アール・エフ・ラジオ日本

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アール・エフ・ラジオ日本
Radio Nippon Co.,LTD.
種別
AMラジオ放送
放送対象地域
神奈川県
系列
独立系
略称
RF
愛称
ラジオ日本
コールサイン
JORF
開局日
1958年12月24日
本社
〒231-8611
神奈川県横浜市中区長者町5-85
三共横浜ビル
演奏所
本社及び東京支社
〒106-8039
東京都港区麻布台2-2-1
麻布台ビル北館2階

親局 / 出力

横浜(川崎幸放送局) 1422kHz / 50kW
主な中継局
小田原 1485kHz JORL 100W
公式サイト
http://www.jorf.co.jp/
特記事項:番組の殆どは東京支社から放送されている。
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株式会社アール・エフ・ラジオ日本
Radio Nippon Company, Limited

JORF-yokohama.JPG
本社所在地の三共横浜ビル
(「明治安田生命ラジオ日本ビル」時代の2009年11月撮影)

種類
株式会社
略称
RF
本社所在地
日本の旗 日本
231-8611
横浜市中区長者町5丁目85
(三共横浜ビル)
設立
1958年(昭和33年)8月15日
(株式会社ラジオ関東として設立)
業種
情報・通信業
法人番号
8020001014163
事業内容
一般放送事業 など
代表者
代表取締役社長 宮林聡
資本金
1億円(2018年4月1日現在)
売上高
21億8838万円(2010年3月期)
営業利益
5744万円(2010年3月期)
純利益
6944万5千円(2018年3月期)
純資産
△9299万3千円(2018年3月31日時点)
総資産
12億8856万8千円(2018年3月31日時点)
従業員数
38人(2010年4月1日現在)
決算期
3月
主要株主
日本テレビ放送網(64.41%)
東芝(14.29%)
主要子会社
ラジオ日本クリエイト
ラジオ日本音楽出版
関係する人物
河野一郎
遠山景久
小林與三次
外部リンク
http://www.jorf.co.jp/ (日本語)
特記事項:日本テレビホールディングスの非連結子会社。
1981年(昭和56年)10月1日に株式会社ラジオ関東から商号変更。
同局では、送信所・中継局を放送局と称する。
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ラジオカー「浜っ子・浜太郎」(シボレー・アストロ)


株式会社アール・エフ・ラジオ日本(アール・エフ・ラジオにっぽん)は、神奈川県を放送対象地域として中波放送(AMラジオ放送)を実施する特定地上基幹放送事業者である。


通称はラジオ日本。旧社名はラジオ関東。2018年現在、資本的には日本テレビホールディングスの傘下企業となっている[1]




目次





  • 1 概要


  • 2 「社会の木鐸」宣言

    • 2.1 会長解任、「社会の木鐸」の終焉


    • 2.2 「社会の木鐸」終了から現在



  • 3 事業所


  • 4 送信所


  • 5 資本構成

    • 5.1 2018年1月1日


    • 5.2 過去の資本構成



  • 6 沿革


  • 7 番組・オープニング/クロージング・時報


  • 8 所属アナウンサー

    • 8.1 男性


    • 8.2 女性



  • 9 元アナウンサー

    • 9.1 男性


    • 9.2 女性



  • 10 アナウンサー以外の過去の在籍者


  • 11 その他


  • 12 脚注


  • 13 関連項目

    • 13.1 関連人物


    • 13.2 関連放送事業者



  • 14 外部リンク




概要


ラジオネットワークに属さない独立放送局であるが、ラジオ関西、岐阜放送と提携して番組を相互供給している[2]


かつては極東放送(現:FM沖縄)ともネットを組んでおり、この4地区(神奈川県・兵庫県・岐阜県・沖縄県)のみの天気予報を放送していた時期もあった。


AMステレオ放送は実施しなかったが、radikoにはステレオで配信している[3]


長期にわたる聴取率低迷と経営の混乱(#「社会の木鐸」宣言参照)から、日本テレビ(日テレ)の資本参加を受け、傘下に入った。日本テレビホールディングス(NTVHD)の公式サイトでも「日本テレビ系ラジオ中波放送」として紹介され、中堅アナウンサーが輪番制でアール・エフ・ラジオ日本に出向したり、日本テレビ協賛番組(坂上みきのエンタメgo!go!、小鳩の愛、わたしの図書室、他)が放送されたりしている。日本テレビが放送持株会社体制に移行してからは旧・日本テレビたるNTVHDから新・日本テレビの子会社に異動しており、NTVHDから見たら孫会社にあたる。


神奈川県の局でありながら、日本テレビ・読売新聞社が資本に関連していたため、いずれも東京都が本拠である読売ジャイアンツ(東京ドーム主管試合)、東京ヴェルディ1969(味の素スタジアム・国立霞ヶ丘陸上競技場他都内主管試合)において広告看板(なんだろうマーク付き)を掲示したことがある[4]


なお、FM補完中継局(ワイドFM)用として92.4MHzが割り当てられており[5]、2019年(平成31年)1月31日に総務省関東総合通信局から無線システム普及支援事業費等補助金の交付決定を受けている[6]


南関東1都3県の中波局で唯一、中波の中継局を持つ。



「社会の木鐸」宣言


ラジオ関東は、開局以来「洋楽のラジ関」の通称で親しまれ、イベントでラジオ日本が出展するブースには、決まって自慢の洋盤ジャケットコレクションが掲示された。


また、その後も女性アイドル番組など幅広く扱っていた[7]他、1970年代後半には吉崎四平プロデューサーがコールサインの「JORF」を「JOロックフレンズ」と読ませ、ロック音楽に力を入れた[8]


しかし、創業に尽力した河野一郎の意を受けて経営にあたった遠山景久は、1977年(昭和52年)に巨人戦ホームゲームの独占中継権を獲得したことに乗じてワンマン体制を強化させ、社名を「アール・エフ・ラジオ日本」に変更した後の1982年(昭和57年)には、「社会の木鐸」宣言を行い、若者向け番組を敵視し大幅に削減。反共主義色の濃い論説や演歌の多い、中高齢層対象番組中心に編成を一変させ、タクシーやトラックの運転手、一部保守的リスナー層に浸透した一方で、全体的には大幅な聴取率低下を招いたため、多くのスポンサーが撤退し、経営悪化が深刻になった。


神奈川の県域放送として免許されたが、南関東全域(神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県)で聴取できる実態があり、遠山時代には東京支社に社員の9割が配置されるなど、東京支社が実質的な本社・演奏所として機能していた。1986年(昭和61年)に横浜市土地開発公社が払い下げた横浜市中区の公有地(現在の登記上の本社所在地)が「地元の放送は防災公報等の公共性がある」ことを考慮し、実勢価格の半額以下で任意譲渡されたにも関わらず、建築計画には演奏所も送信機もアンテナ塔も無い単なるテナントビルである事が暴露され、慌てて放送設備等を備えた計画に変更されるなど、社会的非難を浴びる問題も生じた。


会長として従前権勢を揮っていた遠山は、大喪の礼前後の歌舞音曲自粛を経た1989年(平成元年)4月以降、若者向け番組の完全排除に踏み切る[9]。さらには、意に沿わぬ局員を徹底的に左遷・解雇し、アナウンサーをキーパンチャーに異動して告訴されたり、管理職研修を自衛隊で行ったり、最盛期には150名以上居た社員を30数名まで減じるなど、恐怖政治的な人事・労務策を敢行した。



会長解任、「社会の木鐸」の終焉


1993年(平成5年)12月21日、遠山はこの日に実施される予定だった取締役会に遅刻。しかし遠山が「取締役会は定時に開催すべし」と連絡したことで、その日の取締役会は遠山が定刻に来ないまま開始された。本人到着を待つ間、長年の遠山独裁に不満を募らせていた遠山以外の同局幹部は、その席上で(遅刻している)遠山の解任を緊急発議、全会一致で遠山を「公共の電波を預かる放送会社の代表として相応しくない」という理由で電撃解任。遠山が取締役会に到着した時には既に手遅れで、そのままワンマン体制に終止符が打たれた。これに先立つ同年3月、同局は巨人戦ホームゲーム独占中継権を失って、遠山は主要提携先の読売新聞社から見放された形になっており、経営破綻は時間の問題だった。


後任社長には、外部から解任劇を筋書きした小林與三次と同じく、読売新聞・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。外山は遠山の負の遺産の整理を進め、1994年(平成6年)2月に「乱脈経営で会社に損害を与えた」として遠山を告訴し、遠山の土地・家屋を差し押さえて、一族所有の同局株式を日本テレビに譲渡させ、事実上の日本テレビ傘下に納めたことで、混乱に一応の終息を見た。これにより経営破綻寸前であった同社はそれを免れ、以後数年間にわたって再建した[10]



「社会の木鐸」終了から現在


「社会の木鐸」終了後、編成方針については、当初は競合他局との差別化を図る意図から劇的な変化を避け、長年にわたりミッキー安川を複数番組で重用し、没後も実子のマット安川を起用している他、演歌番組も多く編成するなど、高齢者志向を続けていた。また、報道面では2009年(平成21年)11月に深夜放送「ラジオ時事対談」を開始する、議員のトーク番組が多い等、遠山時代の名残だけでなく、現在提携関係にある読売新聞・日本テレビの影響もあり保守的傾向となっている。


2000年代以降には以前排除されたアイドル系タレントが参加する若者向けの番組が主に週末を中心に増えつつあり、また『土曜の夜ですウハウハ大放送 アニメストリート』といった、アニラジを復活させたりとイメージ払拭のキャッチフレーズに「こんな番組もやってます」として夜のアイドルパーソナリティの写真を中心に散りばめた広告戦略を打っている。さらに2015年春から深夜枠「ラジオ日本NEXT」を開始し、アイドル番組枠を大幅に増やした。一方2016年秋から、諸事情により、形式的にはDJを入れ番組と編成しているが実態はフィラーと言う枠(ミュージックコンボイ、ザ・スタンダード、Midnight Mix、フォーエバーミュージック、ミュージックセレクション)も深夜帯を中心に現れている[11]



事業所














事業所所在地備考
本社
神奈川県横浜市中区長者町5-85 三共横浜ビル
登記上本店
東京支社
東京都港区麻布台2-2-1 麻布台ビル北館2階
番組の大半をここから放送、

マスター(主調整室)設備もここに設置されている。


関西支社
大阪府大阪市北区梅田1-3-1-1100 大阪駅前第一ビル


送信所


放送時間は5:00起点の24時間放送(放送機器メンテナンスのため、日曜深夜(月曜未明)1:00 - 5:00は休止)。


同局では、送信所・中継局を放送局と称する。
































親局
コールサイン
周波数
出力
備考

横浜
JORF
1422kHz
50kW

  • 南西向きの指向性が有る。
中継局
コールサイン
周波数
出力
備考

小田原
JORL
1485kHz
100W

  • 本局の電波が届きにくい県南西部を補完し、また特に海水浴シーズンの
    渋滞情報を伝える目的で、1981年(昭和56年)7月20日に開局した。


  • 2018年3月まで「RADIO WEST」の通称を用い、平日午後(末期は金曜午後のみ)に本局とは別のローカルワイド番組
    (小田原支局廃止後は横浜本社制作)を放送していた。

  • 開局当初は小田原駅前にローカル番組用スタジオ(小田原支局)を擁していたが、
    その後酒匂川河畔に送信所を独立させて廃止した。
    ただし、周波数・出力・コールサインは変わっていない。

予備送信所
コールサイン
周波数
出力
備考

野毛山

1422kHz
1kW

  • 別名:野毛山無線基地兼非常用予備送信所。

  • 元本社演奏所跡地の横浜市西区老松町(野毛山の山腹)に所在し、
    1999年(平成11年)3月に建替竣工。

  • 建替前に荒廃した旧局舎上の鉄塔スペースを、行政当局に無断で
    タクシー用MCA無線基地に提供し賃料収入を得ていたため、問題化したことがある。


資本構成


企業・団体は当時の名称。出典:[12][13][14][15][16][17]



2018年1月1日








資本金授権資本発行済株式総数
1億円500億円3,500,000株












株主株式数比率
日本テレビ放送網2,254,369株64.41%
東芝
0,500,000株
14.28%
日本テレビ小鳩文化事業団
0,278,910株

07.96%


過去の資本構成







沿革



  • 1958年(昭和33年)

    • 8月15日 - 株式会社ラジオ関東を設立。ラジオ神奈川、湘南放送、神奈川放送の免許申請を一本化。河野一郎の政治力が強く働いた。

    • 12月24日 - 周波数1480kc[18], 出力1kW で放送開始。全国40番目の開局。



  • 1959年(昭和34年)10月 - 出力を10kWに増力


  • 1960年(昭和35年)

    • 3月2日 - 市立横浜公園体育館で、ラジオ関東主催『歌謡曲ゴールデン・ヒット・ショー』公開録音の開門時に、将棋倒し事故発生。死者12名、重軽傷者14名(横浜歌謡ショー将棋倒し事故)。


    • 6月15日 - ただ一局、国会議事堂で安保反対デモを実況中の島碩弥アナウンサーが、鎮圧に投入された機動隊員に殴打される模様が生中継されたため、多くの聴取者に安保闘争の実態を知らせることとなった。島は「機動隊に殴られました、暴力です。ただ暴力があるのみ、これが日本の現実です」とレポートした。


    • 12月6日 - 郵政省(現ː総務省)に、テレビ放送免許申請[19]。申請は却下される。



  • 1964年(昭和39年) - 東京支社を中央区銀座から港区麻布台の麻布台ビルに移転。この頃から、実質的な本社機能を横浜から東京へ移転させる。


  • 1965年(昭和40年)9月18日 - 台風取材中のラジオカーが晴海埠頭から東京湾に転落。記者・アナウンサー6名水死


  • 1966年(昭和41年)10月3日 - 日本初の終夜放送『オールナイト・パートナー』放送開始


  • 1968年(昭和43年)4月 - 周波数を1420kcに変更


  • 1971年(昭和46年)12月 - 出力を30kWに増力すると同時に、指向性アンテナに改造。


  • 1974年(昭和49年)10月 - 『横浜音楽祭』開始(在京ラジオ局による歌謡賞レース序盤の重要な大会であった)。


  • 1977年(昭和52年)11月 - 読売新聞社と後楽園球場での巨人戦ラジオ中継独占契約を締結。


  • 1978年(昭和53年)

    • 1月 - ニュース提供元を毎日新聞社から読売新聞社に変更(神奈川新聞社配給の『京浜ニュース』を除く)
      • 読売系列局の日本テレビとの関係が強化された結果、ニュース番組は、夕方の『京浜ニュース』(開局当初から2003年(平成15年)9月まで放送された)を除き、読売から配給を受けるようになった。それまでは毎日[20][21][22]からニュース提供を受けていた。


    • 11月23日 - 国際電気通信連合 (ITU) の取り決めで周波数が9kHzステップへ移行。それに伴い、午前5時を以って周波数を1422kHzに変更。



  • 1981年(昭和56年)

    • 7月20日 - 小田原放送局(中継局、出力100W)開局

    • 10月1日 - 株式会社アール・エフ・ラジオ日本に商号を変更[23]すると同時に、川崎幸放送局(送信所)を50kWに増力。郵政省の行政指導を受けアンテナの指向性を強めたため近距離不感地帯が拡大し、営業にも悪影響が及んだ。



  • 1982年(昭和57年)4月 - 「社会の木鐸」宣言(硬派路線に転向。アイドル、ポップス番組を削減)


  • 1989年(平成元年)4月 - 若者向け番組を完全に排除


  • 1990年(平成2年) - 「大人の放送局」を編成の基本方針とし、50歳以上の聴取者をメインターゲットとする


  • 1991年(平成3年)11月2日 - 落雷による停電で川崎幸放送局が停波したが、自家発電装置が自動起動せず、更に道路渋滞で技術部員の到着が遅れ、2時間近く停波。郵政省等の監督官庁から厳重注意処分を受ける。


  • 1993年(平成5年)

    • 3月 - 独占していた巨人戦ホームゲームの中継権がNRNの文化放送とニッポン放送にも開放されたため、聴取率低下が深刻化し経営を圧迫

    • 12月 - 遠山景久会長を解任(取締役会によるクーデター、小林與三次が主導)



  • 1994年(平成6年) - 遠山一族所有のラジオ日本株式を日本テレビが買い取り、連結会社とする。川崎幸放送局の送信機をフルデジタル化


  • 1996年(平成8年)10月 - 明治生命ラジオ日本ビル落成に伴い、本社を横浜市西区老松町から現住所に移転。本社制作番組を増やしたが、一時的なものに終わった。キャッチコピーは「ハマって楽しくラジオ日本」


  • 1998年(平成10年) - 開局40周年。「WITH YOU 40」をキャッチコピーに展開(「WITH YOU」自体は2003年(平成15年)頃まで使用)。


  • 1999年(平成11年)6月27日 - 『日曜競馬実況中継』放送中に、川崎幸放送局が遠隔制御装置の故障で1時間半に亙って停波。担当者は社外の2000年問題対策研修会に全員出払っていたため、早急に復旧できなかった。一部で暴動・パニックも起き、抗議が殺到。[要出典]郵政省等から再度厳重注意処分を受ける。


  • 2000年(平成12年)12月1日 - BSデジタル放送開始に伴い、BS日テレラジオの制作を担当。ch.444にて「ヒーリングステーション」、ch.445にて「衛星版ラジオ日本(地上波サイマル中心)」を制作。


  • 2001年(平成13年)

    • 3月26日 - 開局日以来43年間続いていた夜の長寿帯番組『京急ミュージックトレイン』が終了。


    • 9月12日 - アメリカ同時多発テロで各局が終夜特別報道体制を敷く中、唯一通常番組を録音放送。



  • 2003年(平成15年)
    • 10月 - ターゲットを働き盛りの男性に絞り、「男のパワーステーション」のキャッチコピーを展開。


    • 12月9日 - 企業ロゴに日本テレビのマスコットなんだろうが加わった。



  • 2005年(平成17年)
    • 8月 - 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンの実況生中継を開始。

    • 10月 - ナイターオフの火曜 - 金曜 19:30 - 21:30を「ラジ関RETURNS」と題打ち、ラジオ関東時代に好評を博した『ポートジョッキー』、『全米トップ40』、『きのうの続き』の3番組を復活。



  • 2006年(平成18年)4月 - 千葉ロッテマリーンズホームゲーム(対巨人戦以外)の放送権獲得。『ラジオ日本ジャイアンツナイター』に加え、『ラジオ日本マリーンズナイター』を開始。


  • 2007年(平成19年)12月24日 - 開局50周年を前に、「ヒョッとして!?50年!」のキャッチコピーを展開、懐古番組を定期放送化。


  • 2008年(平成20年)

    • 2月27日 - 日本クラウンと提携し「Radi-on(ラディ-オン)」レーベル設立。第一弾「パパス&ナチョス」デビュー。


    • 8月1日 - 緊急地震速報運用開始。在京ラジオ局各局から4か月遅れての開始。


    • 12月23日 - 開局50周年となる12月24日を中心に50時間の連続特番を放送。



  • 2009年(平成21年)10月4日 - 『菊地亜美の1ami9』放送開始。以降、女性アイドルがパーソナリティを務める番組が増加。


  • 2010年(平成22年)1月18日 - 『勝負』シリーズを担当し、局の看板パーソナリティであったミッキー安川が死去。番組は息子のマット安川が引き継ぐ。


  • 2011年(平成23年)4月12日 - radikoでのサイマル放送開始。配信地域は本来の放送対象地域である神奈川県のほか、東京都・千葉県・埼玉県でも聴取が可能。(9月までは実用化試験配信で、10月以降本格運用)。


  • 2012年(平成24年)10月1日 - 「ラジオ日本開局55周年プレ・イヤー」と題し、月-金曜ワイドの一新(6:30 - 15:00)を核とした改編率43%にも及ぶ改編を実施[24]
    • ニュース提供を従来の読売新聞社単独からNNNを追加し、タイトルを『読売新聞ニュース』から『ラジオ日本ニュース』に変更。


  • 2013年(平成25年)

    • 5月 - 開局55周年を機に、「なんだろう」に代えて、親会社・日本テレビのマスコットキャラクター「ダベア」(通称:ラジオ日本ダベア)を新たなシンボルキャラクターとすることを発表(ダベアの顔が四角くなっていて、頭にアンテナが立っている)。


    • 7月1日 - radikoの配信地域を茨城県・栃木県・群馬県へ拡大。



  • 2014年(平成26年)4月1日 - 「radiko.jpプレミアム」による日本全国への配信が開始。


  • 2015年(平成27年)4月 - 毎日深夜帯に女性アイドルの担当する番組を編成する大改編を行う[25]。これに伴い「ラジオ日本深夜の解放区」枠は廃止。


  • 2016年(平成28年)6月 - SKハウジングが本社ビルの所有権を明治安田生命から譲受、「三共横浜ビル」と改称。


  • 2018年(平成30年)
    • 3月 - 「YUKKYのラジカルランド」終了をもって、小田原放送局独自編成を廃止。


    • 5月14日 - 開局60周年を記念し、ロゴマークとコミュニケーションマークを刷新(親会社・日本テレビと同じ字体で「ラジオ0本」と表記)[26]



番組・オープニング/クロージング・時報



いわゆる「社会の木鐸」宣言以降の混乱からは近年は落ち着いて来ているが[27]、毎月番組の突然の打ち切りや時間移動は絶えず、不安定な編成が続いている。極端なケースではタイムテーブルや公式サイト上の「本日の番組」並びに放送中番組名表示の変更が間に合わず、終了した番組名が表示されることもしばしばある。


前述の通り、実質的な本社機能を東京支社が担っていることもあり、生ワイド番組を含め、自社制作の殆どの番組は東京支社スタジオからの送出となっている。横浜本社では月 - 木曜 午後帯ワイド、本社ビル1階のラジアントホールでの公開録音などに限られている。


オープニング・クロージングのアナウンスは岡本美紀のものであるが、過去に男性アナウンサーが行ったものがある。いずれも「こちらは JORF アール・エフ・ラジオ日本、JORL アール・エフ・ラジオ日本小田原放送局です」というアナウンスが入っている。


1981年(昭和56年)秋頃に「なお、ラジオ関東は10月1日からアール・エフ・ラジオ日本と社名変更します」とのアナウンスがあった。


オープニング

毎週月曜 4:58:30頃からややアップテンポな音楽が始まり、「♪1422 ラジオ日本」と歌って終わる。その後岡本の声で、放送開始であることを告げる。その後、5:00の時報を挟んで月曜の朝一番の番組へと繋ぐ。


  • 4:58:30頃 放送開始

  • 4:59:30 コールサイン・周波数のご案内

  • 4:59:56 5時の時報※radikoではカット。

クロージング

毎週日曜 26:10(月曜 2:10)に、岡本の声で放送が終了することを告げる。クロージングでは「どちら様もごきげんよう」のフレーズも入り、その後はカーメン・ドラゴン指揮、キャピトル・シンフォニー・オーケストラが演奏するウェールズ民謡の「夜もすがら("All Through the night (Ar Hyd y Nos)")」が流れる。これは前身の「ラジオ関東」当時から使われているもの。


時報

時報はパイプオルガン的な音色の電子音で4秒前から「ソ・シ・ソ――ポーン」(“3, 2, 1”のカウントダウンではない)。1989年(平成元年)頃までは「ソ・シ・ソ」の部分がチューブラーベルの演奏であった(文化放送の1979年(昭和54年)までの時報と同様)。現在は、地方局と同じ音程の時報だが、「ポーン」と延ばさず「ポン」と鳴った瞬間に音が絞られる時報である。時報広告は少なく、散発的に聞かれるのみである。時刻案内もまれに女性の声で「○時をお知らせします」とある程度で、多くはされない。


インターバル・シグナル

メロディに合わせて「いちよんにぃにぃ、ラジオーにっぽーん」と歌う。開局60周年の2018年からは「いちよんにぃにぃ」の部分が「開局60周年」のアナウンスに差し替えられている。



所属アナウンサー



男性


  • スポーツ実況・報道他全般(★印のアナウンサーは中央競馬実況中継を担当しない。)

    • 内藤博之★


    • 加藤裕介★

      ラジオ福島から移籍、2009年(平成21年)7月に一時アナウンサー職から離脱するも2009年(平成21年)12月頃から再び音楽番組と競馬実況に戻る。現 営業編成本部業務担当部長。


    • 小林幸明★

    • 細渕武揚


    • 矢田雄二郎(岩手朝日テレビから移籍)


    • 堀江政史(契約・元テレビ金沢)


  • 中央競馬実況中継実況のみ(契約)

    • 宇野和男(元テレビせとうち → ラジオたんぱ)


    • 吉本靖(元ラジオたんぱ。以前は報道も担当していた)

    • 木村季康(元ラジオ福島。ごく稀に野球中継の実況も担当することがある)

    • 齋藤一平


  • 報道
    • 飯島理之(元エフエム石川)

    • 柴崎啓志(元福井エフエム放送)



女性


  • 報道
    • 佐藤友美


    • 田島祐子(毎週木曜日担当。ニチエンプロダクション所属。元テレビ新潟)


    • 小沢尚美(元テレビ山梨)


    • 田畑智佳子(元NHK京都放送局キャスター)


    • 吉見由香(元KBS京都アナウンサー)


    • 倉林知子(元さくらんぼテレビジョンアナウンサー)


  • 中央競馬実況中継実況のみ
    • 大村麻衣子


元アナウンサー



男性



  • 大野義和(退社後、tvk→FMヨコハマ、FMヨコハマでは後年取締役)


  • 窪田康夫(1958年 - 不明、文化放送から移籍)


  • 島碩弥(1958年 - 1995年、山陰放送から移籍)


  • 木島章夫(1958年 - 不明、九州朝日放送から移籍)

  • 永井敬二

  • 加賀佑治

  • 長崎節


  • 大林晃(退社後東京アナウンスアカデミー校長)


  • 林洋右(1980年 - 不明)


  • 樋口忠正(1961年(昭和36年) - 1998年) 定年後も引き続き競馬中継に出演していたが、2008年6月1日日本ダービー実況をもって競馬実況から引退。以降競輪実況を2010年3月まで担当。)


  • 田島喜男(不明 - 2003年、ラジオたんぱから移籍)

  • 竹脇義果


  • 内藤幸位(1962年 - 2000年)


  • 早川建二(1964年 - 2002年)


  • 橋本文雄(晴海埠頭への台風取材中に事故死)


  • 浅木勝(1965年 - 2001年)


  • 坂井隆夫(1965年 - 不明)


  • 工藤健策(1965年 - 不明)


  • 山田透(1975年 - 1983年、ニッポン放送へ移籍、後フリー、2000年 - 2003年一時復帰)


  • 武田肇(1975年 - 不明)


  • 染谷恵二(1978年 - 2005年3月、フリー)


  • 山本剛士(1984年 - 1990年代、ニッポン放送へ移籍)


  • 仙田和吉(1992年 - 2001年、毎日放送へ移籍)


  • 浅見源司郎(1993年 - 不明、日本テレビより出向)


  • 若林健治(1995年 - 1998年、2002年10月 - 2006年6月、日本テレビより出向、2007年12月・日本テレビ退職・フリー)


  • 小倉淳(1998年 - 2000年、日本テレビより出向、2006年8月・日本テレビ退職・フリー)


  • 山下末則(2007年 - 2008年、日本テレビより出向。営業職兼務。定年のため2008年3月で退社し、現在はスピーチコンサルティング会社経営)


  • 吉田填一郎(2003年 - 、日本テレビより出向。2008年6月ラジオ日本営業局へ異動。のちに常務取締役営業局長。2011年退職)


  • 佐藤一司(1998年 - 2010年、アナウンス職から異動)


  • 今井伊左男(2008年 - 2011年、日本テレビより出向。常務取締役総務局長、編成局長を歴任。報道、ナレーションなどアナウンス業務も担当。)


  • 瀧口俊介(石川テレビから移籍)


女性


  • 清水明江


  • 安藤八重子(1958年 - 1990年)

  • 森純子


  • 青津ナナ子(1959年 - 1992年)


  • 井口保子(1960年 - 1995年、日本初の競馬実況女性アナウンサー)


  • 岡本美紀(1962年 - 不明)


  • 石倉辰子(1964年 - 不明)


  • 竹内満佐美(1964年 - 不明、大相撲力士・雅山の母、旧姓不明)


  • 林紀子(元日本共産党参議院議員)


  • 深澤美津子(1969年 - 1990年)


  • 塚本美也子(→ 東京MXテレビ → フリー)


  • 大島典子(1995年 - 1997年、日本テレビより出向、その後『午後は○○おもいッきりテレビ』プロデューサーを務めた)


  • 山下美穂子(2003年 - 2005年3月、日本テレビより出向、後に同局に復帰)


  • 延友陽子(2005年4月 - 2006年9月、日本テレビより出向、後に同局に復帰)

  • 金丸幸代(ラジオたんぱ契約アナ → RFラジオ日本報道契約アナ → フリーアナウンサー)


  • 神原智己(2007年4月 - 2008年10月)


  • 坪内千恵子(ニュースアナは2009年12月まで、「ジャイアンツナイター」のナイターナビゲーターは継続)


  • 草野真梨子(2010年4月迄、『中央競馬実況中継』のみ出演。元さくらんぼテレビ)


  • 黒宮千香子(元山口朝日放送)


  • 鈴木沙和子(2010年(平成22年)5月 - 、元福井放送)


アナウンサー以外の過去の在籍者



  • 中村慶一郎(元報道部長・政治評論家)


  • 南丘喜八郎(元報道部長、取締役論説委員長、『月刊日本』主幹で出版元のK&Kプレス社長)


  • 品田英雄(現:『日経エンタテインメント』編集委員兼日経BPヒット総合研究所上席研究員)


  • 岩田暁美(元読売ジャイアンツ担当記者・ディレクター)


その他



  • 1958年(昭和33年)から1964年(昭和39年)まで、東急東横線の乗客向けに鉄道無線を使用して車内でニュースを放送していた。

  • 1964年(昭和39年)の旧ラジオ関東時代から、2011年(平成23年)まで日本中央競馬会の重賞競走『セントライト記念』に社杯を寄贈していた。尚、2012年(平成24年)からはサラ系3歳以上のオープン特別競走「ラジオ日本賞」が新設され、社賞が寄贈されている。


  • 1977年から1980年(昭和55年)代初頭まで、毎年夏休みに『夏だ!三浦だ!サマーフェスティバル』を、三浦海岸の特設会場で年度により京浜急行電鉄と共催していた。7月下旬-8月初旬の期間中は、アイドルや演歌歌手の歌謡ステージが日替わりで催され、その模様を月-金曜昼時に公開生中継していた。京浜急行電鉄は、品川発三浦海岸行臨時列車「ミュージックトレイン」(同局で同名の帯番組が存在)を運行した[28]。会場に向かう出演者が、ファンサービスとして、その臨時列車に同乗する場合もあった。

  • 「ラジオ関東」から「アール・エフ・ラジオ日本」に社名を変更する際、「ラジオ日本誕生」という社名変更告知のテレビCMを日本テレビとTBSテレビで放送した。


  • フジサンケイグループ各紙(産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジ)の番組欄では、名称を「RFラジオ日本」としている。同じフジサンケイグループのフジサンケイ ビジネスアイとSANKEI EXPRESSは、ラジオ・テレビ欄でアール・エフ・ラジオ日本を割愛している(在京民放AMラジオ3局と、同じ県域放送局のテレビ神奈川を始め、東京・千葉・埼玉の独立UHF放送局は掲載)。在京他紙・静岡新聞は「ラジオ日本」、中日新聞の長野県版と静岡県版は「ラジオ日本RF」と記載(ただし中日新聞の東京本社版である東京新聞の静岡県版では「ラジオ日本」と記載)。なお、新聞各紙の番組表に掲載されている問い合わせの電話番号は横浜本社ではなく、東京支社の番号である。


  • BSデジタル放送「BS日テレ」のBS445chでは、アール・エフ・ラジオ日本の一部番組の同時放送を行っていた(2005年(平成17年)9月30日付廃局扱い。かつてはテレホンサービスによる同時放送もあった)。

  • 2010年には、硬派なコンテンツの幅を広げるため、企業経営者をゲストに迎えるトーク番組『コーチングRadio』をコーチ・エィとのタイアップで放送した(3月1日から11月29日までの40回、毎週月曜日の23:30 - 24:00枠)。

  • 2011年(平成23年)に旗揚げされた女子プロレス団体・REINA女子プロレスの協賛スポンサーであり、同団体が認定・管理する王座を「ラジオ日本杯REINA世界女子王座」としている。

  • 結果として実現しなかったが、東京支社を日本テレビ麹町分室内に移転させる計画を立てていたことがある[29]


脚注


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  1. ^ 日テレホールディングス グループ企業一覧


  2. ^ 特に岐阜放送とは綿密に交換している[要出典]


  3. ^ 基本的に東京のスタジオから送出している番組に限る(但し、ジングルや効果音はモノラルの場合がある)、スポーツ中継ではモノラル配信となる。


  4. ^ 東京ヴェルディに関しては、2009年(平成21年)の日本テレビ資本撤退以降もスポンサーを続けていたが、2014年度限りで撤退した。


  5. ^ AMラジオがFMでも聞けるように・周波数割当へ


  6. ^ 関東地域におけるラジオの強靱化 《民放ラジオ難聴解消支援事業の交付を決定 2019年(平成31年)2月6日、関東総合通信局


  7. ^ 「社会の木鐸」宣言以前は、愛川欽也、榊原郁恵、三橋美智也らがDJの、月-金曜22時からの「電撃ワイド・ウルトラ放送局」がかなり話題になるなど、若年層向けの番組では、他局にひけをとらない人気があった。演歌歌手の三橋は初DJでノリ良い意外な一面を見せ、「フィーバー・フィーバー」の掛け声がカップラーメン「激めん」(東洋水産)CMにも用いられて“ミッチーブーム”を起こした。また全盛期の酒井法子が30分番組を持っていた(もっとも当時の防衛庁が提供していた)


  8. ^ 「QJ」63号、p125。


  9. ^ この影響で『林原めぐみのHeartful Station』が開始間もない1991年(平成3年)7月に突如打ち切り(制作局を同局と関係の深いラジオ関西に移し、ラジオ日本以外で番組を続行)になった(林原めぐみ『明日があるさ』学研、p58。ただし本文では局名は伏せられている)。


  10. ^ 花輪如一「ラジオの教科書」データハウス、p290-299


  11. ^ 特に「ラジオ日本NEXT」が22時台だった当時は、ノンスポンサー番組のため、プロ野球中継が1分でも食い込めばその回は放送休止となり「フォーエバーミュージック」に切り替えられた


  12. ^ “総務省 電波利用ホームページ”. 総務省. 2018年4月15日閲覧。


  13. ^ 日本民間放送連盟 『日本放送年鑑'78』 洋文社、1978年12月、171頁。


  14. ^ 日本民間放送連盟 『日本民間放送年鑑'92』 コーケン出版、1992年11月、257頁。


  15. ^ 日本民間放送連盟 『日本民間放送年鑑2003』 コーケン出版、2003年11月、279頁。


  16. ^ 日本民間放送連盟 『日本民間放送年鑑2015』 コーケン出版、2015年11月20日、299頁。


  17. ^ 日本民間放送連盟 『日本民間放送年鑑2016』 コーケン出版、2016年11月25日、306頁。


  18. ^ kc(キロサイクル)は現在のkHz(キロヘルツ)と同義。


  19. ^ 『民間放送十年史』(日本民間放送連盟・1961年12月1日発行)411頁第2部各社史録「ラジオ関東 年表」。


  20. ^ 看板番組のプロ野球中継でも、一部の曜日で大阪の毎日放送 (MBS) とネットワークを組んでいた( - 1964年(昭和39年))。


  21. ^ 毎日新聞社は、1951年(昭和26年)に「ラジオ日本」なる名称で民間放送の開局を目指していたが、読売放送(読売新聞社系)、朝日放送(朝日新聞社系、大阪の朝日放送と同じ計画)、東京放送(電通系)の競願各社と行政指導で一本化され、「ラジオ東京」(後に東京放送、現在のTBSラジオ)として開局した。当然ながら計画頓挫したこの「ラジオ日本」と、現在のアール・エフ・ラジオ日本は別物。


  22. ^ 毎日新聞社系列のRKB毎日放送(福岡県)が、東京支社に設置したスタジオの有効利用と関東地区への進出を目的に、神奈川県域放送での免許出願に向けて動いていた。結局、現在のアール・エフ・ラジオ日本に繋がる他社との競願に破れる形となり、RKBは関東地区進出を果たせずに終わってしまった。


  23. ^ 局名公募はあくまで表向きで、実際には当時の遠山景久社長の強い意向だった。中吊り広告などで「決定的瞬間 ラジオ日本誕生」と広告していた(10月以降、テレビ・ラジオCMも放送された)が、長年NHKが国際放送に「ラジオ日本(ニッポン)」の名を用いており、世界的に知名度が高かったため、NHKが善処を申し入れたものの、遠山が拒否した。やむなくNHKは、「ラジオ日本(ニッポン)」を1981年(昭和56年)5月に商標登録出願し、遠山に「ラジオ日本(ニッポン)」の名称使用を禁じた。更にニッポン放送も、名称が酷似して聴取者を混乱させると不正競争防止法違反で告訴したため、苦肉の策として社名の頭にコールサインの一部である「アール・エフ (RF)」を付けざるを得なくなった(ただし、放送では単に「ラジオ日本」のみアナウンスしているため、未だにニッポン放送やNHK国際放送と混同しやすく、NHK国際放送では国際テレビ放送(NHKワールドTV他)が開始されて以後の1996年以後は「NHKワールド」の冠を入れて放送するようにしている。なお前述の広告でも、一部でニッポン放送の社名変更と勘違いされていた)。


  24. ^ ラジオ日本 2012年10月改編 開局55周年プレ・イヤー 平日ワイドを一新 改編率43%、新番組が続々スタート!


  25. ^ 月-金曜深夜は「ラジオ日本NEXT」枠、土日深夜も女性アイドルが担当する番組を、それぞれ1時間ずつ放送。


  26. ^ ラジオ日本開局60周年を記念し、ロゴを刷新! ラジオ日本、2018年5月14日


  27. ^ 特に2013年春改編では女性アイドルのトーク番組を複数、新規に開始し、また集中的に放送する曜日を置いた。


  28. ^ 1975・1976年はニッポン放送が共催したため、臨時列車も当時の同局の周波数から「ハッピー1240」の名称で運行された。


  29. ^ “ラジオ日本、東京・麹町に東京支社”. 毎日新聞 DIGITALトゥデイ. (2003年2月28日)



関連項目


  • 演歌

  • 競馬中継


関連人物


  • 遠山景久

  • 大瀧詠一

  • ミッキー安川


  • マット安川(ミッキーの実子)

  • 芥川隆行

  • 鶴蒔靖夫

  • 夏木ゆたか

  • 南丘喜八郎

  • ハロー!プロジェクト


  • ドクター中松(1990年代に、番組『頭のよくなるラジオ』を提供兼出演。)


関連放送事業者



  • 日本テレビ放送網(NTV/NNN・NNS)


  • BS日本(日本テレビ系BS局)


外部リンク




  • AM1422kHzラジオ日本 公式ウェブサイト






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