勝沼町
かつぬまちょう 勝沼町 | |
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廃止日 | 2005年11月1日 |
廃止理由 | 新設合併 勝沼町、塩山市、大和村→甲州市 |
現在の自治体 | 甲州市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、甲信越地方 |
都道府県 | 山梨県 |
郡 | 東山梨郡 |
団体コード | 19304-6 |
面積 | 36.24km2 (境界未定部分あり) |
総人口 | 9,271人 (2003年) |
隣接自治体 | 塩山市、山梨市、東八代郡一宮町、 東山梨郡大和村 |
勝沼町役場 | |
所在地 | 〒409-1392 山梨県東山梨郡勝沼町勝沼756番地1 |
外部リンク | 町の公式サイト |
座標 | 東端:東経138度49分 西端:東経138度42分 南端:北緯35度37分 北端:北緯35度42分 |
ウィキプロジェクト |
勝沼町(かつぬまちょう)は、山梨県にあった町で、東山梨郡に属した。
目次
1 地理
2 歴史
2.1 先史・古代
2.2 中世
2.3 近世
2.4 近現代
2.5 沿革
3 交通
3.1 鉄道
3.2 道路
4 財政
5 関連項目
6 脚注
地理
県中央から西部、郡南東部、甲府盆地東端に位置。国中地域と郡内地方の境に位置する。方形の町域で、中央から西部は甲府盆地の平坦地で、突出した東部と南部は山岳地帯。東部の山間部に発する深沢川は日川へ合流して平野部を西流するほか、田草川や北西境には重川が流れる。
歴史
先史・古代
縄文時代中期の遺跡として、勝沼には釈迦堂遺跡群の文化圏に含まれる集落跡である宮之上遺跡がある。
甲府盆地東部は古代に仏教文化を先進的に受容した地域であるが、町域には古代豪族三枝氏の氏寺である大善寺をはじめとした古刹が分布する。また、柏尾山頂の柏尾山経塚は東国では早期の康正5年(1103年)銘をもつ鋳銅製経筒が発見されている経塚として知られる。
中世
中世には石和(笛吹市石和町)に本拠を置いた甲斐国守護・武田氏の所領があり、下岩崎には武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した岩崎氏の館跡がある。
町域には戦国期の武家居館である勝沼氏館が所在し、勝沼氏居館と中心とした町割が形成されている。勝沼氏居館は武田信虎が弟の信友を祖とする親族衆・勝沼氏の居館で、武田氏のが郡内領主の小山田氏を服従させると、郡内地方への目付として築造された館であるという。町域は甲州市塩山の黒川金山にも近く、近年には勝沼氏居館から金の加工に関わる金熔融物付着土器が出土していることも注目される。
近世
江戸時代に成立した九筋二領では、日川を境界に北部が山梨郡栗原筋に、南部が八代郡石和筋に属する[1]。領主支配は江戸時代初期は各村とも幕府直轄領となり石和代官所支配になったと考えられているが[2]、その後の変遷は各村で異なる[3]。勝沼村は宝永2年(1705年)から甲斐一国が幕府直轄領化される享保9年(1724年)まで甲府藩領に属する[4]。柏尾村は勝沼村に属するが大善寺領として独立していた[5]。旗本領、甲府新田藩領、御三家・田安家領も存在している[6]。小佐手村の大半は甲府勤番役知[7]。
勝沼村には甲州街道の宿場である勝沼宿が設置される[8]。「辻家文書」に拠れば、等々力村の万福寺では享保17年(1732年)から甲斐国では初となる富くじの興行が行われていたという[9]。勝沼村・上岩崎村・下岩崎村・菱山村の四ヶ村では甲州葡萄の栽培が、「和漢三才図会」『裏見寒話』など地誌類においては梨や柿と共に甲斐特産の果樹の総称である「甲斐八珍果」のひとつとして挙げられている[10]。
慶応4年(1868年)、大善寺付近において旧幕府方の近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊が新政府板垣退助率いる征東軍に駆逐されて敗走している(甲州勝沼の戦い)。
近現代
明治にも勝沼宿を中心に繁栄を続けた[11]。1903年(明治36年)に中央線が甲府駅まで開通するが、町域に鉄道駅は設置されなかったため、東山梨郡における交通・経済的中心地は塩山に移った[12]。その後、町域でも駅設置運動が起こり、1913年(大正2年)には菱山に勝沼駅が開設された[13]。
江戸時代後期においてブドウ栽培は勝沼の一部でしか行われなかったが、明治初期の山梨県令・藤村紫朗の主導した殖産興業政策においては果樹栽培やワイン醸造業が奨励された[14]。1877年(明治10年)には日本葡萄酒会社が設立され、フランスへも伝習生を派遣して醸造技術やワイン醸造に適した葡萄の栽培や品種改良に取り組んだ[15]。明治20年代から明治30年代にはブドウ栽培農家も増加し、宮光園をははじめ多数の醸造会社も設立された[16]。醸造用品種の品種改良や栽培技術の改良、販売方法など様々な試行錯誤が実施された[17]。戦時下においては減反政策が行われたこともあったが、戦後に飛躍的に発展した[18]。
戦後は峡東地域における中核都市として発達し、今日ではぶどうとワインの大産地として知られている。
また、街のシンボルマークとして明治時代に当時最先端のワイン醸造の技術を習得するためにフランスに派遣された高野正誠と土屋助次郎の2人の洋服姿の写真をモチーフにしたマークが町の各所に見られる。
沿革
1889年(明治22年)7月1日 - 町村制の施行により、近世以来の勝沼村が単独で自治体を形成。
1896年(明治29年)3月2日 - 勝沼村が町制施行して勝沼町となる。
1942年(昭和17年)5月10日 - 等々力村と合併し、改めて勝沼町が発足。
1954年(昭和29年)4月5日 - 菱山村・東雲村・東八代郡祝村と合併し、改めて勝沼町が発足。
2005年(平成17年)11月1日 - 塩山市・大和村と合併して甲州市が発足。同日勝沼町廃止。
交通
鉄道
東日本旅客鉄道
中央本線:勝沼ぶどう郷駅
道路
高速道路
中央自動車道:勝沼IC
一般国道- 国道20号
- 国道411号
財政
- 平成16年度決算
- 人口 9582人 (H17.3.31)
- 決算 歳入総額 43億8079万円 歳出総額 42億1764万円
- 実質単年度収支 -2812万円(赤字) 積立金取り崩し額 1億4803万円
- 標準財政規模 24億1433万円
財政力指数 0.38- 起債制限比率 9.3%
- 歳入のうちの地方税 21.1% 9億2615万円
- 歳入のうちの地方交付税 33.0% 14億4546万円
- 歳入のうちの地方債発行 13.1% 5億7480万円
- 歳出のうちの人件費 18.5% 7億8120万円
- 歳出のうちの公債費 15.1% 6億3634万円 (町債の返済)
- 積立金合計(財政+減債+特定目的)4億2947万円
- 地方債現在高 55億4113万円 (普通会計分のみ)
- 職員数 84名(うち技能労務職3名) 、消防職員0名(消防は一部事務組合)
- 職員一人あたり平均給料 30万8000円 (すべての職員手当を含まない、ボーナスにあたる期末・勤勉手当も含まない)
- 職員一人あたり人件費 930万円
関連項目
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脚注
^ 『山梨県の地名』、p.209
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.209
^ 『山梨県の地名』、p.209
^ 『山梨県の地名』、p.209
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210
^ 『山梨県の地名』、p.210