独ソ戦

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独ソ戦 | |
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![]() 上段左:ベルリン上空のIL-2シュトゥルモヴィーク 上段右:クルスクの戦いでのティーガーI 中段左:スターリングラード攻防戦時のソ連軍 中段右:1943-1944年時のJu 87 シュトゥーカ 下段左:降伏文書に署名するカイテル元帥 下段右:ユダヤ人女性を銃殺する特別行動部隊 | |
戦争:第二次世界大戦/大祖国戦争 | |
年月日:1941年6月22日から1945年5月8日 | |
場所:ウクライナ、ロシア西部、ポーランド、ドイツ東部他 | |
結果:ソ連軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
![]() ドイツ
| ![]() ソビエト連邦
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
1941年 400万 1942年 269万7000 1943年 | 1941年 268万 1942年 531万3000 1943年 |
損害 | |
犠牲者 1075万8000人 (諸説あり) | 犠牲者 1470万人 (諸説あり) |
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独ソ戦(どくソせん)(英語Eastern Front(World War II)) は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。
大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線(der Ostfeldzug)と表現される。
アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であると認識していた[5]。
1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。
開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、過酷な共産党の政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また反共主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。しかし、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。
この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、ドイツ兵が1075万人である。民間人の死者をいれるとソ連は2000〜3000万人が死亡し、ドイツは約600〜1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している(第二次世界大戦におけるドイツによる外国人強制労働)。またドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した(ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働)。
開戦から1943年7月のクルスクの戦いまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となり、1945年5月8日にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。
目次
1 経過
1.1 開戦までの両国の関係
1.2 1941年
1.3 1942年
1.4 1943年
1.5 1944年
1.6 1945年
2 戦場としてのソビエト・東部戦線
2.1 交通事情
2.2 土壌と気候・焦土作戦
2.3 パルチザン
2.4 同盟国
3 連合国における東部戦線の位置
4 戦争犯罪
5 対敵協力者
6 影響
7 評価
8 文献
9 ボードゲーム
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
経過
開戦までの両国の関係
第一次世界大戦後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、ラパッロ条約により国交を回復させた。当時のドイツはヴェルサイユ条約により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方、ソ連も共産主義国家として孤立し、シベリア出兵など列強各国政府から軍事干渉を受けた。ドイツには資源と場所が皆無だった。ソ連は資源と場所は恵まれていたが、技術が乏しかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。
1933年にヒトラーが政権を握った。ヒトラーをはじめとするナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は反共を唱えており、ソ連はナチスを「ファシスト」と呼んで批判していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」、「悪魔」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。また、赤軍大粛清の一因に、SD(親衛隊情報部)長官ハイドリヒの謀略があったともされる。
その後、一方のスターリンは、イギリスのドイツに対する宥和政策をみてイギリスとドイツが対ソ包囲網を結んでいるのではないかとの懸念から、また、他方のヒトラーは二正面作戦を避けることを目論んで、1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶこととなる。
この間にソ連は、ドイツに対してヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などを行い、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。またソ連から資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相はソ連とより強力な連携を取るべきと考え、日独伊にソ連を加えた四国同盟を構想していた。
しかしヒトラーはバトル・オブ・ブリテンの失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じており、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」とし[6]、さらに東方生存圏の獲得のためソ連侵攻を考えるようになった。1940年7月中旬には「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げ[7]、侵攻計画の策定を命令した[8]。この後も表面上両国関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした[9][10]。
一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵師団20個師団を編成し、暗号系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。ヒトラーは後に、「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している[11]。
1940年12月、ヒトラーは対ソ侵攻作戦バルバロッサ作戦の作戦準備を正式に指令した[12]。ソ連にはドイツの戦争準備を告げる情報が、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。しかし、スターリンを始めとするソ連上層部は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。
1941年

1941年6月から12月にかけての戦線
6月22日、バルバロッサ作戦の発動によりドイツ・ソ連国境で一斉にドイツ軍の侵攻が開始された。当初は5月の侵攻を予定していたが、ユーゴスラビアで発生した政変により作戦の開始が一ヶ月以上延ばされることになった。開戦直前、ヒトラーは赤軍に配属された政治委員の即時処刑を命令し(コミッサール指令)、「イデオロギー戦」としての性格を認識するよう軍指導部に伝えている[13]。
開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でスモレンスクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降・捕虜となった。また、ソ連赤軍の航空部隊は独ソ戦勃発時には、はるかに時代遅れでありドイツ軍の爆撃により壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握することに成功した。しかし南方軍集団は、投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。これは、近年では開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連赤軍が南部に兵力を集中させていたからという説がある(バルバロッサ作戦#奇襲成功の要因の項を参照)。しかしドイツ側の損害も甚大であり、1週間で1939年から1940年6月までのドイツ軍死傷者数を上回ることもあった[14]。
その為、8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援することによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊は壊滅し、キエフ、ハリコフなどが陥落した。この支援により中央軍集団の首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後、9月にモスクワ攻略(タイフーン作戦)に乗り出す。
ドイツ軍はクレムリンまであと十数キロのところまで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、赤軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫した。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。電撃戦を続けてきたドイツ軍にとっては初めてのケースであった。補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。
その頃、ソ連側はリヒャルト・ゾルゲなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、日本軍が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。国際面から言えば、アメリカのルーズベルト大統領がソ連に対する武器・物資援助(レンドリース法適用)に踏み切ったのは1941年11月7日、モスクワ市が陥落の危機を脱したと確認された時点である。このことは「モスクワを後回し」にしたことの誤りの一つとされる。[15]
ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の35%、100万人におよび、この年だけで戦死者は20万人に達していた[16]。国防軍の指導部はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された[17]。ヒトラーは陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュら多くの将軍を更迭し、自ら陸軍総司令官に就任することで、さらに独ソ戦の戦争指導に容喙することとなった[18]。ソ連側は12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から後退させる事に成功した。ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍による必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連赤軍は各個撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線崩壊を回避した。
ソ連側は焦土作戦によりドイツ軍の現地調達の手段を奪い、更にドイツが占領した地域の住民に対しパルチザンを組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給を妨害した。また、軍事的に重要な工場や労働者を貨物列車によりドイツの手の届かない内陸部にまで疎開させた。このことにより一時的に生産力は低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。
1942年

1942年5月から1942年11月にかけての戦線

スターリングラードでのルーマニアの兵士
ドイツ軍の損害を過大に評価したスターリンは、1942年を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年、赤軍の勝利の年に」と叫び、赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線での総反撃」を命じた。しかし、いまだ強力な戦力を保持したドイツ軍及びその同盟軍を打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなく、春先には総反撃は頓挫して戦線は膠着した。しかし、赤軍はドイツ軍を後退させたことにより、失いかけていた自信を回復することができ、ドイツ陸軍の無敵の神話は破られたのである[19]。このような状況の中でスターリンは前年の経験から「ドイツ軍は、決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と思い込み、モスクワ西部及び南面での防備の強化と、予想されるモスクワ進撃作戦を牽制し、事前にドイツ軍戦力を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令した(第二次ハリコフ攻防戦)。しかし、ドイツ軍の今度の主攻勢方面は全く逆のソ連南部を目指すものだった。
前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。こうして純軍事的目的ではなく、ヒトラーの言う戦争経済の元に計画が建てられた。6月28日、南部戦線にて、ヴォルガ川への到達とコーカサス地方の石油資源獲得を目的としたブラウ作戦が発動される。作戦開始当初は快進撃が続き、7月23日にはヒトラーが「(ブラウ作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった[20]。しかし赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。7月28日、スターリンは「ソ連国防人民委員令第227号」を発し、全戦線における抵抗を命じた[21]。コーカサスの油田地帯に向かったドイツのA軍集団は油田のあるマイコプを占領したが、油田はすでにソ連軍により火をつけられていた。次にA軍集団は油田のある東のグロズヌイに向かったが、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗により進軍は停止した[22]。
スターリングラードに向かったドイツのB軍集団は市の大部分を制圧したもののソ連軍の頑強な抵抗により冬が到来しても市街戦を続けていた(スターリングラード攻防戦)。このような中で、ソ連は極秘のうちに大規模な反攻作戦の準備を進めていた。反攻作戦は11月19日に開始され、スターリングラードのドイツ軍は補給路を切断されて包囲されることになった。空軍総司令官で国家元帥のゲーリングが空軍による空からの補給を約束したこともあり、ヒトラーはスターリングラードのドイツ軍の包囲突破による退却を許可せず、防御陣地を構築して戦うよう命じた。しかし、空軍による物資補給は必要量を届けることができず、包囲されたドイツ軍は日ごとに衰耗していった。ドイツ軍は包囲網の外から陸路での救出作戦も行ったが、救出軍はソ連軍の包囲網を突破することができなかった[23]。
1943年

1942年11月から1943年3月にかけての戦線

1943年2月から8月にかけての戦線

ルーマニア王国海軍 駆逐艦 マラシェシュティ
1943年1月後半、スターリングラードで包囲されていた約10万人の枢軸軍は、第6軍司令官パウルス元帥の決断により投降し捕虜となった。一方、コーカサスで進軍が止まっていたA軍集団もこの方面でソ連軍が大規模な反攻を開始したために退路を断たれる危険が迫ったが、こちらはヒトラーに撤退を認められ、2月に包囲網が完成する前にかろうじて撤退に成功した[24]。この結果、ブラウ作戦の目標はどれも達成させず、ドイツは膨大な兵員と資材を失っただけであった。ブラウ作戦の失敗、とりわけスターリングラード攻防戦の敗北は対ソビエト戦における決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。なによりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。
一方でスターリングラードの勝利は、ソ連軍にとって勝利への自信を持たせるに至った。ソ連の将軍であるゲオルギー・ジューコフは、「やはりドイツ軍も無敵ではないのだ。我々もドイツ軍を破りうるのだ。この確信を持てたことが決定的に重要であった。スターリングラード後も、ソ連にいるドイツ軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。が、我々でもドイツ軍を撃破できるとの確信を持てたこと。その効果こそが、限りなく大きかった。」と、スターリングラードの勝利を評価している[25]。
ドイツ軍ではブラウ作戦と、スターリングラードにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々な戦闘車両が生み出される事となった。主力戦車の交代(III号戦車→V号戦車パンター)、自走砲の出現、ブルムベアのような市街地戦闘を想定した大口径の突撃砲。これらの複数の戦闘車両は一部の旧式車両の車台を流用する場合を除き、戦闘車両生産をますます混乱させることとなった。
1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された(クルスクの戦い)。諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソ連赤軍の対戦車陣地に進撃をはばまれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。
時を同じくしてシチリアへの連合軍上陸の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。
1944年

1943年8月から1944年12月にかけての戦線
ドイツがソ連に侵攻を開始してからちょうど3年目の6月22日に、赤軍は一大攻勢であるバグラチオン作戦を発動した。ドイツ軍は当初攻勢は南部戦線と予測しており、赤軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。赤軍は、かつてのドイツ軍が得意としていた陸空一体の電撃戦を展開。圧倒的な物量・戦力差とヒトラーの厳命により撤退すら出来ない部隊はもはや機動戦すら出来ず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ドイツ中央軍集団は事実上壊滅することになる。
この作戦の結果、ドイツ軍はロシア全域から駆逐され、開戦前の国境線まで後退することになった。この段階で東部戦線の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。
南部ではヤッシー=キシニョフ攻勢の影響によりルーマニアでクーデターが発生し枢軸を離反、逆にドイツに宣戦を布告した。9月には、ブルガリアとフィンランドも枢軸側より離脱した。一方ハンガリーは、ドイツ軍主導のパンツァーファウスト作戦の工作により枢軸側に留まった。
1945年

1945年1月から5月にかけての戦線
1月からはソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢を行い、2月2日にはベルリンまで70kmにせまった。2月14日、ハンガリーの首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連赤軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。
4月16日、ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名されたカール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、5月7日にフランスのランスで降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。
5月8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)[26]。しかし、独ソ戦すべての戦闘が終結したのはプラハの戦いが終結する5月11日のことだった。
戦場としてのソビエト・東部戦線

ソビエトと戦うためドイツ陣営に加わるコサック(1942年)
ナチス・ドイツ軍がそれまでに行った戦いは鉄道網、道路網が整備された限定的な地域であり、目的地までの距離は比較的短かった。このことは、ドイツ軍が編み出した電撃戦という戦術を行うことにおいて有利に働いた。進軍・補給ともに計画もしくはそれ以上の結果を残したため電撃戦の効果を十二分に発揮できたのだ。電撃戦によって自軍の損害を小規模にとどめ、短期間に他国を蹂躙・占領し戦闘で消耗した兵器・兵士は修理・補充・休養を取り、資源を搾取する。このことは資源を持たないドイツにとって重要なことであった。戦争前からの経過を見ればわかることであるが、ドイツは他の方面の防衛は最小限とし攻勢の前面にほぼ全力を投入する戦闘を続けており(この命題は戦争をする者にとって最大かつ最重要なことであり正しいことである)、電撃戦の失敗による長期持久戦化はドイツにとって危険となる二正面作戦を生み出すことになるはずである。
独ソ戦の開戦時、機甲師団の能力・電撃戦の限界については未知数だったといってよい。なぜならば対ソビエトの戦闘においての進撃すべき距離は、これまでの戦闘とは比較にならない距離だったからである。
これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土を持つソビエトにおける戦いは電撃戦による短期決戦が可能かどうかという点については意見が分かれるところであった。電撃戦に必要なものは一にも二にも速度であり、これには補給と飛行場の確保が不可欠である。だが、ロシアの大地は電撃戦をしかけるにはあまりに広大であった。インフラストラクチャーは未整備、冬季は厳寒。攻撃する側は必要以上に十分な装備を持ち得ていなければならない非常に危険な大地だった。
広大な土地に対しての情報は不足し、道路の情報はほぼ間違いであるといって過言ではなかった。ほとんどの道路は未舗装であり、そのことが後に進軍を阻む泥濘と化すことを知らなかったのではないかといえるほど、ドイツ軍の準備はなされていなかったといえる。輸送に関し、いまだに無数の荷馬車に依存していたドイツ軍はロシアのぬかるんだ地面では嫌になるくらい進軍がはかどらなかった[27]。
これまでにも機甲師団の進軍においての故障率は対オーストリアへの進駐の段階ですら看過できない状態であり、戦闘期間が長引けばそれは機甲師団を軸に戦争の計画を立てている者にとっては恐るべき結果が待っていたといっても過言ではない。部隊の数を増やすことなどままならず、維持することすら多くの努力をもってなされていた状態であった。
ドイツの戦車は、ドイツ気質を体現するように最善を求めて作り上げた精密機械であった。電撃戦による短期決戦には対応できるが、長期持久戦を維持するには膨大な人的資源を必要とした。ロシアの冬は精密機械であるドイツ戦車を使用不能にするほど過酷な大地であった。驚くべきことに、ドイツはその気質を体現するかのように整備・回収の能力を保持していたといえるだろう。だがロシアの大地は苛酷であり、あらゆるものが故障し、放棄される運命にあった。そして補給の混乱がそれに輪をかけたのである。必要な部品は届けられず、他の兵器を活用するために部品を抜かれる兵器も多かった。
ドイツ軍のそれまでの対戦国はドイツと同等もしくは劣勢であると考えられる国々であったのに対し、ソビエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していた。戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはドイツ軍の敗北を意味していた。すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはドイツにとって過大な負担となることは明白であった。
このような状況・段階にもかかわらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価であり、バルバロッサ開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。確かにソビエト赤軍の対フィンランド戦での戦力比に対しての戦闘の状況、その元となる赤軍の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。まして独ソ戦初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかった。だが、赤軍の予備兵力はドイツ軍が想定するよりもはるかに膨大であった。もし勝利を得られることがあるとすれば、圧倒的な電撃戦による勝利か、開戦1年目のような捕虜・軍事物資の放棄が常に続くような状況でない限り勝利は遠かったのだ。
このようなドイツに対して、ソビエトは全力をあげて赤軍の組織を再編しドイツ軍に対抗した。

史上最大の戦車戦となったクルスクの戦い
陸・海・空という総合的な戦力が問われるわけではない独ソ戦において、ソ連赤軍には革新的ともいえるT-34という戦車の存在があったことは特筆すべきであろう。敵の砲弾を弾く効果的な形状を持ち、その形状にそった小さな砲塔には敵戦車に対しては必要十分な砲を持つという、対戦車戦において絶対的に優位な、今日における主力戦車の概念を与えうる戦車の歴史を変えるほどの戦車であった。確かに、その実態は様々な部分において洗練されておらず、無骨で運用面での様々な特性・利便を無視した設計でありドイツからみた戦車戦術からするとまだまだ問題の多い戦車であったといえその性能はさまざまな部分において欠陥が指摘されているであろう。だが、戦術という面ではなく戦車単独でみる限りにおいてその性能はずばぬけていた。ロシアの大地に最適な戦車であり大量生産しうる体制を確立し、それらを加味したうえで必要十分な性能を持った時代が必要としていた戦車そのものだったのである。独ソ戦という状況、かつロシアの平原においては既存のドイツ戦車を駆逐する性能と生産性と整備性を維持している驚異的な戦闘車両であった。ドイツから指摘しうる欠陥は砲塔、砲など着実に変更・修正され、やがて三人乗りの大型砲塔に85mmの砲を積むことによって中戦車としてはその量産性をもってしてドイツ軍を圧倒することになるのである。それに及ばず、トラックを利用した簡易なロケット砲(カチューシャ)、ソ連空軍は襲撃機といった対地攻撃に特化した航空機(シュトゥルモヴィーク)を量産し対抗した。
赤軍はその膨大な予備兵力によって、圧倒的な敗北から敗北を理解し、攻勢の失敗から攻勢のなんたるかを理解した。そして、予備兵力にかげりが見られるかと思われる段階において、もはや予備兵力のないナチス・ドイツに対して最大の大攻勢を行うのである。
交通事情

1943年、ハリコフでの第1SS装甲師団。戦闘車両はマルダーII
ロシアの鉄道はドイツとは軌間(レールの幅)が異なり(ドイツが標準軌なのに対し、ソ連側は1524mm(現在の公式発表では1520mm)のロシアゲージ(広軌の一種))、そのままではドイツから直接列車を乗り入れることができなかった。ドイツ側は列車の鹵獲を当てにしていたが、ソ連側はウラルへの工場疎開と同時に列車を避難させておりドイツ軍の鹵獲は思うように行かず、結局、工兵によって線路を標準軌に変更する工事を行った。これらの線路はソ連側の逆襲時にアメリカの援助を受けて元のロシアゲージに戻されている。冬季のロシアの厳寒はドイツが持ち込んだ蒸気機関車を容易に故障させた。劣悪な路盤整備においては大型の機関車の導入も拒んだ。
道路網は舗装もされていない整備がなされていない悪路が多く情報が不足していた。また、南北方向の道路網は比較的整備されていたが、東西に移動するドイツ軍の進撃には役に立たなかった。そのため、軍備増強を急いだために、自動車化が完全ではなく移動・補給の多くに鉄道と軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。自国の生産だけでは間に合わず、占領国からもかき集めたトラックなどを含めて荒れ果てた道路での利用による故障は甚だしく、輸送の効率は非常に低いものになった。
また、同時期に戦場となっていた北アフリカは、広大な戦域(地図上でみても、西端から東端までの距離は、ベルリンからモスクワよりも遠い)にも関わらず港湾付近以外では自動車以外の補給手段がない為にその作戦規模に比較して膨大な輸送用自動車が割かれていたことも大きな問題となっていた。確かに北アフリカ戦線は自動車以外の補給の方法は無かった。だが、要求する数量はあきらかに作戦が生み出すものからすれば桁はずれな数量であった。最前線に対しては1割の部隊への燃料補給に対して9割の補給部隊の燃料消費が必要なほど、補給部隊の消耗が激しかった。
それに対して、赤軍にはレンドリースによってアメリカから送りこまれた大量の軍用車両が配備されていた。カチューシャの台として用いられた物を含めたこれらの車両がなければバグラチオンのような電撃戦は無理であろうといわれている。
ドイツにおける冬期装備は考えられないほど遅れていた。例にもらずドイツの装備は理想的なものを想定し、ロシアにおける冬期装備の準備を策定していたにもかかわらず、その配備は遅々として進まなかった。その装備はこの戦闘の冬季戦闘のどこに配当されたかと思うほどである。
土壌と気候・焦土作戦
ロシアの大地は内陸気候と土壌により、春と初冬には泥濘と化し、夏は乾燥、冬は厳寒の土地であった。春・初冬の泥濘の時期には移動はもとより、最低限の補給にも大きな影響を与えた。また、冬季の厳寒における戦線の維持も重大な問題であった。だがこれは攻められる側のロシアにとっては有利なことであった。大地そのものが要塞であり、毎年早くに訪れる冬将軍も侵略者を苦境に陥らせるのである。そしてさらに攻略する軍を苦しめるために行われるのが焦土戦術である。
以上のことから、夏季にドイツ軍の攻勢・反撃を行うが冬には装備の不備から防戦に回り、赤軍は夏・冬に攻勢・反撃を行った。ナチス・ドイツ軍は電撃戦の成功を信じたのか、1942年(バルバロッサ)、1942年(ブラウ)でも冬季装備を全くと言っていいほど装備していなかった。
冬戦争におけるフィンランド国防軍との戦闘では醜態を晒した赤軍であるが、ドイツとの戦いでは日本との戦争に備えてシベリア方面にいた精鋭軍を投入できたことも大きかった。
かつて焦土作戦を展開し大北方戦争でスウェーデンを、祖国戦争でナポレオン率いる大陸軍を撃退したロシアは、三度同じ戦略を決行することは明白であった。もっともこの作戦は、ロシア側にとっても多大な犠牲を強いることになった。
のちに、ソ連赤軍が攻勢に転じドイツ軍が防戦に回ると、ナチス・ドイツ軍は同じようにソ連領土内を焦土としていった。このことにより多くの都市は廃墟となった。戦争末期になるとヒトラーはドイツ国内の生産設備を破壊するよう命じている(ネロ指令)。
パルチザン
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同盟国
戦況の変化により各国は同盟する陣営を変えた。枢軸国側は一枚岩ではなく、長年問題を抱える隣国同士(ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア)が枢軸側として同盟していたこともあり敵側にまわることにより戦争状態に入ることに対して問題を感じることなく対応することもあった。
連合国における東部戦線の位置

ソ連に輸送されるイギリスのマチルダII歩兵戦車。1941年10月17日
ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を見る限りにおいて侵略国であると考えられる。ポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国などの隣国に対しての行動は明らかに侵略そのものとみられた。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。ナチス・ドイツが目論んでいるロシアの植民地化は地政学でいうランドパワーとしての地位を確立することになる。連合軍の目的は全体主義国家でありランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。連合国にとってソビエトはその対象であるのか。共産主義を嫌っていることで知られるイギリスの首相チャーチルは、ナチス・ドイツとの戦争に勝利するという何事にも変えることの出来ない目的を遂行するために、「敵の敵は味方」として自身の信念を曲げてでも共産主義国家であるソ連と手を握るという判断を下すのである。
独ソ戦が始まると、それまでたびたびソ連を非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定したレンドリース法(武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年に目立ちはじめ、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。大半の援助物資はペルシア回廊を経由して供給された。大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったと言える。
航空機、戦車などの正面装備、トラック、ジープ、機関車、無線機、野戦電話、電話線などの後方支援のための物資、さらに缶詰、靴、ブーツのような一般工業製品から銅、アルミニウムといった原材料まで、さまざまな援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が兵站と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連では後方支援と生活のための物資が著しく不足していたためである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。
スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはでき ない」と。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年にノルマンディー上陸作戦が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。
そしてソ連は獲得したポーランド東部領土の承認を英米に求め、ポーランド亡命政府とソ連の関係が悪化すると、ポーランド亡命政府との関係を絶つよう英米に要求を行った。結果としてポーランド国境についてはソ連の要求が通り、戦後ポーランドは大きく西に移動する形となった。
連合国の勝利がほぼ確定的となった1944年になると、イギリスはソ連の東欧支配、さらには地中海への進出に警戒心を見せるようになった。モスクワ会談ではチャーチルとスターリンは「パーセンテージ協定」を締結し、東欧に対するソ連の優越権を認める一方で、地中海へのソ連の進出を食い止めようとした。しかし後のポツダム会談でソ連はさらに進出の意向を示す。共通の敵を失った連合国の列強は再びイデオロギーの対立に立ち戻り、冷戦という対立軸へと向かうことになる。
戦争犯罪
ナチズムにおいてスラブ人は劣等民族として扱われており、またイギリスの海上封鎖によって食糧難に陥っていたドイツでは、ソ連の土地から食糧を収奪することが喫緊の課題であった。占領地域に民族ドイツ人を植民し、ドイツ領土化するという「東部総合計画」はこの時期に建てられたものである。四カ年計画庁と食糧次官ヘルベルト・バッケは、ドイツが戦争を遂行するためには、3年間現地において国防軍が食糧を調達することが必要であると試算している[28]。バッケらはこの食糧収奪によって数百万人のロシア人・スラブ人を結果的に餓死させるという計画を立案していた(飢餓計画)。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込んでいた[28]。ゲーリングの大都市の占領は「望ましくなく、包囲して餓死させるべきである」という発言もこれにつながっている[29]。
また、親衛隊によって組織されたアインザッツグルッペンは、占領地域の治安維持のためとしてユダヤ人・共産主義者・パルチザンの検挙・殺害を組織的に行った。ドイツ占領地ではホロコースト実行のために親衛隊が活発な活動を行い、国防軍もこれに協力した(清廉潔白な国防軍)。
一方で、ソ連軍は敵の捕虜に対して苛酷な労働を課した(ソ連は捕虜の待遇を定めたジュネーブ条約を批准していなかった)。ソ連軍が東欧に侵攻すると報復の対象は民間人にも及び、激しい略奪と暴行が繰り返された。
対敵協力者
ドイツの捕虜になったソ連軍将兵や民間人のなかには、アンドレイ・ウラソフ将軍が組織したロシア解放軍やヒヴィなど、対独協力者となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連出身者が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。
戦後、ソ連政府は「裏切り者」に対して容赦をせず、対独協力者としての過去が判明すれば、銃殺や絞首刑に処されたり、コルィマ鉱山等のシベリア各地への追放を受けた。
また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥やフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ将軍など、捕虜になった後に反ナチ運動に参加した者も存在した。
影響
ドイツは戦争によって敗北し、ナチス政体は崩壊、アメリカ・ソ連・イギリス・フランスによる分割占領を受けることとなった(連合軍軍政期 (ドイツ))。その後東西両陣営の対立により、ドイツ連邦共和国 (西ドイツ)およびドイツ民主共和国(東ドイツ)の2国に分断されることとなった。この分断状態は1990年のドイツ再統一まで続くことになる。さらに東プロイセン等を含むオーデル・ナイセ線以東の領土を喪失し(旧ドイツ東部領土)、これらの土地や東欧に住んでいたドイツ人はドイツ本国へと追放された(ドイツ人追放)。また戦争賠償として、ドイツ国内の原料や生産設備が現物徴収され、ソ連軍の捕虜は労務による賠償を負わされた(第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償)。
独ソ戦は連合国の対ナチス・ドイツ戦争の中で最大の戦域であり、それに膨大な損害を出しながら勝利したソ連の威信は極めて大きなものとなり、戦後秩序における超大国としての位置を確立した。また新領土としては東プロイセンのケーニヒスベルクとその周辺地域、カーゾン線以東の旧ポーランド領土を獲得している。またソ連は占領した東欧地域の政権を社会主義化し、自由な選挙によって政体を決定するという連合国間の合意は反故となった。アメリカ合衆国・イギリスとの摩擦は大きくなり、冷戦への道に至ることになる。
ドイツが降伏した日はヨーロッパ戦勝記念日として現在でも各地で式典が行われている。2004年には国際連合総会において、5月8日と9日が第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日と定められている。
評価
ドイツの敗戦40周年にあたる1985年5月8日、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領がドイツ連邦議会で記念の演説を行った際に次のように述べている。
「五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれている。ヨーロッパの内戦は終わり、古いヨーロッパの世界は崩れ去っていった。歴史学者ミヒャエル・シュテュルマー教授の言を借りれば『ヨーロッパは戦い尽くした』のである。停戦の直前、東西から進撃してきた米ソ両軍兵士のエルベ河畔での邂逅は、さし当って、ヨーロッパの一つの時代が終わったことのシンボルである」[30]。
エマニュエル・トッドはその著書『帝国以後』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。1944年6月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるベイジル・リデル=ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考えれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲的精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された」と述べている[31]。
また、1985年、当時は東ドイツの同地にかつての米ソ兵が集まって往時をしのび合った。
文献
- ソ連側から
- 『第二次世界大戦史―ソ独戦と対日戦』、国民文庫社、1954年
スターリン『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』、清水邦生訳、国民文庫社、1953年- N.チーホノフ 『レーニングラード』、創元社、1952年 - レーニングラード戦を題材にソ連側から描かれた小説
- Harrison E. Solisbury 『独ソ戦:この知られざる戦い』、早川書房、1980年 - 米人記者がソ連側から見た独ソ戦
- Theodor Plievier 『モスクワ』 金森誠也訳、フジ出版社、1986年、ISBN 4-89226-069-X - ソ連側から描かれた独ソ戦の小説
- David M.Glantz / Jonathan M.House 『独ソ戦全史;「史上最大の地上戦」の実像』 守屋純訳、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-901173-8 - ソ連側から見た独ソ戦
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ 『ボタン穴から見た戦争』 三浦みどり訳、群像社、2000年。 - 原題は『最後の生き証人』。当時子供だった人々へのインタビュー集- アントニー・ビーヴァー 著、川上洸 訳、『赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート 1941-1945』、白水社、2007年
- ドイツ側から
井上鍾編 『モスクワへ、独逸宣伝戦闘隊写真報告第一報』、番町書房、1942年 - 、昭和17年に出版された写真集
パウル・カレル 『バルバロッサ作戦』 松谷健二訳、フジ出版社、1971年- パウル・カレル 『焦土作戦:ソ連の大反攻とヒトラーの敗走』 松谷健二訳、フジ出版社、1972年
- Jürgen Thorwald 『幻影、ヒトラーの側で戦った赤軍兵士たちの物語』 松谷健二訳、フジ出版社、1979年 - ソ連人対独協力者の運命
- パウル・カレル Unternehmen Barbarossa im Bild: Der Rußlandkrieg fotografiert von Soldaten, Ullstein, 1985, ISBN 3-550-08509-5 - ドイツ兵士の撮った写真に見る独ソ戦
- Richard Muller 『東部戦線の独空軍』 手島尚訳、朝日ソノラマ、1995年、ISBN 4-257-17295-9
- Werner Maser 『独ソ開戦、盟約から破約へ、ヒトラーVSスターリン』 守屋純訳、学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400983-2 - スターリンの戦争準備
クルト・マイヤー 『擲弾兵:パンツァー・マイヤー戦記』 松谷健二訳、学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400984-0 - 武装親衛隊指揮官の回顧録 - フジ出版社版の復刻
ボードゲーム
- 独ソ戦全体
- 『Sturm Nach Osten』(WWW、シックス・アングルズ別冊第8号)1982年
- 『Russian Front』(Avalon Hill、ホビージャパン)1985年
- 『The Russian Campaign 2/独ソ戦2』(Jedko Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第33号」)1986年
- 『失われた勝利』(エポック社、サンセットゲームズ)1986年
- 『War for the Motherland』(Rampart Games、シックス・アングルズ第9号)1994年 - 山崎雅弘デザイン
- 『Russia Beseiged』(L2 Design Group、国際通信社「コマンドベスト第10弾」)2004年
- 『East Front II』(Columbia Games)2006年
- 『NO RETREAT!』(Victory Point Games、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第1号」)2008年
- 『The Barbarossa Campaign/独ソ戦ソリティア』(Victory Point Games、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第3号」)2010年 - 1人用ゲーム
- バルバロッサ作戦
- 『1941』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第45号」)1981年
- 『独ソ電撃戦』(エポック社、国際通信社「コマンドマガジン日本版第57号)1981年
- 『Fire in the East』(GDW、ホビージャパン)1984年
- 『モスクワ電撃戦』(翔企画SSシリーズ、国際通信社「コマンドマガジン日本版第75号」)1988年 - 中黒靖デザイン
- 『Blitzkrieg '41』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第7号」)1989年
- 『Army Group Center』(シックス・アングルズ第12号)1992年
- 『真・バルバロッサ作戦』(ゲームジャーナル1号)2001年 - 鈴木銀一郎デザイン
- 『Barbarossa: The Russo-German War, 1941-45』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第87号」)2008年
- 『激闘レニングラード電撃戦』(ゲームジャーナル49号)2013年
- 『バルバロッサ作戦』(国際通信社「ウォーゲームハンドブック2014」)2014年
- スモレンスク
- 『スモレンスク攻防戦』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第74号」、「コマンドベスト第13弾」)2007年
- 『A Victory Denied/激闘!グデーリアン装甲軍』(Multi-Man Publishing、ゲームジャーナル35号)2009年
- モスクワ
- 『Operation Typhoon』(SPI、ホビージャパン)1978年
- 『東部戦線:冬季戦41-42』(アドテクノス、ゲームジャーナル22号)1984年
- 『Battle for Moscow』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第39号」)1986年
- 『The Last Stand at Moscow/モスクワ攻防戦』(シックス・アングルズ第11号)2008年 - 山崎雅弘デザイン
- 『モスクワ '41』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第84号」)2009年 - 中黒靖デザイン
- 『Roads to Moscow』(GMT Games)2013年
- 青作戦・スターリングラード
- 『Drive on Stalingrad』(SPI、サンセットゲームズ)1977年
- 『Battle for Stalingrad/スターリングラード攻略』(SPI、ホビージャパン、シックス・アングルズ別冊第1号)1980年
- 『スターリングラード』(エポック社、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第4号」)1983年
- 『Stalingrad Pocket』(The Gamers、国際通信社「コマンドマガジン別冊第5号」)1992年
- 『Paulus' 6th Army』(シックス・アングルズ第10号)2005年 - 山崎雅弘デザイン
- 『スターリングラード強襲』(ゲームジャーナル19号)2006年
- 『激闘スターリングラード電撃戦』(ゲームジャーナル47号)2013年
- ヴェルキエ・ルキ
- 『White Death』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第96号」)1979年
- 『Velikye Luki/ヴェリキエ・ルキ攻防戦』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン日本版第76号」)2000年
- クルスク
- 『Kursk: History's Greatest Tank Battle, July 1943/クルスク大戦車戦』(SPI、シックス・アングルズ別冊第3号)1980年
- 『Zitadelle: Duel for Kursk/ツィテダレ作戦:クルスクの決戦』(WWW、国際通信社「コマンドマガジン別冊第4号」、シックス・アングルズ第13号)1992年 - 山崎雅弘デザイン
- 『Drive on Kursk』(Decision Games「S&T#253」、国際通信社「コマンドマガジン日本版第93号」)2008年
- ハリコフ
- 『ハリコフ1941-1943』(翔企画SSシリーズ、シックス・アングルズ第8号)1991年 - 山崎雅弘デザイン
- 『Ring of Fire』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン別冊第18号」)1994年
- 『激闘!マンシュタイン軍集団』(ゲームジャーナル4号)2002年
- その他
- 『Army Group South/ドイツ南方軍集団』(SPI、サンセットゲームズ)1979年 - クワドリ(キエフ、ロストフ、星作戦、コルスン)
- 『48th Panzer Korps』(Pacific Rim、国際通信社「コマンドマガジン日本版第17号」)1991年
- 『Berlin '45 The Nightmare Ends』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第3号」)1992年
- 『Budapest 1945』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第13号」)1994年
- 『Forgotten Axis: Murmansk 1941』(GMT Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第63号」)1999年
- 『Ukraine '43』(GMT Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第60号」)2000年
- 『Drive to the Baltic!/死闘! 北方軍集団』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン日本版第34号」)2000年
- 『ウクライナ'44』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第70号」)2006年 - 中黒靖デザイン
- 『Hongrie 1944-1945/ハンガリー戦役1944-45』(Vae Victis#78、国際通信社「コマンドマガジン日本版第100号」)2008年
- 『レッドタイフーン』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第85号」)2009年
- 『Battle for Korsun』(Chris Harding Simulations、国際通信社「コマンドマガジン日本版第97号」)2010年
- 『1940: What If』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第103号」)2010年 - 仮想戦
- 『Army Group Narwa/激闘、ナルヴァ軍集団』(Three Crowns Game Productions、国際通信社「コマンドマガジン日本版第112号」)2012年
- 『ルントシュテットの戦い』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第109号」)2013年
脚注
^ 1944年10月18日以降は矢十字党政権のハンガリー国民統一政府
^ 正式な対ソ宣戦布告は行わなかった
^ ノルマンディ・ニーメン
^ en:No. 151 Wing RAF
^ イアン・カーショー 1999, pp. 194、214.
^ 児島襄 & 第三巻, pp. 333-336p.
^ 芝健介 1995, pp. 68.
^ ヨースト・デュルファー 2010, pp. 86.
^ ジョン・トーランド & 1990年, pp. 370-371.
^ ジョン・トーランド & 1990年, pp. 405.
^ 「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」児島襄(文藝春秋社)ISBN 978-4167141387
^ 谷喬夫 2007, pp. 676.
^ イアン・カーショー 1999, pp. 194.
^ 児島襄 & 第4巻, pp. 110.
^ 歴史群像シリーズ43 アドルフ・ヒトラー 戦略編 P.93
^ 芝健介 1995, pp. 104.
^ イアン・カーショー 1999, pp. 218.
^ イアン・カーショー 1999, pp. 200.
^ 『ライフ 独ソの激闘』、P.188-191
^ 芝健介 1995, pp. 116.
^ 芝健介 1995, pp. 117-118.
^ 『ライフ ソ連軍の大反攻』、P.117, P.192
^ 『ライフ ソ連軍の大反攻』、P.181-184
^ 『ライフ ソ連軍の大反攻』、P.193
^ 大東亜戦争ここに甦る P.88
^ 井上(2006:242)
^ 「Engineers of Victory」Paul Kennedy- ^ ab谷喬夫 2007, pp. 677.
^ 谷喬夫 2007, pp. 678.
^ 荒れ野の40年
^ 帝国以後 P.121-122
参考文献
- イアン・カーショー 『ヒトラー権力の本質』 石田勇治訳、白水社、1999年(原著1991年)。ISBN : 978-4560028162。
- 井上茂子「ドイツ降伏の日はいつか? : 第二次世界大戦終結をめぐる神話と伝説(月例会発表要旨新入生歓迎記念講演) (PDF) 」 、『上智史學』第51号、上智大学、2006年、 pp. 241-242、 NAID 110006426456。
- 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』第3巻、文藝春秋社、1992年。ISBN 978-4167141387。
- 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』第4巻、文藝春秋社、1992年。ISBN 978-4167141394。
- 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 10巻』 文藝春秋社〈文春文庫〉、1993年。ISBN 978-4167141455。
- ニコラス・ベサル著、加登川幸太郎 監修、横田恒 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「独ソの激闘」』、タイム ライフ ブックス
- ジョン・ショウ著、加登川幸太郎 監修、島村力/小山田義文 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「ソ連軍の大反攻」』、タイム ライフ ブックス
- 谷喬夫「東方支配と絶滅政策 (PDF) 」 、『法政理論』39 ( 4 )、新潟大学法学会、2007年、 pp.650 - 686。
ヨースト・デュルファー (2010年). “ドイツと三国軍事同盟”. 平成22年度戦争史研究国際フォーラム報告書. http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/06.pdf.- 芝健介 『武装SS もう一つの暴力装置』 講談社、1995年。ISBN 4-06-258039-X。
Christian Hartmann (2011). Unternehmen Barbarossa.Der deutsche Krieg im Osten 1941–1945 . C.H. Beck (München). ISBN 978-3-406-61226-8.
関連項目
- 独ソ不可侵条約
- 焦土作戦
- ゾルゲ事件
祖国戦争(ナポレオン軍のロシア侵攻)- 冬将軍
- ドイツ人追放
- 人海戦術
- 赤軍パルチザン
- ライヒスタークの赤旗
ソビエト連邦における外国人強制労働- ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働
- ソビエト連邦におけるハンガリー人強制労働
- ソビエト連邦におけるイタリア人強制労働
- ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為
- ソビエト連邦による戦争犯罪
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