予想され、チャーチルは20,000名に及ぶことを心配した)、橋頭堡は予想されたほどの反撃は受けなかった。上陸に続く優先事項は、橋頭堡の連携・カーンの奪取・シェルブール港の確保と安全な補給の確立、であった。


ドイツ第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」は6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えたが、前進することはできなかった。その間に各管区の海岸は全て制圧され統一された拠点となった(ソード:6月7日、オマハ:6月10日、ユタ:6月13日)。連合軍はドイツ軍より急速に前線を強化していった。彼らは海岸に全てを上陸させなければならなかったが、連合軍の制空権およびフランスの鉄道網の破壊は、ドイツ軍の移送を停滞させ危険なものとしていた。


ユタとオマハ後方の地域はボカージュ(生垣)によって特徴づけられた。高さ3m近い古くからの土手と生け垣は、それぞれが100 - 200mにも及び、戦車、砲撃、視界を妨げ理想的な防御陣地を形成した。米兵の展開は遅れ、シェルブールへの進撃は多数の死傷者で苦しめられた。空挺部隊は停滞する進撃を再開するよう再三要求された。ヒトラーはシェルブールの防衛部隊が連合軍に橋頭堡を与えないことを期待したが、指揮官は6月26日に降伏した。これにヒトラーは激怒し、軍法会議を恐れた第7軍司令官フリードリヒ・ドルマン上級大将は心労から心臓発作を起こして[8]死去した。


ノルマンディー地方のカーン(6月25日-7月20日のエプソム・グッドウッド作戦)・サン・ロー(7月25日-8月2日のサン・ローの戦い)・ファレーズ(8月10日-19日のファレーズ包囲戦)では激戦となったが、8月25日パリを解放した。


またソ連軍はノルマンディー上陸作戦に呼応した作戦として東部戦線において、6月初めにヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢を、6月末に全面的な攻勢作戦であるバグラチオン作戦を実行した。



ドイツ陸空軍の防衛対応


作戦開始当初、ルントシュテットとロンメル両司令官、シュパイデルB軍集団参謀長、そしてOKW作戦局長ヨードル大将、最高司令官のヒトラーは就寝中であった。
総統大本営とOKWはノルマンディに連合軍の上陸行動ありと連絡されたが、これはカレーへの本格上陸のための陽動であると判定していた。そのため作戦局長のヨードル大将や、寝起きが強烈に不機嫌なヒトラーを起こさなかった。
起こされたシュパイデル参謀長やブルーメントリット西方軍集団参謀長も当初は陽動作戦であると見ていたが、連合軍の作戦範囲があまりに広かったために対応は遅れた。シュパイデルらがこれを本格上陸と断定できたのは日の出の後であり、ドイツ本土ヘルリンゲンの自宅にいたロンメルが連合軍上陸開始の連絡を受けたのは、午前10時15分に至ってのことであった。ロンメルは直ちに司令部に戻り、指揮に当たった。


ヒトラーが起床し、作戦会議が開始されたのは正午になってからであった。しかしOKWとヒトラーはなおも上陸作戦を主作戦ではないと見ており、第二の上陸作戦を警戒していた。もしノルマンディーへの上陸が陽動だったとしても今のうちに叩いておかなければ主攻撃が来た時に十分に対応できない、とロンメルやルントシュテットが説明しても無駄だった。このため、ドイツ側はノルマンディーへの対処に全力を注ぐことはできなかった。



ドイツ海軍の防衛対応


ドイツ海軍のデーニッツはUボートを敵上陸に備え配備した。また、ドイツ海軍には開戦以前から大型艦は乏しく、しかも英軍の空襲からの損耗を避けるため北海へと移動し1944年にはフランスには、掃海部隊、哨戒・港湾防衛のための小艦艇が残存するだけであった。


6月6日01時00分にドイツ側司令部に最初の警報が入った。侵攻艦隊は航行中であったが、パリのクランケ提督は降下作戦の段階で主上陸作戦の開始と判断した。03時15分BdUデーニッツ提督は海軍軍令部第1課よりフランスの降下部隊の報告を受けた。03時20分ノルウェーの中央Uボートグループに警報が発令され、待機。03時45分にはフランス・ビスケー湾のラントヴィルトUボートグループにも警報が発令され35隻のUボートは「最後の出撃である。浮上して全速航行。攻撃する敵機は撃退せよ」との命令に従い行動した。さらに、05時には大西洋のスノーケル付きの改良Uボート5隻に全速でフランス西部へ向かえと指令が出された。
しかし、1時45分にラントヴィルトのU256が哨戒機の攻撃を受けたのを皮切りに、6月7日までの24時間に4機の英軍機撃墜と引き換えに、6隻のUボートが重大な損傷を受けてブレストに帰還を余儀なくされた。また、ラ・パリスよりのケーテル大尉のU970と、大西洋からのバーデン中尉のU955は失われた。


水上艦隊は、ハインリッヒ・ホフマン少佐の第5水雷艇隊の水雷艇T28、メーヴェ、ヤグアーが第一陣として6月6日未明にル・アーブルから出撃した。3隻の水雷艇はソードビーチ沖の艦隊に対して雷撃を行い、自由ノルウェー海軍の駆逐艦スヴェンナー(HNoMS Svenner)を撃沈した。攻撃後、敵弾を回避し帰還に成功。翌日7日夜間にも出撃し複数の戦艦と10.5センチ砲で砲撃戦を行った。



歴史的意味および余波


全体的に見た場合、この作戦は成功であったとするしかない。連合軍はフランス上陸に成功し、第二戦線を構築した。その結果ドイツ軍は、陸上でも二正面作戦を展開することを余儀なくされ、東部戦線で赤軍が開始したバグラチオン作戦に満足に対応することができなかった。この作戦でドイツ中央軍集団は壊滅的な打撃を受け、占領していた地域のかなりの部分を失い、ドイツは継戦能力を大きく削がれることとなった。


しかし、ひとつの作戦としてみた場合は、オーバーロード作戦は完全に成功したとは言いがたい。まず、作戦でもかなり重要なポイントとされていた大規模な港湾の確保に手間取ってしまったことが挙げられるだろう。作戦の初期段階で奪取するはずだったシェルブールは6月26日まで抵抗を続け、占領時点で港湾施設はドイツ軍守備隊により完全に破壊されていた。この港湾は8月末まで機能しなかった。同じく作戦の初期段階で奪取するはずだったカーンも占領に手間取り、連合軍が同市及びその周辺地区を完全占領下に置いたのは7月27日になってからであった。作戦開始から40日間の間に達成するはずだった目標(カーン及びシェルブールの占領)をどちらも達成できなかったということになる。


港湾施設の占領の遅れに起因した悪影響として、重装備の揚陸が大幅に遅延し、通常補給にも多少の遅延があった。ただし、Dプラス10日にはノルマンディー海岸で人工港のマルベリーが稼働を始め[9]、上陸部隊の物資不足は引き起こさなかった。


ドイツ軍の守備の妙もあり、連合軍はどの方面でも予定通りに進撃することができず、ノルマンディー以外のフランス解放はかなり遅れた。1944年8月、南フランス上陸作戦(ドラグーン作戦)が行われたが、ドイツの抵抗で、プロヴァンス地方が解放されただけであり、フランス全土の解放は、イタリア戦線で1945年1月、連合軍がゴシック線を突破し、イタリア北部からフランスへの進撃が始まるのを待つこととなった。


対米英和平に傾いたルントシュテットは7月2日に更迭され、西部方面軍司令官にはギュンター・フォン・クルーゲが就任した。クルーゲとロンメルは不仲であり、西部方面軍の結束はさらに乱れた。また、反ヒトラーグループに参加していたシュパイデル参謀長もロンメルに対して対米英和平とヒトラー排除を進言するようになり、ロンメルも対米英和平を唱えるようになった。これは後にロンメルが粛清される原因ともなった。


6年後に勃発した朝鮮戦争においては、このノルマンディー上陸作戦をモデルとして、仁川上陸作戦が立案された。アンツィオ上陸作戦とノルマンディー上陸作戦の反省を踏まえて慎重かつ周到に準備した結果、北朝鮮軍の抵抗が予想以上に少なく、わずか3日でソウルを奪還した。



ノルマンディー上陸作戦を主題とした作品



映画


  • 『鉄路の闘い』(La Bataille du Rail、1945年、フランス映画):ルネ・クレマン監督の下、実際にレジスタンスとして戦った人々をキャストに迎え、ノルマンディー上陸を援護するフランスレジスタンスの鉄道線妨害活動を描いた。上映の翌年カンヌ国際映画祭第1回グランプリを受賞した。

  • 『史上最大の作戦』(The longest day、1962年、アメリカ映画):コーネリアス・ライアンの原作。ケン・アナキン、アンドリュー・マートン、ベルンハルト・ヴィッキ監督。

  • 『プライベート・ライアン』(Saving Private Ryan、1998年、アメリカ映画):『戦場にかける橋』を観て映画監督を志し、8mmカメラで最初に作った映画が第二次大戦ものだったスティーヴン・スピルバーグが念願かなって作った第二次大戦映画。トム・ハンクス主演。行方不明になったライアン二等兵を救助すべく派遣された8人の兵士を描いている。わざと旧式の機材を用い画質を落とすなど、スピルバーグらしい手の込んだつくりになっている。また、MG42機関銃の銃声を実際に録音して使ったり、2cm機関砲の破壊力を直接描写したり、ティーガーIやケッテンクラートなど、ドイツ軍の装備に関するスピルバーグならではのこだわりがみられた。作品の冒頭20分間では、オマハ・ビーチでのリアルなシーンが話題を呼んだことでも知られている。

  • 『マイウェイ 12,000キロの真実』(마이웨이、2011年、韓国映画):カン・ジェギュ監督、オダギリジョー、チャン・ドンゴン主演。

  • 『レディ・エージェント 第三帝国を滅ぼした女たち』(Les Femmes de l'Ombre、2008年、フランス映画):ソフィー・マルソーが主演、実話をもとにした映画。ノルマンディ上陸作戦の始まりの物語。たった5人のフランス女性が、女を武器に極秘の使命を受けドイツ軍の中に潜入する。

  • 『チャーチル ノルマンディーの決断』(Churchill、2017年、イギリス映画):時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルの作戦決行までの96時間を描いた作品。


テレビ番組


  • 『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers):スティーヴン・アンブローズによるノンフィクション。スティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクスによってテレビシリーズ化された。


漫画


  • 『ピーナッツ』 - チャールズ・M・シュルツは毎年D-デイに、犠牲となった兵士たちを悼み、感謝する漫画を描いていた。


ゲーム


  • 『メダル・オブ・オナー』
    第二次世界大戦時のヨーロッパ戦線及び太平洋戦線を描いたアクションシューティングゲーム。PC版で登場した「メダル・オブ・オナー アライドアサルト」、PS2版の「メダル・オブ・オナー 史上最大の作戦」は、映画「プライベート・ライアン」のゲーム版とも言われ、序章のオマハ・ビーチでの上陸作戦は激しいミッションで、当時を忠実に再現している。「メダル・オブ・オナー ヴァンガード」では、第82空挺師団によるノルマンディー半島への空挺降下作戦が描写されている。

  • 『コール オブ デューティシリーズ』
    上記メダル・オブ・オナーとしばしば比較されるタイトル。このタイトルを立ち上げたInfinity Ward社は、元々メダル・オブ・オナーを製作していた2015の一部のスタッフによって設立された(制作方針を巡って社と対立、“自分達が作りたいゲーム”を制作するために独立した)。「CoD4」などModern Warfareシリーズ以前はWW2を舞台とした内容である。「CoD1」に上陸前夜の空挺降下、「CoD2」にオック岬上陸作戦が登場する。

  • 『ブラザー イン アームズ ロード トゥ ヒル サーティー』&『ブラザー イン アームズ 名誉の代償』
    ノルマンディー上陸作戦の前日からストーリーが始まる第101空挺師団を描いたゲーム。ステージには空挺降下からのノルマンディー上陸が再現されており、落下傘降下からのさまざまな任務を遊べるというゲームである。このシリーズは一人一人の実在する兵士を忠実に再現し描かれているため『バンド・オブ・ブラザーズ』に似ている内容に仕上がっている。

  • 『カンパニー・オブ・ヒーローズ』
    THQ社製のRTS(リアルタイム・ストラテジー)ゲーム。キャンペーン・ゲームでは、オマハ海岸に上陸したアメリカ陸軍の一士官と彼が指揮する中隊の転戦と苦闘を描く内容が主となっており、ヴィエルヴィル、カランタン、シェルブールの解放からファレーズ・ポケットのドイツ軍包囲までを遊ぶことができる。101空挺師団を主に操作するミッションや、V2ロケット発射基地を破壊するミッションも存在する。続編のカンパニー・オブ・ヒーローズ オポ-ジング・フロントでは、英軍を主人公にした「カーンの解放」キャンペーンをプレイすることができる。

  • 『D-Day ノルマンディ上陸作戦』
    Digital Reality開発のRTS。日本では株式会社ズーが販売。キャンペーン・ゲームでは、ベガサス橋からファレーズ包囲までの全12ミッションを戦う。作中では60種に及ぶ兵器や装備が再現され、家屋への伏兵配備やオープントップ車両への狙撃、部位ダメージや遺棄車両の奪取等のルールを実装。製作に当たって仏Normandie Memoire協会の協力を得ており、付録として当時の生存者や従軍兵士の貴重なインタビューが収められている。


ボードゲーム


  • 『The Longest Day』(Avalon Hill)1979年

  • 『Breakout:Normandy』(Avalon Hill、L2 Design Games)1992年

  • 『JUNE - AUGUST '44: The Struggle for Normandy』(DDH Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第95号」)2008年

  • 『Destination: Normandy』(DDH Games、国際通信社「ウォーゲームハンドブック2010」)

  • 『Cobra:The Normandy Campaign』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第106号」)2008年

  • 『The Normandy Campaign』(GDW)1983年

  • 『June 6』(GMT Games)1999年

  • 『The Battle for Normandy』(GMT Games)2009年

  • 『Normandy '44』(GMT Games)2010年

  • 『D-DAY:The Great Crusade』(Moments in History)2004年

  • 『Atlantic Wall(大西洋の壁)』(SPI、ホビージャパン)1978年

  • 『Victory in Normandy』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第5号」)1992年

  • 『史上最大の作戦』(エポック社、サンセットゲームズ)1981年

  • 『D-DAY』(翔企画SSシリーズ、国際通信社「コマンドマガジン日本版第46号」)1989年


参考文献


  • Kenneth Macksey(著)、『戦闘 (原題:Battle, 1974)』、白金書房、1976年
    • Kenneth Macksey(著)、『ノルマンディーの戦闘』、朝日ソノラマ、1988年(白金書房の『戦闘』の改題復刻版)

  • フリードリッヒ・ルーゲ(Friedrich Ruge)(著)、『ノルマンディーのロンメル』、朝日ソノラマ、1985年、ISBN 4-257-17064-6(ロンメルの部下の回想録、昭和12年の杭州湾上陸作戦に使用された上陸用舟艇「大発」に関する記述がある)


  • コーネリアス・ライアン(著)、『史上最大の作戦(原題:The longest day)』、早川書房、1995年(原題のThe longest day は上陸第一日が勝負であると見たロンメルの言葉の引用である)

  • Micheal Reynolds(著)、Steel Inferno, I SS Panzer Corps in Normandy, Sarpedon, 1997, ISBN 1-885119-44-5(武装親衛隊「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」と「ヒトラーユーゲント」装甲師団のノルマンディーにおける戦闘記録)


  • パウル・カレル(著)、『彼らは来た(原題:Sie kommen)』、中央公論社、1998年(親衛隊中佐であった戦記作家のドイツ軍側からのノンフィクション)


  • スティーヴン・アンブローズ(著)、『D-デイ (原題:D-Day June 6, 1944, The Climactic Battle of World War II)』

  • Stuart Hills(著)、By Tank into Normandy, A Memoir of the Campaign in North-west Europe from D-Day to Ve Day, Cassel, 2002, ISBN 0-304-36216-6(ノルマンディ上陸作戦に参加した英軍戦車兵の回顧録)


  • ウィンストン・チャーチル(著)、『第二次世界大戦』、佐藤亮一訳、全4巻、河出書房新社


  • 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』全10巻、文春文庫、ガゼット出版

  • ダグラス・ボッティング著、上村巖 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「ヨーロッパ第2戦線」』、タイム ライフ ブックス

  • Die Woelfe und der Adniral /Wolfgang Frank /1953

  • Antony Beevor(著)、D-Day: The Battle for Normandy, Viking Adult, 2009, ISBN 0-670-02119-9


関連項目


  • ヴィレル・ボカージュの戦い

  • マーケット・ガーデン作戦

  • バルジの戦い

  • ロバート・キャパ


  • パンジャンドラム - 当初は当作戦にも使用予定があったとされている説もあれば開発実験自体が当作戦を成功させる為、ドイツ軍を目を引かせる為の囮という説もあったとも言われている。[10]


脚注




  1. ^ Tamelander, M, Zetterling, N (2004), Avgörandes Ögonblick: Invasionen i Normandie. Norstedts Förlag, p. 295


  2. ^ ライフ ヨーロッパ第2戦線 P.108


  3. ^ 大西洋の壁の建築範囲とそれまでの建築期間を考慮すれば無理もなかったと言えるが。


  4. ^ 歩兵連隊を3個有し、なおかつそれぞれが3個大隊編成のままだった(合計9個大隊)。この時点で通常のドイツ歩兵師団は2個連隊3個大隊編成(合計6個大隊)かひどい場合だと2個連隊2個大隊編成(合計4個大隊)まで削減されていた。各大隊の定員も第319師団は初期の1000人近い規模を維持していたのに対し他の師団では500人を割り込んでいる事も珍しくなく、実際の戦力差は所属大隊数以上に大きかった。


  5. ^ King's Ownとは「王自身の」と言う意味でイギリス陸軍に所属している部隊の一部に与えられている尊称である。「カナダ師団」の方はもし第319歩兵師団が連合国軍の捕虜になった場合、カナダにある捕虜収容所に送られるだろうと言う意味でそう呼ばれていた


  6. ^ 連合軍側はこの作戦のために戦闘機約5,000機と爆撃機約5,000機の合計約10,000機を投入しており、物量の点でドイツ側を完全に圧倒していた。


  7. ^ 師団自体は1943年11月に編成され、初陣であったが、将校、下士官の多くが東部戦線で壊滅した部隊から集めたベテランだった。兵士は30代の実戦未経験の老兵がほとんどであったが、ドイツ人のみで編成されていた


  8. ^ 第7軍の参謀長であったマックス=ヨーゼフ・ペムゼルは、ドルマンが青酸カリを服用して自殺したとしている。


  9. ^ ライフ ヨーロッパ第2戦線 P.200


  10. ^ 宝島社発行「マンガ 本当にあった! 世界の珍兵器コレクション」のパンジャンドラムの項参照。



外部リンク




  • The D-Day Museum in England

  • BBC WW2 history


  • Utah Beach to Cherbourg a U.S. Military History, written by Roland G. Ruppenthal. This work is in the public domain.

  • Music Inspired By D-Day

  • Juno Beach Centre

  • U.S. Navy Online Library of Selected Images: Normandy invasion

  • Second World War Newspaper Archives — D-Day Invasion and the Normandy Campaign


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